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集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

大正時代の山口県発・「ぼくら6人にせ金づくり」

2023-08-11 11:48:07 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 タイトルは往年の児童文学の名著「ぼくら三人にせ金づくり」(赤木由子著、初版昭和59年 小峰書店〔現・てのり文庫〕)のオマージュです。
 まあ、今回紹介する6人は「ぼくら…」のような小学生3人組じゃなく、37~60歳までのオッサンばかりなんですが…(-_-;)。

 ワタクシは逃げも隠れもない山口県民であり、郷土を愛するところ大でございますが、わが県からは毎年必ず1件以上、全国ニュースをにぎわせるバカタレが出ており、県民として大変心を痛めています。
 昨年度の「山口県発・全国クラスの恥」といえば、阿武町が町内1戸あたり10万円配布すべきコロナ給付金4630万円を、誤って田口翔なるバカタレところに全額振り込んでしまい、田口がそれをネットバンクに振り込んでネコババしようと企み、電子計算機使用詐欺罪に問われた事件。
 そういえば犯人の田口が山口南警察署から出てくるとき、ロン毛が強風で煽られて顔が全然見えなかったこと(;^ω^)、その光景を地元テレビ局・KRY山口放送がニュースのたびに執拗に放送していたことが、今では大変いい思い出です。
 これに続く今年の「山口県発・全国クラスの恥」といえば、現在巷を大いににぎわせている中古車売買大手・ビッグモーター。
 皆様も報道等でご存じの通り、ビッグモーターの出自は先般引責辞任(世間では敵前逃亡と呼ばれた(;^ω^))した先代社長が、山口県岩国市で起こした「兼重モータース」。まともな職に就けないクサレ暴走族構成員(新社長がまさにそれ)を雇い、ヤンキー魂で業績を上げたという会社ですが、まさか業界最大手になった現在でも未だ「山口県の田舎のクソヤンキー魂」のまま商売をしているとは、思ってもみませんでしたwww。
(まあ、暴走族が作った会社にガバナンスもクソもないのは、当然っちゃー当然なんですが)
 まだまだ膿は出きっていないビッグモーター。今年の「山口県発・全国レベルの恥」はまだまだ巷をにぎわせそうですね。

 さて、古い文献を調べておりますと、ひょんなことから「山口県発・全国レベルの恥 大正編」を発掘しました。
 種本は戦前の内務省警保局が昭和3年に発行した「捜査実例集」。
 この本は警察部内の刑事資料で、「大正15年及び昭和元年中各地方に於て検挙したる犯罪事件中、重要異例に属するものを記録したる(冒頭の注釈より)」もの。
 そのため被疑者はおろか、関係者の住所・実名・年齢までもが全て克明に記録されているうえ、何だったら殺人事件の遺体写真までバコーン!と載っているというシロモノですが、そこは警察部内資料ですから、仕方ありません。
 さて、大正15年度に起きた犯罪の中でも「重要異例」とのお褒めの言葉を頂いた(←褒められてはいない(-_-;))わが郷土発の犯罪の罪名は「通貨偽造罪(刑法第148条第1項)・偽造通貨行使等罪(同第2項)」。もう少し具体的に言えば、当時の最高額紙幣であった百円札を偽造して借金の返済に充てたらチョンバレし、そこから一味がイモヅル式に挙げられたという、「重要異例」という割には、なんとも冴えない事件です。

 種本には当然、登場人物名は全て実名記載されているのですが、令和の現在にそれを明記するわけにはいきませんので、本稿では名前のみでお話を進めます。以下、登場人物。
①岩松…本件首謀者。②久逸…印刷屋。偽造の実務担当。③市之進…偽造紙幣を使った男。④輔蔵…偽札の保管者。⑤好一…偽造紙幣の見本とする真札を貸した者。⑥和吉…一番年長だが、一番ザコキャラ。
 お話の主たる舞台は山口県南東部。旧国名・周防の東側であることから一般的に「周東(しゅうとう)」と呼ばれる地域…ワタクシのおもっくそ生まれ故郷が舞台となります(-_-;)。

