横山城は滋賀県長浜市石田にあります。
横山城地図
地図を左手にスクロールいたしますと、日吉神社があります。本殿の東側裏手から登り口があります。もう一つは県道509号線から鳥脇に向かう市道があり、それを200mほどに観音寺道という登り道があります。地図では横山城は本丸付近を指しているようですが、実際は広大で三つの尾根にまたがっています。
私はタクシーの案内によって観音寺道から登りました。
山道を20分ほど登ると
峠地蔵に着きます。
横山城祉の案内があります。
尾根道を進み
左手、琵琶湖を望みながら歩きます。
虎口が見えてきました。
これを登れば南城本丸(横山城を案内板は南城、北城としています。)
南城本丸
秀吉は浅井氏の猛攻を、ここに籠城したのでしょうか、あるいは北城の本丸であったのでしょうか?
本丸北側
西虎口
次回 南城本丸周辺から北城へ
横山城の歴史
横山城は近江北部の浅井郡と坂田郡とを分ける姉川の南岸の山の峰続きに永禄4年(1561年)、浅井長政が対六角氏用の防衛拠点として築城させた。城主には一門の浅井井演を任命した。
その後浅井氏は勢力を伸張して坂田郡から犬上郡まで勢力を広げるが、元亀元年(1570年)、織田信長と交戦状態になり、再び横山城の重要性が高まった。横山城は美濃の関ヶ原(岐阜県関ケ原町)から浅井氏の本拠地である小谷城(滋賀県湖北町)の西側を通る北陸脇往還街道のすぐ脇に立地するうえに、小谷城から6-7kmほどの距離しかないため、信長は重要な前線基地として横山城の攻略を目指した。同6月28日、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破った信長はすぐさま横山城の攻略に着手、時の城主三田村国定、野村直隆、大野木秀俊らは降伏し、落城した。
信長は城番として木下秀吉を任命。秀吉はここを拠点として浅井氏攻略を行った。
天正元年(1573年)9月に浅井氏が滅亡すると、秀吉は浅井郡・坂田郡の支配権を与えられ、本拠地として長浜城を築城。これに前後して横山城は廃城となったと考えられている。ウィキペディアより
横山城地図
地図を左手にスクロールいたしますと、日吉神社があります。本殿の東側裏手から登り口があります。もう一つは県道509号線から鳥脇に向かう市道があり、それを200mほどに観音寺道という登り道があります。地図では横山城は本丸付近を指しているようですが、実際は広大で三つの尾根にまたがっています。
私はタクシーの案内によって観音寺道から登りました。
山道を20分ほど登ると
峠地蔵に着きます。
横山城祉の案内があります。
尾根道を進み
左手、琵琶湖を望みながら歩きます。
虎口が見えてきました。
これを登れば南城本丸(横山城を案内板は南城、北城としています。)
南城本丸
秀吉は浅井氏の猛攻を、ここに籠城したのでしょうか、あるいは北城の本丸であったのでしょうか?
本丸北側
西虎口
次回 南城本丸周辺から北城へ
横山城の歴史
横山城は近江北部の浅井郡と坂田郡とを分ける姉川の南岸の山の峰続きに永禄4年(1561年)、浅井長政が対六角氏用の防衛拠点として築城させた。城主には一門の浅井井演を任命した。
その後浅井氏は勢力を伸張して坂田郡から犬上郡まで勢力を広げるが、元亀元年(1570年)、織田信長と交戦状態になり、再び横山城の重要性が高まった。横山城は美濃の関ヶ原(岐阜県関ケ原町)から浅井氏の本拠地である小谷城(滋賀県湖北町)の西側を通る北陸脇往還街道のすぐ脇に立地するうえに、小谷城から6-7kmほどの距離しかないため、信長は重要な前線基地として横山城の攻略を目指した。同6月28日、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破った信長はすぐさま横山城の攻略に着手、時の城主三田村国定、野村直隆、大野木秀俊らは降伏し、落城した。
信長は城番として木下秀吉を任命。秀吉はここを拠点として浅井氏攻略を行った。
天正元年(1573年)9月に浅井氏が滅亡すると、秀吉は浅井郡・坂田郡の支配権を与えられ、本拠地として長浜城を築城。これに前後して横山城は廃城となったと考えられている。ウィキペディアより