山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

長野原城⑦

2017-04-25 09:33:17 | 山城ー上州
曲輪9から曲輪10(箱岩城)へ

曲輪9、秋葉社が祭られています。

南側

秋葉山大神、櫓があったのでは?

東尾根を進み、曲輪10へ

堀切

曲輪10の城壁

曲輪10(箱岩城)

曲輪10から東尾根へ

縄張り図でオとされている曲輪、チェーンを外して、その先は

オの曲輪はこの大岩の上にありました。鎖を伝って降りられます。

のどかな長野原町、山裾は無残にも道路工事でずたずたです。

斎藤憲広のライバル、鎌原氏について
鎌原氏の登場
 鎌原氏が拠った三原庄は吾妻郡の西部にある嬬恋村・長野原町・草津町・六合村一帯の地で、三原郷と鎌原郷の二郷より成り立っていた。この二郷は平安時代前期に、海野氏の一族下屋将監幸房の子孫が開拓した土地で、南北朝時代の貞治元年(1361)の下屋氏の譲状によれば、その一族は芦生田・鎌原・下屋・赤羽根・名々越・西窪・万座らに分かれて、それぞれが村の開拓にあたっていたことが知られる。
 鎌倉時代の『吾妻鑑』の仁治二年(1241)の記事によれば、海野幸氏と武田光蓮とが上野国三原庄と信濃国長倉保との境界について争論し、幸氏が勝訴したことが記されている。この記事からも海野氏が鎌倉時代から三原庄と関係が深かったことがうかがわれる。
 その後、鎌原氏は着実に勢力を拡げ、室町時代のはじめごろになると三原庄の地頭となって、吾妻郡西部における第一の豪族に成長した。戦国時代に推移する文明ころ(1469~86)、山内上杉顕定が上野平井城に入って、関東管領となるに及んでその支配下に属した。十五世紀、関東は永享の乱(1438)、享徳の乱(1454)、長尾景春の乱(1476)と戦乱が続き、長享元年(1467)には、山内上杉顕定と扇谷上杉定正との間で長享の乱が展開された。文字通り、戦いの連続で鎌原氏も山内上杉氏に従って戦いの日々に身を置いたものと思われる。 武家家伝より