山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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北条城④(西牧城)

2017-05-06 20:12:35 | 山城ー信州
本丸へ


曲輪4の南側の大堀切、奥に本丸城壁

堀切の近くから本丸城壁を見上げています。

城壁側から曲輪4を見下ろしています。

本丸、四方は土塁で囲んでいます。

本丸南虎口

腰曲輪で受けて、東の薮から

南尾根が伸びています。中央に土橋があります。
南曲輪(仮に)

南曲輪の先端部にある空堀
南尾根は下ってゆき、手前に堀切があります。ここが城域

塩尻峠の戦い
天文10年(1541年)6月に父・武田信虎を駿河に追放して当主となった武田晴信は、父の時代から進められていた信濃侵攻を続けて勢力を拡大していた。しかし天文17年(1548年)2月、北信濃に勢力を誇る村上義清に上田原の戦いで大敗を喫し、板垣信方が戦死し、晴信も負傷をした。この結果、信濃における武田氏の権益は最大の危機に晒されることになった。天文10年(1541年)6月に父・武田信虎を駿河に追放して当主となった武田晴信は、父の時代から進められていた信濃侵攻を続けて勢力を拡大していた。しかし天文17年(1548年)2月、北信濃に勢力を誇る村上義清に上田原の戦いで大敗を喫し、板垣信方が戦死し、晴信も負傷をした。この結果、信濃における武田氏の権益は最大の危機に晒されることになった。晴信は7月11日に甲府を出発し、18日までは大井森に滞陣したまま軍を動かそうとはしなかった。これは相手を油断させるために意図的に遅延行軍したものと思われる。
しかし兵力的にも戦況でも優位にあった小笠原軍にも弱点があった。長時は晴信に対抗するためなりふり構わず兵力をかき集めたので、その軍は寄せ集めで結束力など乏しく、むしろ対立さえあった。そのため、小笠原軍では長時の舅である仁科盛能が作戦方針をめぐって長時と対立して軍を率いて退去し、山家氏や三村氏などの武将らは晴信の調略で内応したとされるが、山家・三村氏はその後も小笠原氏とともに筑摩郡で武田氏と対峙しているので事実とはいえない。
7月18日、晴信は軍を率いて上原城に入る。翌日未明、晴信はこれまで鈍重な進軍を続けていた晴信は、隠密裏に軍を移動させて長時のいる塩尻峠に午前6時頃に急襲を開始。武田の遅延行動に油断をしていた小笠原方は、武具を解いて休んでおり、軍勢の過半数はまだ就寝中であったため、武田軍の行動に全く対応できなかった。朝懸けの奇襲を受けた小笠原軍は千人ほどが戦死して総崩れとなった。

武田軍が迫りつつあるのは小笠原長時も知っていたはずですから、こんな油断をしていたでしょうか。むしろ調略によって小笠原軍後陣の三村長親、西牧信道、山家昌治、二木重高の内応によって、後陣が崩れ、連鎖的に前衛も崩れてしまったのではないかと私は思います。ただ、山家・三村氏が加わっていなかったにしろ、内応者はいたと思います。なぜなら、徳川がこの地方を支配する時期に、家臣となった小笠原貞慶が府中を回復した時に、西牧氏を滅ぼしているからです。



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