 本件は大正15(1926)年1月30日、山口県大島郡久賀町(現・周防大島町)に住む某債権者が、③市之進から取り立てた四百円のうち二百円を銀行に持っていたところ、即座に「これは偽札だ」と言われ、大慌てで大島警察署に駆け込んだところから始まります。
 幸いなことに当時の周防大島は完全なる離島(大島大橋の完成は昭和50年)であったため、定期船を待つために旅館でのんびり宿泊していた③市之進は即座に逮捕。
 その後の調べにより、同年2月3日までのたった4日間で①②④⑤⑥が相次いで逮捕され、本件は①が率いていたクズの集団がひと儲けを企み、60枚の百円札を偽造したものだということが発覚したのです。
(ちなみに当時の百円は、現在の貨幣価値で約15万円くらいとなります。)

 主犯である①岩松(犯行当時数え年の37歳。以下同じ)は、柳井近辺出身者ばかりの本件一味の中で、唯一の他県出身者(長崎県)。
 明治時代に山口県大島郡平郡村(現・柳井市平郡)沖で沈没した御用船・大阪号からのお宝(御用金を積んだまま沈んだ、という伝説がある)引き揚げをきっかけに山口県東部~広島県にかけて居を転々としていました。
 いい年こいてリアル・トレジャーハンターなんかしているようなヤツですから、生来ヤマっ気が強く、事件当時は一獲千金の機会を求め、山口県東部屈指の歓楽街を有した、熊毛郡柳井町(現・柳井市)をブラブラしていました。
 そんな岩松のところに自然発生的に集まってきたのが、②~⑥の面々でした。ちなみに②~⑥は全員、現在の柳井市出身者です(;^_^A。
 ②久逸(犯行当時35歳)は柳井の東隣・玖珂郡鳴門村(現・柳井市大畠)で、一代で印刷屋を作り上げた男。社業は順調だったもののある時点でやる気をなくし、詐欺を働いたり、ブラブラ遊んで暮らしていたクズ。
 ③市之進(犯行当時37歳)は当時統治下にあった朝鮮を転々とした挙句、尾羽打ち枯らして内地に戻り、事件当時は柳井から少し離れた玖珂郡由宇村(現・岩国市由宇町)の知人宅にパラサイトしていた怠け者。
 ④輔蔵(犯行当時43歳)は本件発生当時、事件の主舞台である柳井町の遊興街で「石原琴水」と名乗って活動映画の弁士をしていた男。
 妻に飲食店をやらせており、一種のヒモ。
 ⑤好一(年齢不詳)は③市之進の友達の鍛冶屋。③市之進の友達だったため、一味に加わってしまった運の悪い男。
 ⑥和吉(犯行当時60歳)は当時柳井町在住。ロクな教育を受けなかったため字は書けないが、悪知恵は働き、詐欺で前科2犯を有する。

 事件発生の前年、大正14(1925)年の暮。
 ①岩松が新聞を読んでいますと、「兵庫県下で偽造紙幣作成をしていた一味逮捕」という記事が目に飛び込んできました。
 ヤマっ気の多い①岩松の頭に、電流走る(;^ω^)!
「そうじゃ、偽札をようけこしらえたら、一気に大金持ちじゃ!」などとアホなことを考え、早速③市之進④輔蔵を呼び出し「どうやったら偽札が手に入るか」が謀議されます。
 年が明けた1月10日、①岩松は自宅に出入りしていた②久逸に声を掛けます。当初①岩松は、②の印刷人脈を使い、どこからか偽札を調達することを考えていましたが、②からの回答は
「真物そっくりは中々六つかしいが、暗い電灯の下で人を瞞着する位の物なら、他から買はないでも自分の手でできる。(種本原文ママ)」
という、①岩松の目論見を大いに励ます?ものでした。

