高山城は要害山城・天屋城・百間築地砦の三つの城の複合城です。
高山城地図
県道175号線で金井橋を渡り鮎川湖の西側を走る市道を進みツインレイクスカントリー倶楽部へ入る手前の二又を右に進みます。民家の路地を進むと金井の湯があります。ここへ駐車させていただき、駐車場の西に畑に登る道があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/d5/16501dec336c1cbaeaa7b70f48a10d46.jpg)
50mくらい進むと、この説明板があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/18/530b76215d8b12522520b5a81b425c71.jpg)
石塁、高山城の館(百閒築地砦)があったところです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/74/04b2db532d3391455b5b472f942a2e08.jpg)
石塁南西にあり、虎口を作っていたのではと推測します。奥に見える山が天屋城です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/ba/8111e9568c042029419ef5cc8fafb305.jpg)
櫓台へでも登る階段でしょうか。しかし、これほどの遺構を野ざらしにして置いてあるのは、いかにも惜しいと思います。戦国後期のものかと思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/00/5064230fde16d2a13efc3b2dcd621e54.jpg)
北から東に50mほどの城壁をなしています。高山氏はここで政務を執っていたのでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/4a/a342afb9a469cf8aba971fa0bc1f44cf.jpg)
今も、当時は優雅な屋敷があったのではと想起される雰囲気があります。復元してほしいものです。
要害山城に向かいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/6b/250b216c48e25d4a9981336e50e9a241.jpg)
館跡から南に薮を抜けると、平地になります。奥は沢です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/ed/673d6f00a6f20a8ba139578aa3d9abd2.jpg)
説明版にはここらの周辺を説明していませんが、根小屋ではないかと推測します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/8b/c1b24281a5e50fd5a0fc22069a43b865.jpg)
このように広く、長い削平地があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/07/0c7179ac1ada1a8d8b661cc741521379.jpg)
削平地を南に歩くと、山裾になります。これは空堀で、要害山城をまず守る堀です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/3d/0a126f5b8061a58ba3ead481252223be.jpg)
空堀は東回りに伸びています。
高山氏の出自
高山氏は桓武平氏で、武蔵国秩父地方を領地としていた秩父氏の分かれである。すなわち、秩父重綱の三男重遠が武蔵国高山邑に住して高山を名乗ったことに始まる。
高山は多胡郡と秩父との中間地点に位置していることから、重遠の高山移住は秩父氏の多胡郡方面への勢力拡大の一つとみて間違いないだろう。ちなみに、重遠の長兄重弘は上野に近い畠山庄、次兄重隆は荒川と入間川の合流点にある河越邑、弟の重継は荒川が江戸湾に注ぐ豊島郡江戸郷に住し、それぞれ畠山・河越・江戸氏の祖となった。
一族の多くが荒川周辺に居住したのに比べて、重遠は神流川流域に移住したことから、多胡郡の源義賢との結びつきをもったようだ。そのため、義賢の遺児義仲が挙兵したとき、横田河原の合戦に参加するなど、他の秩父一族をは異なった行動をとることにつながったと考えられる。とはいえ、義仲に最後まで従ったというわけでもなく、寿永三年(1184)の近江国粟津の戦いには、源範頼軍のなかに高山党の名がみえている。
源平争乱期に高山氏として登場するのは高山三郎で、重遠の嫡子重昭(重久)である。鎌倉幕府が草創され、高山氏も幕府御家人に連なった。しかし、幕府内は権力闘争が繰り返されるようになり、一族の畠山重忠や梶原景時らが没落した。そして、建保二年(1213)には、侍所別当和田義盛と執権北条氏との対立が起り、「和田氏の乱」となった。この合戦に、重昭の嫡男重治は北条方として参戦し、鎌倉において討死した。その後も、三浦氏の乱などが起って、有力御家人が滅亡していったが、高山氏は鎌倉時代末までよく存続した。これは、高山氏が畠山氏・三浦氏などと比べて目立たない武士団であったことが幸いしたようだ。 「武家家伝」より
次回 要害山城
高山城地図
県道175号線で金井橋を渡り鮎川湖の西側を走る市道を進みツインレイクスカントリー倶楽部へ入る手前の二又を右に進みます。民家の路地を進むと金井の湯があります。ここへ駐車させていただき、駐車場の西に畑に登る道があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/d5/16501dec336c1cbaeaa7b70f48a10d46.jpg)
50mくらい進むと、この説明板があります。
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石塁、高山城の館(百閒築地砦)があったところです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/74/04b2db532d3391455b5b472f942a2e08.jpg)
石塁南西にあり、虎口を作っていたのではと推測します。奥に見える山が天屋城です。
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櫓台へでも登る階段でしょうか。しかし、これほどの遺構を野ざらしにして置いてあるのは、いかにも惜しいと思います。戦国後期のものかと思われます。
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北から東に50mほどの城壁をなしています。高山氏はここで政務を執っていたのでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/4a/a342afb9a469cf8aba971fa0bc1f44cf.jpg)
今も、当時は優雅な屋敷があったのではと想起される雰囲気があります。復元してほしいものです。
要害山城に向かいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/6b/250b216c48e25d4a9981336e50e9a241.jpg)
館跡から南に薮を抜けると、平地になります。奥は沢です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/ed/673d6f00a6f20a8ba139578aa3d9abd2.jpg)
説明版にはここらの周辺を説明していませんが、根小屋ではないかと推測します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/8b/c1b24281a5e50fd5a0fc22069a43b865.jpg)
このように広く、長い削平地があります。
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削平地を南に歩くと、山裾になります。これは空堀で、要害山城をまず守る堀です。
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空堀は東回りに伸びています。
高山氏の出自
高山氏は桓武平氏で、武蔵国秩父地方を領地としていた秩父氏の分かれである。すなわち、秩父重綱の三男重遠が武蔵国高山邑に住して高山を名乗ったことに始まる。
高山は多胡郡と秩父との中間地点に位置していることから、重遠の高山移住は秩父氏の多胡郡方面への勢力拡大の一つとみて間違いないだろう。ちなみに、重遠の長兄重弘は上野に近い畠山庄、次兄重隆は荒川と入間川の合流点にある河越邑、弟の重継は荒川が江戸湾に注ぐ豊島郡江戸郷に住し、それぞれ畠山・河越・江戸氏の祖となった。
一族の多くが荒川周辺に居住したのに比べて、重遠は神流川流域に移住したことから、多胡郡の源義賢との結びつきをもったようだ。そのため、義賢の遺児義仲が挙兵したとき、横田河原の合戦に参加するなど、他の秩父一族をは異なった行動をとることにつながったと考えられる。とはいえ、義仲に最後まで従ったというわけでもなく、寿永三年(1184)の近江国粟津の戦いには、源範頼軍のなかに高山党の名がみえている。
源平争乱期に高山氏として登場するのは高山三郎で、重遠の嫡子重昭(重久)である。鎌倉幕府が草創され、高山氏も幕府御家人に連なった。しかし、幕府内は権力闘争が繰り返されるようになり、一族の畠山重忠や梶原景時らが没落した。そして、建保二年(1213)には、侍所別当和田義盛と執権北条氏との対立が起り、「和田氏の乱」となった。この合戦に、重昭の嫡男重治は北条方として参戦し、鎌倉において討死した。その後も、三浦氏の乱などが起って、有力御家人が滅亡していったが、高山氏は鎌倉時代末までよく存続した。これは、高山氏が畠山氏・三浦氏などと比べて目立たない武士団であったことが幸いしたようだ。 「武家家伝」より
次回 要害山城