喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

空も深まり、身体を動かすには絶好の季節!

2018-11-02 10:44:41 | 日記
 学校での仕事は専ら 溝掃除と北側駐車場の草引き、そして南東端の落ち葉搔き
そして校舎内の 先生から依頼されたフックの取り付けや、ストーブの囲いの組み立て
等々、楽な仕事。
 あんなに暑かった今年の夏が嘘のよう、今年の夏は例年に比べ特別暑かったように
思う その中で 雑草は伸びにのび、猛暑の中で 校舎内の広い範囲を5~6回草刈り
機で刈っただろう。
 それに比べ日に日に寒くなってきたが動くには最適な季節だ。

 さて日和が良ければ毎日 朝食後は1時間程度かけてウオーキング、腕を上げて
歩くのが好いと聞き、トレッキングポールを使って歩くのだが、最初抵抗があったが
最近では慣れてきた。今朝は曽我井から森本へと向けて歩いてきた。

堤防道、左はクワムラ食品工場、前方に見えるのは森本橋

 さて思いつくままに・・・は、写真の整理が できなくて掲載しなかったが
大阪の福島工業を辞めて帰ってきてからの写真を整理した。
父の病気が原因で帰って来たのだったが、大阪から帰るのに後ろ髪をひかれる
事はなかった。
何故なら、私は小学校時代からだったが、銃が好きだった。
都会ではできない。田舎だからこそ 銃を持って思い存分 狩りとかができると
思っていた。
 二十歳になると 直ぐに銃を買うべく、警察や農林事務所などへ行き、試験を
受けて狩猟免許を取得し、猟銃を買った。
レミントンやブローニング、ウィンチェスター 有名なブランド銃は その頃も
売っていたが、価格は50万、100万、とても手に負えない価格。
仕方なく、国産の三和と言ったか? 5万円程度の上下ニ連銃を買った。
装弾は高くつくので 黒色火薬を加西まで買いに行き、プラスチック容器を買い
雷管も買い、5号の鉛玉を買って弾を作った。

当時家に有った空気銃


購入した上下二連銃。

西脇へ帰って来たのが昭和41年と記憶する。縁あって 市会議員をされていた
遠藤武男氏の娘さんで、遠藤春子さんと言う方が、家に来られた。いわく「まっさん
私の父が経営している中央工業と言う加工場へ来てくれないか?」と言われる。
篠原縫工所時代から春子さんを知っていたので二つ返事でOK
 工場へ行くと、加工前の布が沢山 台車に積んで有り、機械がごうごうと音を
ならして動いている。
春子さんが「私の旦那」と言って 主人の邦男さんを紹介してくれた。
持ち場は シルケット機で邦男さんと一緒だった。シルケットと言うのは布を
アルカリ液に浸けてテンターと言う両側にクリップが付いていて幅出しをして
水洗いしてドラムで乾燥させれば強度と光沢が出せる機械だった。

 しかしこの工場は技術者や人材が不足していたのか? 扱う織物はブローカ屋の
ものが多かった。
したがって、直ぐに東播染工㈱が介入してきて、いつの間にか東播加工㈱に
会社名が代わった。

 東播染工から技術者や、人材が派遣されてくる、その中に 後日 懇意になる
私の人生を変えてくれた森脇忠氏が居たのだった。
森脇氏は昭和4年生まれ、私より15歳も年上の方だったが、毎週のように矢田川
へ渓流釣りに行った。
森脇氏は当時、東播染工㈱酒井社長の懐刀とまで言われた方で人望も厚かった。
入社してから3年は経っていただろう。
繊維業界は この頃、昭和48年頃までは順調だった。 ここでも毎年、慰安旅行が
有り、楽しい時代を過ごした。

慰安旅行での一幕、会社仲間と兼六園❓


何処かの旅館前だろうか?

 入社して3年後に 5月1日はメーデーの日だが、組合員だったので、組合仲間と
会社の空き地に鉢巻きを締めて座っていたところを、酒井社長が通りかかった。
そして私に声を掛けてきた。「増田、お前何をしてるのだ」。と言われるので
「組合員なので、メーデーなので・・・」と言うと、「そんなこと分かっとる。
事務所へ来い」。と呼びつけられた。

 何か不始末をやらかしたか? そういえば、東播染工㈱から出向してきた者で
気に入らない男を 仕事仲間と吊るしあげた事がある。
ヒヤヒヤしながら事務所へ入ると 「増田、今すぐ 組合員を辞めなさい。そして
営業部に就任を申し付ける」。との言葉だった。

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