 謀議直後、②久逸は見本とするための真正百円札(⑤好一からの借り物)を受け取ると、その足で模造紙を買い求め、自宅に戻ってニセ百円札の石版を三日三晩(!)かけて作成。1月16日までにその石版で60枚のニセ百円札を刷り上げたのち、証拠隠滅のために石版を擦り落します。
 60枚のニセ百円札は時を経ずして①岩松③市之進のもとへ届けられますが、念には念を。ある程度人の手を経た札に見せかけるため、①③は煎茶を煮出した液体を一枚一枚丁寧に塗るという、なかなか涙ぐましい努力をします。
 60枚のニセ百円札は、6人の中では住居も社会的地位も安定している④輔蔵宅の火鉢の下に保管され、必要に応じて持ち出すこととなりました。

 ニセ札とはいえ、六千円もの大金?で気を良くした①③⑥は、出資者を募ってさらに偽札を作るという、「偽札シンジケート」の設立を妄想します。
 田舎の無知な金持ちのジジイを一人、なんとか騙すことに成功し「これで偽札量産体制ができる!わしらー大金持ちじゃー!」と喜んだところまではよかったのですが、ここで冒頭にお話しした通り③がヘタを打ち、全員が一網打尽に捕まった、というわけです。

 ここまで読んで「⑤好一はモデル用の百円札を貸しただけなのに、なんで捕まったの?」という疑問を抱いた方もおられると思います。
 実は⑤好一、百円札を貸す際に「偽札を作るため」という理由を了解の上で貸していたうえ、見本として貸した真正の百円札をなかなか返してもらえなかったことから、その代償として④輔蔵からニセ百円札33枚を受け取り、使用の目的で自宅に保管していたことで捕まったのです。マヌケですな。
 以上、約100年前に起きた「山口県発・全国に晒した恥」の顛末でした。
 
 最後に、本件検挙に功績のあった警察官の官職氏名をお伝えし、本稿を締めたいと思います。
 山口県警部高橋光雄・同警部補西見正市・同巡査坪金亀太郎。

いにしえのトレーニーの友・コンクリート製バーベル小話

2023-07-08 09:53:28 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 今回もまた、わが国ボディビル&力技の開祖にして、かの有名な力法並に肉体改造体力増進法」の著者・若木竹丸先生関連のお話です。
 若木先生の「怪力法…」、その増補改訂版である「筋肉美体力増強法」にはいずれにも、リンゴ箱に板を取り付けたプッシュアップ&ディッピングバーや、木机と滑車・石・ロープでできた腕相撲練習器など、若木先生考案の「自作できるトレーニング器具」が紹介されています。
 そんな中で、若木先生が最も力を入れて解説している「自作できるトレーニング器具」は何かというと、コンクリート製バーベル(同著では「セメント亜鈴」と呼称)。

 今は全くと言っていいほど見かけなくなりましたが、実はこのコンクリート製バーベル、鉄が貴重品だった戦前からかなり長い間、わりかしポピュラーなトレーニング機材であったようで、日本ボディビル界の大立者・玉利齊JBBF元名誉会長(昭和8〔1933〕~平成29〔2017〕年)が「体道 日本のボディビルターたち」(昭和41年刊)に寄せた文章によりますと、「ジムに通えない若者たちが、手製のコンクリートバーベルでトレーニングに励む姿が、街頭やビルの屋上、港湾のふ頭や農家の裏庭などで見られる」とあり、また、玉利会長と同時期に活躍したボディビルダーで、後にわが国トレーニング界の大先生として知られた早大名誉教授・窪田登氏(くぼた・みのる。昭和5〔1930〕~平成29〔2017〕年)も、昔の思い出話として「昭和30年代頃まで、東京ではカラーリングされたコンクリートバーベルが、普通に運動具店で売られていた」と語っていましたから、
高度経済成長前夜ころまでは「とっても普通の運動器具」であったようです。

