北尾根曲輪群
曲輪2の北側、城壁は本丸
北第一曲輪
曲輪2の城壁
尾根を見上げています。
北第二曲輪
第一曲輪の城壁
尾根を見上げています。
北第三曲輪
第二曲輪の城壁
尾根を見上げています。
第四曲輪、その先は深い沢
第四曲輪の東側土塁
東大空堀、曲輪3の東側を走り、曲輪4とを区切っています。
俯瞰図は「信濃の山城と館」佐久編
以上で望月城は終ります。次回 佐久穂町 権現山砦 なお望月城支城群は近日紹介します。
望月信雅
望月 信雅(もちづき のぶまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。信濃国望月城主。
滋野氏の後裔望月氏の庶流。望月氏宗家の望月昌頼に仕え、天文12年(1543年)に長窪城主・大井貞隆と共に武田晴信(信玄)の侵攻に抵抗するが望月城が落城すると、弟の新六らと共に布引城へ逃れる。以降も甲斐武田氏への抵抗を続けるが、天文17年(1548年)真田幸隆の仲介を得て武田氏に降伏し、望月氏惣領を継承する。武田氏に臣従後、武田晴信の偏諱を受け信雅と名乗った。
武田信繁の子・義勝を養子とするが、永禄4年(1561年)に信頼(義勝)が急逝すると、その実弟信永を養子として家督を譲り出家した。天正3年(1575年)長篠の戦いで信永が戦死すると復帰し、その実兄・武田信豊と共に望月領を治めた。
天正10年(1582年)の甲州征伐で武田氏が滅亡すると、続く天正壬午の乱では後北条氏に仕えるが、間もなく依田信蕃の斡旋で徳川家康に仕える。織田・徳川の連合軍が信州を平定した後、同10年10月24日には家臣村田但馬守に知行を与えている[1]。
天正12年(1584年)5月18日、村田但馬守に大日向の地を与え[2]、7月12日には、原宮に一貫五百文の地を寄進している[3]。その後、家禄800貫を依田氏に託し、弟新六らと共に駿河国庵原郡の山中に遁世した。
永禄元年(1558年)には佐久郡の布引観音(小諸市)を再興させた。ウィキペディアより
曲輪2の北側、城壁は本丸
北第一曲輪
曲輪2の城壁
尾根を見上げています。
北第二曲輪
第一曲輪の城壁
尾根を見上げています。
北第三曲輪
第二曲輪の城壁
尾根を見上げています。
第四曲輪、その先は深い沢
第四曲輪の東側土塁
東大空堀、曲輪3の東側を走り、曲輪4とを区切っています。
俯瞰図は「信濃の山城と館」佐久編
以上で望月城は終ります。次回 佐久穂町 権現山砦 なお望月城支城群は近日紹介します。
望月信雅
望月 信雅(もちづき のぶまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。信濃国望月城主。
滋野氏の後裔望月氏の庶流。望月氏宗家の望月昌頼に仕え、天文12年(1543年)に長窪城主・大井貞隆と共に武田晴信(信玄)の侵攻に抵抗するが望月城が落城すると、弟の新六らと共に布引城へ逃れる。以降も甲斐武田氏への抵抗を続けるが、天文17年(1548年)真田幸隆の仲介を得て武田氏に降伏し、望月氏惣領を継承する。武田氏に臣従後、武田晴信の偏諱を受け信雅と名乗った。
武田信繁の子・義勝を養子とするが、永禄4年(1561年)に信頼(義勝)が急逝すると、その実弟信永を養子として家督を譲り出家した。天正3年(1575年)長篠の戦いで信永が戦死すると復帰し、その実兄・武田信豊と共に望月領を治めた。
天正10年(1582年)の甲州征伐で武田氏が滅亡すると、続く天正壬午の乱では後北条氏に仕えるが、間もなく依田信蕃の斡旋で徳川家康に仕える。織田・徳川の連合軍が信州を平定した後、同10年10月24日には家臣村田但馬守に知行を与えている[1]。
天正12年(1584年)5月18日、村田但馬守に大日向の地を与え[2]、7月12日には、原宮に一貫五百文の地を寄進している[3]。その後、家禄800貫を依田氏に託し、弟新六らと共に駿河国庵原郡の山中に遁世した。
永禄元年(1558年)には佐久郡の布引観音(小諸市)を再興させた。ウィキペディアより