山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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戦国の争乱と榛名地域(榛名町史)④

2016-04-24 11:13:50 | 歴史資料
長野氏関連の寺


高崎市井出町にある大円寺、長野氏と直接の関係はないですが、近くに長野業盛の墓があります。

大円寺地図


大円寺の門の前の道を西に50mほど行くと南北に走る市道に突き当たります。この道を南に100mほどに
案内があります。奥に見える山は榛名山


大円寺の住職の話では、この説明板にある法如というお坊さんは業盛とは竹馬の友で、落城して業盛は箕輪城の御前曲輪で自害し、その亡骸を引き取り、この地に埋葬したと伝えられているそうです。

長野業盛の墓、榛名山の麓にある箕輪城を望んで眠っています。長野氏の子孫の方の話では業盛の子は逃れて、次回紹介しますが来迎寺に匿われてお坊さんとして生き延びたそうです。そこで三代続き、後に還俗したそうです。

次回 来迎寺

長享の乱と長野一族
明応三年(1494)七月、対立が再燃した。その前年に伊勢宗瑞(北条早雲)が堀越公方足利茶々丸を攻めて、伊豆に進出している。宗瑞は定正と提携して伊豆に攻め込んだとみられ、これが茶々丸を支持する山内方との再対立の原因となった。定正は山内方の関戸要害(東京都多摩市)、玉縄要害(神奈川県鎌倉市)を攻略したが、同年十月五日に突然死去した。その後は朝良が継ぎ、朝良も伊勢宗瑞の支援を受けて戦った。これに対し、明応五年(1496)七月、山内方は長尾右衛門尉(白井長尾景英か)が相模に侵攻し、小田原城を攻略した。
 永正元年(1504)八月、顕定は古河公方足利政氏を味方につけ、川越城、江戸城を攻めた。これに対し、朝良・伊勢宗瑞は軍勢を武蔵立川に進めた。九月二十七日、ここで長享の乱最大規模の合戦といわれる立河原合戦が起きる。この戦いで「上州一揆長野孫六郎房業」が討死したという。房業は長野景春の乱で討死した為業の子であろう。この戦いの結果は山内方の敗北であった。
 顕定は越後からの軍勢を加えて体勢を立て直し、十二月二日に椚田要害(東京都八王子市)十二月二十六日に実田要害(神奈川県平塚市)を攻め落とした。翌年、長享の乱の最後を飾る川越城の攻防戦が起こった。三月七日の合戦で打撃を受けた扇谷方は遂に和睦を求めたが、事実上は降伏であった。これによって二十年間続いた長享の乱は幕を閉じたのである。
 長享の乱では、最終的に山内が勝ち、扇谷が敗けたが、山内は越後勢、扇谷は伊勢宗瑞の支援がなければ戦いを続けることはできなかった。両家にとっては消耗となり、この後は伊勢氏(後北条氏)の進出を許すことになった。また、両家ともその内部では国衆・被官らの自立が進み、両家の支配体制は緩んでいった。

次回 永正の乱と上杉憲房