 コンクリート製バーベルが最大にして最後の活躍をしたのは、前回の東京オリンピック開催前後ころ。
 東洋初のオリンピックに開催に沸き立った当時のわが国には「にわかトレーニングブーム」みたいなものが巻き起こり、安価且つすぐに入手できるコンクリートバーベルはそのブームに乗って、なかなかの人気を博しました。
 昭和39年に刊行された「日曜左官」なる本に、コンクリート製バーベルプレート作成法が紹介されているくらいですから、前回の東京五輪時におけるにわかトレーニングブームの規模、そしてコンクリートバーベルの活躍ぶりがわかろうというものです。

 さて、話を若木先生のほうに戻します。

 若木先生は前出「体力増強法」において、現在のバーベルトレーニングに相当するトレーニングを「鉄亜鈴運動法」という項目で紹介していますが、その冒頭「著者の鉄亜鈴運動法は何も鉄の亜鈴を必要としない」「如何に美事な鉄亜鈴によるも、又、貧相なるセメント亜鈴によるも、其処に何等の差異なき事を知らねばならぬ」とし、セメント亜鈴でのトレーニングを大いに推奨しています。
 またこの「セメント亜鈴推奨」は、若木先生が「国家の敵」として見られないための伏線の意も込められています。
 このころのわが国ですが、昭和12年に始まったシナ事変は現在のウクライナ戦争以上に泥沼化、加えて対米関係も悪化の一途を辿っていた時期。民生品に使用される金属の量が少しずつ減っていた、そんな時期です(悪名高い「金属類回収令」の初登場は、「体力増強法」発行の1年後の昭和16年。18年には全面改正され、ありとあらゆる民生の金属が吸い上げられるようになる)。
 「鉄亜鈴運動法」を鉄亜鈴で実施することを読者に勧めるのは、当局に「若木は『貴重な鉄類をトレーニング機材にせよ』と扇動する不届き者」という悪印象を与えてしまいます。
 自身の運動法が人口に膾炙することを望んでいた若木先生は「節を枉げる」というより、「つまらんイチャモンをつけられないよう、念には念を入れて」という感覚で、「セメント亜鈴を使え」と力説したと思われます。それは次の一文からも明らかです。
「現在鉄は、我国に於る必要欠くべからざるもの、即ち国防上の最大武器となるものなれば、其の点より見ても、我々は国家の一員として斯くの如き鉄類の使用を互いに禁じませう。」

 若木先生のバーベルプレート作成方法は
①樽の底に穴をあけ、そこに竹筒を差し込む(これがシャフトを通す穴になる)
②セメントを樽に流し込む。セメントの配分はセメント1に対し砂3,砂利5(「日曜左官」では1:2:4を推奨)
③そのまま3日間放置して固まるのを待つ。
④セメントが乾いたのを確認したら、樽の箍(たが)と横板・底板・竹筒を外す。するとプレート1枚ができあがる。
⑤プレートの穴にシャフトとなる棒を通し、カラー(プレート脱落防止器具)のかわりに、プレートの横を自転車のチューブを巻き付けて止める。
というもの。
 「体力増強法」には、若木先生が愛用のコンクリートバーベルと、それを使用してワンハンドジャークをする写真が掲載されています。
 バーベルに着けられたコンクリートのプレートは、2つ合わせて40キロはありそうな立派なもの。シャフトの長さは同著に「プレートとプレートの間は三尺程度」とありますから、全体で1.5mくらいはあると思われます。
 ただでさえシャフトが長くてバランスの取りづらいバーベル、しかも40キロのプレートがついたバーベルをワンハンドスナッチで持ち上げる若木先生…やはりタダモノではありません。

 さて、これまで見てきましたように、コンクリートバーベルは意外と長い間、わが国トレーニングの一時代を担いましたが、高度経済成長以降鉄製のバーベルが少しずつ普及するにつれ、割れ易く、欠け易い(=重量が勝手に変わってしまう)という欠点が人々の目につくようになり、いつの間にやらその姿を消してしまいました。

 今ではよほどの物好きが自作しない限り、なかなかお目にかかれないコンクリートバーベルですが、こうしたものを使用してトレーニングに励んだ古人に思いを致すのも、たまにはいいかも知れません。

