山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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長野原城⑧

2017-04-26 21:25:33 | 山城ー上州
曲輪11から天狗岩へ

東尾根を進み、峰が見えてきます。これが曲輪11の城壁です。

曲輪11の西城壁

長野原城の特徴で曲輪11は北側に土塁を残しています。おそらく尾根の南を削ってこの曲輪を作っていると思います。

さらに東尾根を進みます。

岩尾根が見えてきました。

天狗岩

南東に見える景色、真田新六郎が守る長野原城の奪回のために敵である岩櫃城の斎藤氏が来るとすれば、東側からですから、ここは物見として最適であると思われます。

碑があります。

天狗岩から見下ろしています。滑落に注意

天狗岩から東に回ると

猫の顔をした岩、ここで城域です。

俯瞰図は「山城探訪 上野編」こんな絵が描ける宮坂氏がうらやましい限りです。

鎌原幸重について
武田氏麾下に属す
 上杉憲政は平井城に逃れたが、天文二十年(1551)、後北条氏の圧迫によって越後の長尾景虎を頼って落ちていった、かくして、枢軸を失った上野の地は乱れるようになり、小豪族は大豪族に併呑されるようになった。当時、吾妻地方における大勢力は岩櫃城主の斎藤氏で、斎藤氏は近隣諸郷を押領し、ついには三原庄も併呑しようとして鎌原氏と争うようになり、ついに鎌原宮内少輔は不本意ながら斎藤氏に従うようになった。
 一方、信濃を征圧した甲斐の武田信玄が、上野に勢力を及ぼすようになると、鎌原氏は信玄に属して斎藤氏の圧迫から逃れようとした。永禄三年(1560)、幸重・重澄父子は、真田幸隆を介して信州平原において信玄に謁見し、その麾下となることを得た。
 以後、鎌原氏は武田氏を後楯として斎藤憲広と抗争したが、斎藤方には同族の羽尾氏が味方するなど、鎌原氏は次第に劣勢に追い込まれていった。永禄五年(1562)、斎藤・羽尾氏らの攻撃を受けた幸重は、鎌原を引き払って一門ことごとく信州佐久郡へ退去した。鎌原氏を受け入れた信玄は、小県郡浦野領内に領地を宛行って武田氏に尽した功に報いた。信州に領地を与えられたとはいえ幸重は、鎌原回復の策謀を練り、ほどなく武田氏・真田氏の支援を得て本領と鎌原城を回復している。
 その後、真田氏に属した幸重は岩櫃の斎藤憲広に対抗した。永禄六年、真田・斎藤両軍の間で戦いが開始されたが、岩櫃城は難攻不落でついに両軍和睦となった。その後、真田幸隆は岩櫃城に調略の手を伸ばし、大野兄弟・斎藤則実らの内応を得ると、ふたたび岩櫃城を攻撃した。ここにさしもの堅塁岩櫃城も落城、城主憲広は越後の上杉謙信を頼って落ちていった。
 かくして、吾妻郡に勢力を振るった斎藤・羽尾氏らは一掃され、吾妻郡は真田幸隆が守護として治めるところとなった。鎌原宮内少輔は岩櫃城代に任ぜられ、真田幸隆の与力として武田信玄の上野侵攻戦に活躍した。 武家家伝より引用