本丸から南西尾根へ
北西尾根から本丸に戻り
證城はどうやら、本丸周囲の城壁の上部は石垣によって守られていたようです。
雑木によって覆われていますが、50mほどの長い曲輪で二の丸です。
二の丸の先端部は土塁で固めています。
縄張り図は「信濃の山城と館」2巻 更埴・長野編 北は右手です。
南西尾根で峰を登ると
第一展望台
二つ目の峰を登ると
第二展望台となって、左手の山が葛尾城・中央奥が虚空蔵山城・右の山が出浦城です。第一展望台、第二展望台とも宮坂氏は曲輪と考えてないようですが、さらに冠着山(通称、姨捨山)に向かって登ってゆくと
南西第一堀切
南西第二堀切、さすがの宮坂氏もここまで登られてないようです。先の峰を登れば冠着山です。
赤い屋根の左手上が荒砥城です。いや、ここまで登り、さすがに疲れました。
歴史 甲越の争いの中で、天文二十二年九月(1553)に長尾景虎が更級郡八幡で武田勢を破り、荒砥城を攻め落としている。しかし、城は武田方に戻り、屋代氏に守らせる。武田氏滅亡後は上杉氏の領有と成るが、屋代氏は徳川に付き荒砥城に籠るが上杉氏に攻められ、城を追われている。ここからは私見ですが、冠着山に砦があり360度の展望が開けた山で狼煙台を設ける連絡の役目を持っていて、とくに筑北村への監視が有効な山です。證城は荒砥城と冠着山砦との中継基地であり、荒砥城の詰め城でもあったのではないかと考えます。
今後の山城めぐりは越後へ侵攻します。まずは寺泊、夏戸城です。
北西尾根から本丸に戻り
證城はどうやら、本丸周囲の城壁の上部は石垣によって守られていたようです。
雑木によって覆われていますが、50mほどの長い曲輪で二の丸です。
二の丸の先端部は土塁で固めています。
縄張り図は「信濃の山城と館」2巻 更埴・長野編 北は右手です。
南西尾根で峰を登ると
第一展望台
二つ目の峰を登ると
第二展望台となって、左手の山が葛尾城・中央奥が虚空蔵山城・右の山が出浦城です。第一展望台、第二展望台とも宮坂氏は曲輪と考えてないようですが、さらに冠着山(通称、姨捨山)に向かって登ってゆくと
南西第一堀切
南西第二堀切、さすがの宮坂氏もここまで登られてないようです。先の峰を登れば冠着山です。
赤い屋根の左手上が荒砥城です。いや、ここまで登り、さすがに疲れました。
歴史 甲越の争いの中で、天文二十二年九月(1553)に長尾景虎が更級郡八幡で武田勢を破り、荒砥城を攻め落としている。しかし、城は武田方に戻り、屋代氏に守らせる。武田氏滅亡後は上杉氏の領有と成るが、屋代氏は徳川に付き荒砥城に籠るが上杉氏に攻められ、城を追われている。ここからは私見ですが、冠着山に砦があり360度の展望が開けた山で狼煙台を設ける連絡の役目を持っていて、とくに筑北村への監視が有効な山です。證城は荒砥城と冠着山砦との中継基地であり、荒砥城の詰め城でもあったのではないかと考えます。
今後の山城めぐりは越後へ侵攻します。まずは寺泊、夏戸城です。