警視庁柔術世話掛中村半助と、それを悪用した人たち(その4)

2023-03-18 09:36:18 | 集成・兵隊芸白兵雑記
【6 半助、警視庁柔術世話掛への道】
 明治15(1882)年秋、中村半助の師匠である良移心頭流・下坂才蔵師範のもとに、一通の書状が届きます。
 差出人は東京警視庁。書状の内容は「この度警視庁に、柔術世話掛を置くことになった。ついては下坂師範と、その高弟たちを招聘致したい」というものでした。
 ここで本稿を読んでいる方々は、こんな疑問を抱くことでしょう。
「剣術師範は江戸周辺の名人だけをかき集めて『世話掛』としたのに、なんで柔術はわざわざ東京から遠い、久留米のローカル柔術師範を招聘しようとしたのか?」 
 この疑問は、このころ大警視~警視総監となった面々を見ればすぐに解明します。

 警察は明治4年の発足時、3000人の邏卒から成る組織でしたが、うち2000人が薩摩人。それを統べる大警視(のち総監)も、当然薩摩人でした。これは警察の上部組織である内務省の初代大臣が、薩摩閥のドン・大久保利通だたことと無縁ではないでしょう。
(警察制度発足時の明治4年時点においては、警察は司法省隷下であったが、わずか2年後の明治6年、内務省警保寮として組織替え。以後終戦まで内務省隷下だった)
 そんな警察、特に東京警視庁のトップに座っていたのは…初代大警視川路利良(1874~1879在任)、二代目大警視大山巌(1879~1880在任)、そして下坂師範を招聘したときの総監(三代目)が樺山資紀(1880~1883。1881年に「警視総監」と改称)などなど、いずれも歴史好きが聞けば「!」と絶句する薩摩閥のビッグネームばかり。
 第2回でお話しした「中村半助VS矢野広次の激闘」が九州全域で話題となっていることは当然、薩摩閥で固められた警視庁幹部の耳に入るのも早く、剣術に次いで柔術の組織的訓練を画策していた警視庁幹部が、中村半助を擁する良移心頭流(及びその他久留米柔術)を警視庁柔術として採用しようとしたことは、ごく自然な流れでした。
 ちなみに「明治15年に警視庁が下坂師範に警視庁師範就任要請の書状を送った」ことは、柔道関係の書物に広く記されていますが「警視庁が久留米の柔術を採用した理由」に迫ったものは驚くべきことに、昭和の中期まで全く存在せず、「採用の理由は、半助VS矢野の戦いを薩摩閥の警察幹部が聞きつけたため」という事実が明らかになったのは昭和も30年代になってから。
 久留米市史を研究していたグループが、半助とともに上京することとなる同門の柔術家・上原庄吾の娘(調査当時80歳)から事情を聴き、初めて判明したそうです。

 下坂師範にとっても、良移心頭流にとっても、警視庁柔術世話掛への就任という話はこれ以上ない福音でしたが、下坂師範は久留米を空けることができない事情があったうえ、若い警察官たちにバシバシ稽古をつけるには、いささか年を取り過ぎていました。
 そのため下坂師範は、自身の柔術世話掛への就任を辞退するかわりに、久留米に所在道場の「四天王」を派遣しようと考えます。半助以外の「四天王」は以下の3名。
・関口流 久富鐵太郎(徒士。久留米藩江戸屋敷出身)
・関口新々流 仲段蔵(旧姓木戸、禄高二百石 久留米・京の隈出身)
・良移心頭流 上原庄吾(禄高二百石 久留米・櫛原町出身) 

