喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

久々に懐かしい言葉を、そして懐古

2017-06-17 11:54:33 | 日記
6月17日(土)晴れ
  昨日、I先生から「飲み会に行きませんか?返事は出来るだけ早く」
と聞いておりましたが、返事を忘れていました。

そういえば、私が宅建業を営み始めたのが平成4年、そして3年後には
法人なりをし、 そしてタイミングを見計らったかのように支部の
役員に選ばれました。 支部役員当時は商売に何等支障なく、たまの
役員会を開いた後は 必ず「飲み会」なるものを商工会議所の下の
レストランなどで行っていました。帰りは妻に迎えに来てもらって・・・

 そして平成14年に西脇支部 5代目支部長に就任。 
しかし、その頃 市町村の統廃合が始まり、ご多分に漏れず 宅建
業界も県下24支部あったものを 当時会長の陰山氏が”14支部に統廃合
を行う”と宣言。
 
 西脇支部(西脇市・多可町・氷上郡)三木支部(三木市・吉川町)
播磨中央支部(小野市・社町・滝野町・加西市)の3支部を1支部に
纏めて欲しいとの中央からの要請があり、それに向け 新米支部長の
奮闘が始まりました。

 西脇支部は特殊で、氷上郡(現丹波市)も会員。県民局も違うのに
何故か? 西脇の景気が好い時にくっついたようです。
 これを切り離すべく、何度 氷上の”丹波の森”とか言う施設で
開かれる会合と、兵庫県庁の下に有る、兵庫不動産会館へ 行き来を
したことか、 西脇支部以外にも難航したのは、赤穂支部と
龍野支部の統廃合で、赤穂支部のO支部長は頑固者で断固反対派、
方や 滝野支部のT支部長は生真面目、二人は同級生であったように
聞きますが、事合併話に赤穂支部支部長は応じようとせず、とうとう
龍野支部長は それが元で血圧が上がったのか? 急死されました。

 結局、西脇支部の私は氷上会員を説き伏せ、三田支部と合併させ、
丹波・三田支部とし、西脇支部(私増田)・三木支部(野津氏)
・播磨中央支部(高橋氏)の3支部 支部長同市が話合い、3支部統合に
成功。その名も県民局と同様の「北播磨支部」として発足したのです。

 当時私が一番若い事から支部長職を辞退、副支部長として残る事に
必然的に理事は引継ぎ、理事会には出席、どれかの委員会に属せねば
ならず、私は総務委員会に配属され3期6年を務める事になりました。
 
 週に1~2回は不動産会館へ、理事会や委員会に出席、会は午後から
始まりますが、西脇からは1時間15分かかるので、昼食時間も考えると
10時には家を出なければならない。
結局1日を潰すことになるのですが、その代償 費用弁償は8,000円
 たまには委員会の終わった後に 職員を労うのに近くのウナギ店で
フルコースを頼んだり、有る委員長は 再三職員を連れて行ったりして
おりましたが、何時か姿が見えなくなり聞けば、「会社が傾いている」。
と他の理事仲間に聞きました。それが原因とは思えませんが・・・

 商売は その頃、私が居なくても絶好調、しかしその年5月頃に
会計士が訪れ「社長 前年度はよく儲かっていますね。」と言うので
「そりゃ よく頑張ったので・・・」と返事をすると、振込用紙を
出してきて、「1週間以内に税務署に納めてください」。と、見れば
・・・万円近い、私は目を剥いて「こんな額払えない。預金通帳だって
帳面を見て貰っていれば分るでしょう。それに1週間以内とは・・・
交通違反切符を切る警察だって そんな事言いませんよ」。と言うと
シラッとした顔で「この決算書を持って行けば どの銀行でも貸して
くれますよ」と言う。
 あくる日には国金が来て「いくら用立てしましょう」。と明石から
来て・・・
 まぁ翌年は利益が目に見えて出てきましたが、今思えば 税理士
会計士と言う者は 税務署の回し者としか思えません。

