権現山砦は長野県佐久穂町八郡にあります。
権現山砦地図
国道141号線の信号畑から西に進むと神社(開田記念碑があり)があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/92/c5ec539ca38342f1d1ea054e1e878bc8.jpg)
神社から向かいに城山が見えています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/25/6ec1eba9ee9063daf2eb40c12e168b7d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/25/2c9b3ef851eb9d64c13812cb50f3a3ab.jpg)
30mほどで登り道があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/6d/5c11627514541e398861d449194c9fc1.jpg)
神社から北にライスセンターがあり、手前の空き地に駐車させてもらいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/e6/810cdbdd38504071ffbffbf42a79d320.jpg)
15分ほどで、この大きな東下曲輪に着きます。右手を登れば三段の腰曲輪、東下曲輪の西奥から本丸への山道があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/e0/4134223288b4588ae07649d6460681ae.jpg)
東下曲輪を北から見ています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/74/296869cfbaf611209760fdbbfa4be196.jpg)
東下曲輪の東支尾根を登ると
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/9e/08022e8ca69e67a4dc8ecd74ea3e6c50.jpg)
三段の腰曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/a1/d9055570c9353e6c3022400641f4b775.jpg)
腰曲輪から東下曲輪を見下ろしています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/95/501679d845fc2dff990924d0f3522eec.jpg)
三段の腰曲輪の上に本丸北曲輪の城壁
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/06/b016c6d61db9bb96e6dd843562548c6a.jpg)
本丸北曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/8a/c1b563c5bee6dbece59aeec65ae9a6af.jpg)
本丸北曲輪から鳥居をくぐれば本丸
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/8c/cbe7396f9b8c48fff1d31f7fdebde80d.jpg)
旧八千穂集落
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/e7/f938bf03b21a4927f3a25d5a1c6e3009.jpg)
右手下から登っております。縄張り図は「信濃の山城と館」佐久編
権現山砦から北1km先に下畑城があり、権現山砦は支城ではないかとされています。下畑城は天文9年(1540)武田信虎が佐久郡に侵攻して来た際、武田の将小山田信有の重臣である小林宮内助が築いたと伝えられています。
小山田 信有(おやまだ のぶあり、永正16年(1519年) - 天文21年1月23日(1552年2月17日)は、戦国時代の武将。甲斐国東部の郡内地方の有力国人である小山田氏当主。出羽守を称した。
父は越中守を称した小山田信有、母は甲斐国守護武田信虎の妹と伝わる[1]。弥三郎を称した小山田信有・小山田信茂の父[2]。桓武平氏・秩父党の末裔(異説もある)。法名は長生寺殿契山存心大禅定門
生涯①
戦国期の甲斐国では国中地方において守護武田氏と有力国人衆の間で抗争が発生しており、郡内領主の小山田氏も守護武田信虎や領国と接する駿河国の今川氏、相模国の後北条氏と争いを繰り広げていたが、信有の父にあたる越中守信有期の永正7年(1510年)には武田氏との和睦が成立し、「武田源氏一統系図」などに武田氏の系図類によれば、武田氏と和睦した越中守信有は武田氏と姻戚関係を結び、出羽守信有は武田氏の女子を母として誕生している[4]。
越中守信有期には郡内支配の拠点をそれまでの中津森館から谷村館へと移転し、武田家臣団のうち一門衆として臣従した越中守信有は天文2年(1533年)に甲府に屋敷を与えられ移住している[5]。
天文9年(1540年)には嫡男弥三郎信有が誕生。同年、主君武田家でも武田晴信が家督を継承。出羽守信有は弟信義とともに引き続き晴信に仕える。翌天文10年には父・越中守信有が死去。嫡男となっていた兄小山田虎親も同年に死去したため、代わって家督を継いだ。 ウィキペディアより
権現山砦地図
国道141号線の信号畑から西に進むと神社(開田記念碑があり)があります。
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神社から向かいに城山が見えています。
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30mほどで登り道があります。
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神社から北にライスセンターがあり、手前の空き地に駐車させてもらいました。
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15分ほどで、この大きな東下曲輪に着きます。右手を登れば三段の腰曲輪、東下曲輪の西奥から本丸への山道があります。
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東下曲輪を北から見ています。
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東下曲輪の東支尾根を登ると
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三段の腰曲輪
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腰曲輪から東下曲輪を見下ろしています。
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三段の腰曲輪の上に本丸北曲輪の城壁
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本丸北曲輪
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本丸北曲輪から鳥居をくぐれば本丸
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旧八千穂集落
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右手下から登っております。縄張り図は「信濃の山城と館」佐久編
権現山砦から北1km先に下畑城があり、権現山砦は支城ではないかとされています。下畑城は天文9年(1540)武田信虎が佐久郡に侵攻して来た際、武田の将小山田信有の重臣である小林宮内助が築いたと伝えられています。
小山田 信有(おやまだ のぶあり、永正16年(1519年) - 天文21年1月23日(1552年2月17日)は、戦国時代の武将。甲斐国東部の郡内地方の有力国人である小山田氏当主。出羽守を称した。
父は越中守を称した小山田信有、母は甲斐国守護武田信虎の妹と伝わる[1]。弥三郎を称した小山田信有・小山田信茂の父[2]。桓武平氏・秩父党の末裔(異説もある)。法名は長生寺殿契山存心大禅定門
生涯①
戦国期の甲斐国では国中地方において守護武田氏と有力国人衆の間で抗争が発生しており、郡内領主の小山田氏も守護武田信虎や領国と接する駿河国の今川氏、相模国の後北条氏と争いを繰り広げていたが、信有の父にあたる越中守信有期の永正7年(1510年)には武田氏との和睦が成立し、「武田源氏一統系図」などに武田氏の系図類によれば、武田氏と和睦した越中守信有は武田氏と姻戚関係を結び、出羽守信有は武田氏の女子を母として誕生している[4]。
越中守信有期には郡内支配の拠点をそれまでの中津森館から谷村館へと移転し、武田家臣団のうち一門衆として臣従した越中守信有は天文2年(1533年)に甲府に屋敷を与えられ移住している[5]。
天文9年(1540年)には嫡男弥三郎信有が誕生。同年、主君武田家でも武田晴信が家督を継承。出羽守信有は弟信義とともに引き続き晴信に仕える。翌天文10年には父・越中守信有が死去。嫡男となっていた兄小山田虎親も同年に死去したため、代わって家督を継いだ。 ウィキペディアより