本丸へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/a8/ad0587e70f59c5c3925bd1b41c7d4beb.jpg)
本丸虎口を登ると
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/20/89d16d7674a945083068f79dd74996ca.jpg)
二の丸を見下ろしています。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/07/593c1f15f0920f5e58d19dcc1b75b916.jpg)
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安田氏と北条氏は同族です。
北条高広について
謙信時代の動向
大永4年(1524年)もしくは享禄3年(1530年)、北条氏の家督も務めていた安田氏の安田広春が没すると、北条氏は養子の北条高広、安田氏は養子の安田景元がそれぞれ継承する。 高広は越後の戦国大名である長尾氏、長尾為景・長尾晴景に仕え、戦功を積んでいたが、天文23年(1554年)、長尾氏に敵対する甲斐の武田信玄と通じて北条城において主君・長尾景虎に反乱。しかしこれは翌年、長尾軍の反攻を受けて降伏した。その後は景虎(上杉謙信)に再び仕え、奉行として活躍した。
永禄6年(1563年)に上野国厩橋城主に任命され、関東方面の政治や軍事を任された。これを見るに、高広が武将として優れていたのが伺える。永禄10年(1567年)、今度は北条氏康に通じて再び謙信に背く。この時は、同姓でまぎらわしいため後北条氏の側は高広の姓を「喜多条」と呼び区別した(高広は元の姓である毛利[2]を用いた)。しかしこれは翌年、上杉氏と後北条氏との間で越相同盟が結ばれたため、高広は北条氏政の仲介のもと、再び上杉氏に帰参し、以後は上杉氏の家臣として忠実に仕えた。
御館の乱と没落
天正2年(1574年)に隠居して大胡城へ入り、家督を嫡男の景広に譲った。天正6年(1578年)、謙信が没すると出家し安芸入道芳林と号す。御館の乱では、子の景広と共に上杉景虎を支持して上杉景勝と戦うが北条城などを落とされ景広は戦死、自身は天正7年(1579年)8月に武田勝頼の傘下に入った(実父とされる高定も景勝に殺害されたといわれる)。
天正10年(1582年)3月、武田氏の滅亡後、北条高広は滝川一益に仕え、神流川の戦いで一益が没落した後は北条氏に服属するが、同年12月沼田城の真田昌幸の離反に対する出兵を拒否し、上杉氏に帰順、北条方である那波顕宗を攻めている。
これに対し北条氏は箕輪城を押さえた上に北条氏邦だけでなく当主である北条氏直まで出陣し、厩橋城を攻めたてた為、これに高広は耐え切れず降伏、天正11年(1583年)9月には厩橋城は氏直の手に渡っている。
景広の死後、勝広が後継であったが、まもなく同名の「北条高広」が継承者となった。彼は上杉氏に帰参したものの越後の所領を取り戻すことはできず没落した。 ウィキペディアより
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/8a/58e826469d3709e02ed5ba802d7a214e.jpg)
北側の眺望
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/4b/8f265e649605169204f46dcca2961b7c.jpg)
本丸から北を見ています。鞍部は武者溜まりと案内にあります。途方もなく長い曲輪です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/ce/5bf8e2c6fa5c9d5659a908f28686a9b9.jpg)
鞍部から一段高く曲輪は伸びています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/5f/67a2be584843705edff38ebace006676.jpg)
本丸の案内板がある方を見返しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/79/6cb2d56349d8173b43123001c25c23ad.jpg)
北へ歩きますと碑が見えてきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/57/43244c513553775e15a655e42db8a59c.jpg)
150mの本丸と考えるべきか、それとも北側奥が本丸と見るべきか悩むところです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/e6/c9453fa74c395c45277ffa47508759f3.jpg)
縄張り図では本丸から北尾根、南尾根に無数の郭がありますが薮で写真になりません。仕方なくここで撤退しました。
次回 小国城
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本丸虎口を登ると
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二の丸を見下ろしています。
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安田氏と北条氏は同族です。
北条高広について
謙信時代の動向
大永4年(1524年)もしくは享禄3年(1530年)、北条氏の家督も務めていた安田氏の安田広春が没すると、北条氏は養子の北条高広、安田氏は養子の安田景元がそれぞれ継承する。 高広は越後の戦国大名である長尾氏、長尾為景・長尾晴景に仕え、戦功を積んでいたが、天文23年(1554年)、長尾氏に敵対する甲斐の武田信玄と通じて北条城において主君・長尾景虎に反乱。しかしこれは翌年、長尾軍の反攻を受けて降伏した。その後は景虎(上杉謙信)に再び仕え、奉行として活躍した。
永禄6年(1563年)に上野国厩橋城主に任命され、関東方面の政治や軍事を任された。これを見るに、高広が武将として優れていたのが伺える。永禄10年(1567年)、今度は北条氏康に通じて再び謙信に背く。この時は、同姓でまぎらわしいため後北条氏の側は高広の姓を「喜多条」と呼び区別した(高広は元の姓である毛利[2]を用いた)。しかしこれは翌年、上杉氏と後北条氏との間で越相同盟が結ばれたため、高広は北条氏政の仲介のもと、再び上杉氏に帰参し、以後は上杉氏の家臣として忠実に仕えた。
御館の乱と没落
天正2年(1574年)に隠居して大胡城へ入り、家督を嫡男の景広に譲った。天正6年(1578年)、謙信が没すると出家し安芸入道芳林と号す。御館の乱では、子の景広と共に上杉景虎を支持して上杉景勝と戦うが北条城などを落とされ景広は戦死、自身は天正7年(1579年)8月に武田勝頼の傘下に入った(実父とされる高定も景勝に殺害されたといわれる)。
天正10年(1582年)3月、武田氏の滅亡後、北条高広は滝川一益に仕え、神流川の戦いで一益が没落した後は北条氏に服属するが、同年12月沼田城の真田昌幸の離反に対する出兵を拒否し、上杉氏に帰順、北条方である那波顕宗を攻めている。
これに対し北条氏は箕輪城を押さえた上に北条氏邦だけでなく当主である北条氏直まで出陣し、厩橋城を攻めたてた為、これに高広は耐え切れず降伏、天正11年(1583年)9月には厩橋城は氏直の手に渡っている。
景広の死後、勝広が後継であったが、まもなく同名の「北条高広」が継承者となった。彼は上杉氏に帰参したものの越後の所領を取り戻すことはできず没落した。 ウィキペディアより
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北側の眺望
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本丸から北を見ています。鞍部は武者溜まりと案内にあります。途方もなく長い曲輪です。
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鞍部から一段高く曲輪は伸びています。
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本丸の案内板がある方を見返しています。
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北へ歩きますと碑が見えてきます。
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150mの本丸と考えるべきか、それとも北側奥が本丸と見るべきか悩むところです。
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縄張り図では本丸から北尾根、南尾根に無数の郭がありますが薮で写真になりません。仕方なくここで撤退しました。
次回 小国城