 理事・委員会時代は華やかなものでした。 神戸オリエンタルホテル
(現ANAホテル)で総会を行い、ホテルニュー大谷では新年互例会等、
終わった最後に神戸コンパニオンを招いての食事会。
また流通委員会では大阪不動産会館が主催する総会にリッツカールトンや
ヒルトンホテルなどへも行き、華やかな場所へ
終わった後は 二次会などへ、酔って帰れないので三宮サウナのカプセル
ホテルで何度泊った事か。

 しかし役員をしていては商売の妨げになると3期6年で辞め、仕事に没頭。
三木市の不動産屋、社長K氏とは仲が好く、2人で多くの仕事をしました。
西脇出身で西宮で成功したT氏ですが、”金持ち3代続かず”の言葉通り
K映像会社もT氏が創業、T興行と複数会社をお持ちでしたが、最後は
西脇市にある土地等財産を処分されることになり、渡しとK氏とが関わり
全て処分しました。
 西脇市は当時 大水害にあり、T氏がお持ちの土地・建物は全て水に
浸かったので 叩き売りでした。
一般の方の買い手はなく、仕方なく大東建託やレオパレスに持ち掛ける。
この2社は、資産運用目的の顧客を数持っているので 直ぐに紹介して
くれました。

 買手宅は西宮や神戸市、宝塚市、京都市など幅広く、成約の為に
2人で行ったものですが、 ある日突然 息子さんがお見えになり、
「父が、誰にも言うな。増田氏と特定の人のみ知らせてくれ。と言う
事で きました。実は 父は体調が優れないので近くの山陽病院へ行った
そこで、肝臓癌と言われ また1カ月と持たないだろうと宣告された」。
との事でした。 自分の死を知らすなとは武田信玄のような話ですが
この業界の裏を知っての事だったと思います。
 この業界の裏とは 二人で商売の話をしていると、傍で聞いていた
関係のない業界の男が、二人より先に話を行いに行った。との話が有る
ためです。

 彼の死は 息子さんの言われた通り、それから間もなくのことでした。
私と違い、彼は酒を嗜むこともありません。 私よりも3歳年下で享年
65歳、 私は落胆しました。
2人にやり残した仕事は まだ残っていました。 約束通り、息子さんと
2人で最後までやり抜きましたが・・・
 それ以後、商売に余り力が入らず、頼まれた仕事も億劫になる始末。
70歳を機に廃業。宅建業は廃業後も大変です。 直ぐに官報に公告。
そして債権者が居ないか確認したうえで、清算登記を行うのに帳面を
税理士に頼まねばならない。
 持っている不動産も 個人名義に切り替え、全て社長貸しが多かったので
取得税は支払わなかったものの、要らない土地も抱えることに・・・

 思えば 私は学歴が無いものの、人生を上手く渡ってきました。
西脇の地場産の繊維加工会社では、他の学歴の有る者を押しのけ(押し
のけることはしませんが)営業職に、 ルート営業だったのですが、
受注を安定に取り付け、価格もそこそこ取り、会社を儲けさせた事で
海外視察名目で旅行もし、 また土日には接待ゴルフ、普段の日は
接待麻雀にスナック通い。
お蔭で 祟ったのか急性肝炎になり、営業職は社長の息子さんに譲り、
その年 昭和62年に西脇中学校のPTA役員になり、校長も私の恩師。
1年間を楽しく過ごし、そこで知り合った宅建業者に「繊維のような
細い糸に頼らず、これからは不動産の時代だ」と誘われ、その気に

 そして現在の私が居る。本当に恵まれた人生でした。若い頃は
上司から「お前はケンが有る。もっと人間丸くなるように・・・」と
指摘されてきた私。
 年とともに角が取れたように思うわけですが、そういえば若い頃は
多くの敵を作ってきた攻撃タイプ。 一長一短と片付ければそれまで
ですが、もう第一線は卒業したので、再び起こらないように心がけたい。

 今日の全米オープンは松山英樹選手が調子よく、今日だけで7アンダー
昨日 2オーバーなので5アンダーで10位。世界ランキング4位の事だけ
有ると思う次第。


 



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