 下坂師範が東京行きの話を真っ先に持ちかけたのは当然、一番弟子の半助。
 しかしこのとき、半助はすぐに首を縦に振りませんでした。半助の妻・おふじが貧乏生活による栄養失調と過労で病床にあり、しかも東京行きに強く反対していたからです。
 いずれは柔術で身を立てたいと考える半助にとって、千載一遇ともいえるこのチャンス…しかし、病気の妻を置いていくわけにもいかないし…このまま狭い久留米で、米搗きバッタを搗くだけの蔵男で終わるのか…半助はうつうつとした日々を過ごします。
 ところが天は、「柔術家としての半助」の才能を捨て置きませんでした。この年の暮れ、妻おふじは半助の看病の甲斐なく、あっけなくこの世を去りました。享年は数えの28歳。苦労するためだけに生まれてきたような、不遇な人生でした。
 ただ、おふじの死によって、半助を久留米に繋ぎ止めていた最後の鎖が解き放たれたことは事実。半助は警視庁柔術世話掛の話を受諾することとなります。
 半助からの色よい返事を根気よく待ち続けていた師匠・下坂才蔵の喜びようは一通りではなく、早速警視庁に対し、自らの師範就任辞退と、前出「四天王」推挙の手紙を送り、ほどなく警視庁から「受諾」の返事を貰います。

 年が明けて明治16年。上京を控えた4名は松も取れぬうちから、下坂師範の肝煎りによる強化合宿に臨みます。
 半助・久富・仲・上原の4人はずっと道場の真ん中に立ち続け、下坂門下のみならず、近在近郷の柔術道場門下生たちが立て続けにかかっていくという、現在の柔道でいう「元立ち」をひたすら行います。
 相手は次々に交代するのですが、真ん中に立っている4人は交代なしですから、疲労は見る間に蓄積し、手の力は萎え、足元はふらつき…といった猛稽古が延々と続き、特に四天王の中でも大将格の半助と「飛車角」格の上原は、徹底的に回されます。
 米搗きバッタを毎日踏み、体力の維持に多少は自信があった半助ですが、やはり柔術の乱取りに使う筋肉は全くの別物。そのうえ、毎日の肉体労働と粗食のせいで体重を20キロも落としてしまった半助、なかなか技が思うようにかかりません。
 長く苦しいスパーリングが終わると今度は、絞められても落ちないようにするための首の鍛錬。
 仰向けに寝転んだ半助の首の上に天秤棒が当てられ、その両端に3人ずつを付かせ、半助の首に力いっぱい天秤棒を押し付けるという、「鍛錬」というより「拷問」という表現がふさわしいムチクチャな鍛錬を繰り返し。それが終わると今度は、首筋を青竹でバシバシ叩かせての首鍛錬。
 全部の稽古が終わると食事。このとき、東京に赴く4人を励まそうと、各道場生から寄付が集まり、半助たちは久々にまともなメシにありつけるようになっていました。
 半助より年若の3人は、疲労のあまり飯が全く喉を通りませんが、この点半助はもともと、1食で米一升・味噌汁三升を平気で平らげるという(!)恐るべき食い力を持っており、激烈な稽古にもその食欲は衰えることはありませんでした。
 猛稽古と日々の大食により、2月半ばには、これまで以上の強さと体格を戻した半助。ほかの3人も見違えるような強さになっていました。

 3月上旬、4人は東京へ向け出発。
 師匠・下坂は壮行に際しそれぞれに金一封と、「贈下坂才蔵」の刺繍が入った取衣(=道着)をプレゼント。師匠からの贈り物を押し頂いた4人は勇躍、東京への旅路に就いたのです。

雑記・「オンラインサロン馬鹿」と「タイーフォ術原理主義派」の奇妙な合致点

2022-10-02 11:48:38 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 近年、著名人の金儲けのやり方やビジネスのノウハウなどを有料で受講できるという、オンラインサロンなるものが繁盛しているやに仄聞します。
 こうしたサロンに会員登録し、安くないカネを吐き出している連中をかなり悪意を以て評しますと…「気位ばかり高くて実が伴っていない、浮わついた連中」ですね(;^ω^)。
 この人たちの行動原理を調べますと、意外なことに、ワタクシが大嫌いな弊社の「タイーフォ術原理主義派」の行動原理と、行動原理が2つばかり、完全に合致していることに気づかされました。
 その合致点のひとつめは「ラクして人を出し抜くことばかりを考えている」。ふたつめは「無邪気で愚かな善意を持っている」となります。
 順を追って説明いたします。

