喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

またまた訃報が・・・

2018-11-18 14:39:38 | 日記
 先週の学校内での仕事は専ら草引きに落ち葉搔き、銀杏の葉っぱは
色づいて綺麗ですが、散り始めると始末が悪い。
それはさておき、土曜日の夕方 電話が掛かってくる。妻が受話器を
取り、「はい 増田ですが・・・吉仲さん?」と言って電話を替わって
欲しいという。

 吉仲と言えば中区安楽田の吉仲正明君しか思い出さない。
変わると「ご無沙汰しています。吉仲です」。と言う だが私の知って
いる吉仲君の声ではなく 明らかに別人の声 「吉仲君?東播染工㈱で
一緒だった???」と問うと「そうやろ 声が変わっているやろ 吉仲や」と
言う。 要件は「実は上月さんが亡くなったと 竹内会長から電話が
有った。 遺族は家族葬で行うとの意向だが、世話になった人なので云々」
明日日曜日夕方6時に通夜、月曜日が告別式と言う。
 ”顔だけでも見せてもらおうか”との話になる。
野村町緑風台に住まわれていた上月邦夫氏は 私たち営業部の上司だった。
一昨年だったか?「一度 出会いたい」。との電話を受け、野村の喫茶
明日香へ 私たち 東播染工㈱OBが寄った事が有るが あれが最後だった。

左から同僚の竹中氏、上司の上月氏、私、吉仲氏

 古いアルバムを出して見ていると 1984年3月、今から34年前の台湾へ
視察旅行に行った写真が出てきた。
34年前と言うことは私は丁度40歳。油が乗り切った頃だった。昭和59年
この頃 西脇の繊維産業は最高潮であった。
しかし この頃から 大手商社や紡績は韓国、台湾、中国に大きなロットを
発注していたようである。
だが、この頃から織屋は古い力織機から革新織機を導入。生産数量も後染めを
入れると3000万ヤードと言われていた。(後にこれらの莫大な織屋の投資が
仕事が減り、致命的な悲劇を生むことになるのだが・・・)
市内の加工場は東播染工㈱をはじめ播州織物協業組合、東洋染工㈱、第一染工㈱と
大手4社にオリエンタル織物、中町協業組足、野間織協業組合、徳岡商店と
7社あった。
 お互い商売敵だが よく儲かっていたこともあって 我々加工場は20会と言う
仲良しクラブのようなものを作り、毎週のように当時と豊川町に有った商工会議所で
会合を持ったものだ。
春と秋にはゴルフのコンペ、近場でなく、滋賀県の信楽CCへ行ったり、湯郷の
作州武蔵CCや日本原CC、湯郷石橋CCと遠方へ泊りで行ったものだった。
そして昭和59年、未曽有の儲けを出したと言うことで海外視察との名目で
台湾旅行に行ったのだった。
 台湾の蒋介石総統の像を見て 局長の岡本氏が涙を流して感謝をしていた事を
思い出す。 実は岡本氏は戦時中 憲兵か何かで、当時志那人と呼んでいた
大勢の中国人を斬首したようで、(その斬首した写真を見せて貰った事が有る)
 敗戦を知り、絶対生きて帰れないと覚悟をしたようだが、当時 国民党を
率いる 蒋介石は政治上 日本の援助を乞うべく、見逃してくれたようだ。
これが毛沢東率いる共産党だと 間違いなく絞首刑となっていただろう。

当時の加工場営業の面々。前列左から座っている二人目が岡本氏
右端 上月氏

 4日間台湾旅行をしたので 隅々まで見ることが出来た。
台北や花連等々 巡ってきた。 日本でもアイヌ人が居るように
台湾にも 戦前から居た 先住民族が居る。
 村々で それらの人の踊りなども見せてもらった。 フーバーとか
言う レストランと言っていいのか?ショーを見ながら食事もしたり
それはそれは豪勢な旅行だった。
 この頃の上月部長は私より15歳上だったので、55歳と言う事か?
一緒に写真の納まっている 第一染工の笹倉氏も3年ほど前に亡く
なられた。
 先日の丹波市常楽の足立氏と言い、昔 お世話になった方々が
亡くなっていくことに 寂しさを感じます。

左から上月邦夫氏、竹中氏、第一染工の笹倉氏、私、吉仲氏

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