真壁城は群馬県渋川市北橘町真壁にあります。
真壁城地図
国道17号線で前橋から北橘村(現渋川市)方面に向かい坂東橋を渡らずに県道に入り、すぐに市道に入り、桂昌寺に駐車して北へ歩きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/5a/06bb729a4cabaf354587e1503ec0eaf7.jpg)
桂昌寺
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/fc/55a2da06c9264db6f28d8fce68389d83.jpg)
桂昌寺から北200mくらいに小山があり
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/0a/ab8ce943b7c0dcdf000b50839795079b.jpg)
ゲートボール場内に説明板が設置されています。この裏側が城址ですが薮です。白井城主、白井長尾氏の家臣神谷三河守がこの城を守り、桂昌寺を建立したと記述されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/d2/2be5b7744d938708edf6ebda1340ed8b.jpg)
東側の右手から道があり(畑ですので端を歩くように)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/1f/f0f47944e783677fbce8e4458589da7e.jpg)
本曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/8d/080ac656d3d84a69615472dc89fb826c.jpg)
説明版の図は山崎一氏の縄張り図ですが、しかし、本曲輪の南下には城壁と思われる畑地が階段状にあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/5f/94e39c380ba0fbf1c63dbb45cb22ed6f.jpg)
第二城壁?
八崎城は渋川市北橘町分郷八崎にあります。
八崎城地図
真壁城から県道を北に向かい、地方道34号線にぶつかり、関越自動車道の高架下をくぐってすぐに左折し市道に入ります。300mくらいで左折すると公民館があり、その前に駐車して南に歩くと
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/e0/f586b631d67596ea34ac0ab4c7746118.jpg)
公民館
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/89/b4bb1944885100963ab80fe11ca10bec.jpg)
南100mくらい先に案内があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/92/12076f9eeeb03e1445ef7c0def9873ba.jpg)
白井長尾氏の居城で、長尾景春・憲景などが城に入ったことが記録されているそうです・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/c1/37d793fd368e7f84c98364b88c9eb4ed.jpg)
説明版にある図から新曲輪、他の曲輪はは民家が立ち並び面影も残っていません。
長尾憲景
、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。白井長尾氏8代当主。上野国白井城主。
略歴
総社長尾氏6代当主・長尾顕忠、またはその庶流・高津長尾家5代当主・長尾顕景の子とされる。白井長尾氏7代当主・長尾景誠の養子となり、景誠の横死後に長野業正の斡旋で当主となる。
初め景房を名乗っていたが、主君で関東管領・上杉憲政より偏諱を受けて憲景と改名した。永禄10年(1567年)、甲斐国の武田信玄の上野侵攻で白井の所領を失うと越後国の上杉謙信[1]の許へ逃れ、その後は謙信に従って各地を転戦した。永禄12年(1569年)、越相同盟が結ばれ上野への諸将の影響力が薄まったために白井城に戻る。
元亀3年(1572年)、真田幸隆に白井城を攻められると八崎城に逃れた。この際、次男(嫡男)・輝景に家督を譲った[2]。天正6年(1578年)の御館の乱では上杉景虎に与して敗れ、乱後は上杉氏を離れて武田勝頼、滝川一益、後北条氏に仕えた。
真壁城地図
国道17号線で前橋から北橘村(現渋川市)方面に向かい坂東橋を渡らずに県道に入り、すぐに市道に入り、桂昌寺に駐車して北へ歩きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/5a/06bb729a4cabaf354587e1503ec0eaf7.jpg)
桂昌寺
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/fc/55a2da06c9264db6f28d8fce68389d83.jpg)
桂昌寺から北200mくらいに小山があり
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/0a/ab8ce943b7c0dcdf000b50839795079b.jpg)
ゲートボール場内に説明板が設置されています。この裏側が城址ですが薮です。白井城主、白井長尾氏の家臣神谷三河守がこの城を守り、桂昌寺を建立したと記述されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/d2/2be5b7744d938708edf6ebda1340ed8b.jpg)
東側の右手から道があり(畑ですので端を歩くように)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/1f/f0f47944e783677fbce8e4458589da7e.jpg)
本曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/8d/080ac656d3d84a69615472dc89fb826c.jpg)
説明版の図は山崎一氏の縄張り図ですが、しかし、本曲輪の南下には城壁と思われる畑地が階段状にあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/5f/94e39c380ba0fbf1c63dbb45cb22ed6f.jpg)
第二城壁?
八崎城は渋川市北橘町分郷八崎にあります。
八崎城地図
真壁城から県道を北に向かい、地方道34号線にぶつかり、関越自動車道の高架下をくぐってすぐに左折し市道に入ります。300mくらいで左折すると公民館があり、その前に駐車して南に歩くと
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/e0/f586b631d67596ea34ac0ab4c7746118.jpg)
公民館
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/89/b4bb1944885100963ab80fe11ca10bec.jpg)
南100mくらい先に案内があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/92/12076f9eeeb03e1445ef7c0def9873ba.jpg)
白井長尾氏の居城で、長尾景春・憲景などが城に入ったことが記録されているそうです・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/c1/37d793fd368e7f84c98364b88c9eb4ed.jpg)
説明版にある図から新曲輪、他の曲輪はは民家が立ち並び面影も残っていません。
長尾憲景
、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。白井長尾氏8代当主。上野国白井城主。
略歴
総社長尾氏6代当主・長尾顕忠、またはその庶流・高津長尾家5代当主・長尾顕景の子とされる。白井長尾氏7代当主・長尾景誠の養子となり、景誠の横死後に長野業正の斡旋で当主となる。
初め景房を名乗っていたが、主君で関東管領・上杉憲政より偏諱を受けて憲景と改名した。永禄10年(1567年)、甲斐国の武田信玄の上野侵攻で白井の所領を失うと越後国の上杉謙信[1]の許へ逃れ、その後は謙信に従って各地を転戦した。永禄12年(1569年)、越相同盟が結ばれ上野への諸将の影響力が薄まったために白井城に戻る。
元亀3年(1572年)、真田幸隆に白井城を攻められると八崎城に逃れた。この際、次男(嫡男)・輝景に家督を譲った[2]。天正6年(1578年)の御館の乱では上杉景虎に与して敗れ、乱後は上杉氏を離れて武田勝頼、滝川一益、後北条氏に仕えた。