本丸と周辺
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/2b/74aeefba75f0cb03be69733e4fcb7718.jpg)
本丸
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/c6/fc0359c5a6cce91a7d33ccf577aa78f0.jpg)
祠の側壁には縄張り図
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/22/5f599f6dbf90e3c2dd0e9f15a45458f1.jpg)
加茂山風土記、などが掲載されており詳しく歴史を知ることができます。
加茂城は戦国時代後半の元亀元年(1570)に早部甚甫守(じんぼ)が砦を築き、以来長尾加賀守、本庄備前守、宇佐美平六、栗山大学、和田清八、小田切主膳、下越左京まで八人が居住したと伝えられている。しかし、本丸から十四世紀前半の頃の和鏡が採集されていることから、築かれた年代が南北朝時代までさかのぼる可能性を示唆している。加茂城が史料に登場するのは、天正六年(1578)三月に上杉謙信が春日山城で死去したのち、その相続をめぐって養子の景勝と景虎で争った御館の乱である。この時の加茂城城将名は明らかでないが、景虎の属していた。天正八年四月、景勝方の菅名綱輔は、加茂城に近接した加茂山(青海神社の裏山一帯)に取り詰めて陣を敷き、ここを拠点に景虎方の立て籠もる加茂城を攻撃した。両者の間で激しい攻城戦があったものと推定される。「甲信越の名城を歩く」より
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/63/ae2e411b6d487a757ffe2e366ca53f22.jpg)
本丸南下には三つの曲輪が並んでいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/ba/5127b24d093a315ad299c42ff54440cc.jpg)
本丸北下曲輪(仮に)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/85/21c67c68d3e0a7b5c3d7493b40fc997f.jpg)
北下曲輪に立って本丸城壁を見ています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/bd/0f72612178bd484d7a536367c9aab1fd.jpg)
本丸と南曲輪との間の堀切から西尾根に進みます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/85/db7c46c325b1eaa888234719a3f53cbd.jpg)
堀切と西曲輪(仮に)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/d1/b90b450c102ad5dd20855e7d0cacbd78.jpg)
このように西尾根には数段の曲輪が続いています。また加茂城は本丸を中心に東西南北の尾根に曲輪が構築されています。
次回 根知城 糸魚川市 村上義清が亡命して城主となった山城
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本丸
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祠の側壁には縄張り図
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加茂山風土記、などが掲載されており詳しく歴史を知ることができます。
加茂城は戦国時代後半の元亀元年(1570)に早部甚甫守(じんぼ)が砦を築き、以来長尾加賀守、本庄備前守、宇佐美平六、栗山大学、和田清八、小田切主膳、下越左京まで八人が居住したと伝えられている。しかし、本丸から十四世紀前半の頃の和鏡が採集されていることから、築かれた年代が南北朝時代までさかのぼる可能性を示唆している。加茂城が史料に登場するのは、天正六年(1578)三月に上杉謙信が春日山城で死去したのち、その相続をめぐって養子の景勝と景虎で争った御館の乱である。この時の加茂城城将名は明らかでないが、景虎の属していた。天正八年四月、景勝方の菅名綱輔は、加茂城に近接した加茂山(青海神社の裏山一帯)に取り詰めて陣を敷き、ここを拠点に景虎方の立て籠もる加茂城を攻撃した。両者の間で激しい攻城戦があったものと推定される。「甲信越の名城を歩く」より
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本丸南下には三つの曲輪が並んでいます。
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本丸北下曲輪(仮に)
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北下曲輪に立って本丸城壁を見ています。
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本丸と南曲輪との間の堀切から西尾根に進みます。
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堀切と西曲輪(仮に)
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このように西尾根には数段の曲輪が続いています。また加茂城は本丸を中心に東西南北の尾根に曲輪が構築されています。
次回 根知城 糸魚川市 村上義清が亡命して城主となった山城