山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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入沢城③

2018-10-14 19:44:49 | 山城ー信州
本丸へ


曲輪3から本丸城壁を見ています。

曲輪3から曲輪2の尾根を見ています。

本丸

本丸を南から見ています。

二の丸を見ています。

西尾根(曲輪4のある尾根)を見下ろしています。

北側斜面、平場があります。

曲輪2から本丸を見ています。

曲輪2は一番大きな曲輪です。

曲輪2を東から見ています。

次回 東尾根へ

天正7年(1538)入沢氏から大井氏に城主が交代していることが、大井庄清沼郷八幡に寄進した鰐口からわかっています。
大井氏
光長の子・大井光矩は、応永7年(1400年)の大塔合戦では信濃守護の小笠原長秀に加勢せず、戦いに敗れて塩崎城に篭った長秀の救出のみにしか動かなかった。その後、光矩の子・大井持光は、近隣の芦田氏(依田氏)や平賀氏などを下し勢力を広げ、永享10年(1438年)の永享の乱で自害した鎌倉公方足利持氏の遺児・永寿王(後の古河公方足利成氏)を庇護し、嘉吉元年(1441年)の結城合戦では結城氏朝に永寿王を送り届けるなど、地理的に近い関東の情勢と関係を深めて行く。持光の子・大井政光も享徳3年(1454年)の享徳の乱では成氏を支持して関東に出陣したが、翌年に成氏が鎌倉を追われて下総古河に移座すると、大井氏の関東での影響力にも陰りが出始める。
「妙法寺記」には、文明元年(1468年)や文明4年(1472年)に大井氏など信濃勢(佐久の国人衆)が甲斐国に攻め入り、文明9年(1477年)には甲斐勢が佐久に侵攻して敗北した記録が残されており、当時守護武田氏の力が弱かった隣接する甲斐にも侵攻していた事が分かる。しかし、文明11年(1479年)には同じ佐久郡内の同族・伴野氏との戦いに大敗し、大井政朝が生け捕りとなり、大井氏の執事相木氏が討死を遂げる。この戦いで、伴野氏方には大井氏に度々侵攻されていた甲斐の武田信昌が加担していたといわれる。文明16年(1484年)、大井政朝から弟の安房丸への代替わり時に、小県郡から佐久郡に勢力を伸ばそうとしていた村上氏の攻勢を受け、大井城は落城し大井宗家は滅亡する。
宗家は滅亡したが、甲斐武田氏系統の永窪大井氏の大井玄慶(安房丸の子・政信との説もある)が大井城を継ぎ、岩尾・耳取・芦田・相木など一門や家臣も存続した。これら残された一族は、村上氏の与力豪族的な位置付けとされるが、確定的な資料は残されていない。ただ依田氏など、それまで大井氏に従属していた諸族の多くは村上氏の下に移っており、実質的に佐久郡は村上氏の影響下に置かれた。 ウィキペディアより



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