 まず「ラクして人を出し抜くことばかり考えている」という点について。
 オンラインサロンで、著名人のもうけ方やビジネススキルを学ぶということについて、その内実をご存じない方は「自分の時間を使って、わざわざ勉強するなんてすばらしい」と見えるかもしれません。
 しかし、そのサロンを主催している人間は、2割が「余人の及び得ない天才」、8割が「偽りの成功で他人を騙す詐欺師」であり(;^ω^)、そういう輩が「オンラインサロンを開いているようなエグゼクティブのスキルを学べば、すぐに成功につながる」と考えている、意識ばっかり高くて頭の悪いバカを騙してカネを巻き上げている、という構図をまず認識すべきです。

 「オンラインサロン」の教祖に救いを求める馬鹿は、ものすごく大切なことを見落としています。
 オンラインサロンを開いて多数の人間を集める主催者のうち、真の天才が運営するモノにおいて開示されているスキルは、「努力」「方法論」ウンヌン以前に、主催者自体が遺伝的に抜きんでた能力を持っているからこそ成功を成し遂げたのであり、天才でしか捌き得ないスキルを凡人が猿真似したところで、「鵜の真似をする烏、水に溺れる」にしかならんわけです。
 …それ以外の8割の「詐欺師が馬鹿を騙す」ほうのサロンで開示されるスキルに騙されるヤツに至っては、何をかいわんや、ですが(-_-;)。
 しかし、「ヒトを出し抜く」という欲に目がくらんだ連中にはそれがわかりません。自分の分際の低さと、意識の高さとの差異を埋める道具として、「エグゼクティブ(ほとんどは詐欺師)のスキルに頼り、成り上がりたい」としか考えないわけですね。
 詐欺師(=サロン開設者)が減らないのは、ひとえにこうしたアホが絶えないからですな。

 弊社のタイーフォ術原理主義派もじつは、こうしたオンラインサロン馬鹿と同じ「ラクして人を出し抜くことばかり考えている」という腐った性根を持っています。
 これはワタクシが検定員として、弊社タイーフォ術を12年間見続けた結果ですが、上級保有者のうち、武道・格闘技を黒帯のちょいと上、いわゆる「中伝」レベルまで学んだ人間は非常に少ない…というより、ほぼゼロという状態でした。
 武道・格闘技を学び、帯に黒色が付き、そこからもう少し深みを増そうと思った場合、日常的に道場に通い、それにプラス自主トレーニングすることが不可欠となります。その積み重ねこそが「強さ」の根本をなすわけですが、「原理主義派」にそういう人間はただの1人もいません。これはワタクシが今春まで、12年間検定員をした中で観察・統計を取った結果であり、異議は一切認めません(;^ω^)。
 「原理主義派」はけっきょく、「強くなりたい」という望みこそあるものの、一般の道場で鍛える、あるいは自分でしっかりモノを学び、トレーニングを続けるという労を厭った怠け者・負け犬であり、その後ろめたさを払しょくするため、ラクして上級資格を取れるタイーフォ術だけをやることで「オレは強くなった」と自分で自分を騙しているだけ。この点は「エグゼクティブのスキルを学んだ」ということだけで自分に酔いしれ、真に自らを鍛えることを放棄したオンラインサロン馬鹿と全く同じ精神構造です。

 次に掲げた「無邪気で愚かな善意」について。
 オンラインサロン馬鹿は自分が騙されていることにも気づかず、サロン主催者の言うことを「絶対に正しい」と思い込んでいますが、テメエが損するだけならまだしも、迷惑なことに、人にまで「これを見れば、人生が開ける!」と勧めてきます。
 これは自らが「鵜の真似をする烏」ということをまったく分かっていないのみならず、「この素晴らしい教えを、みんなに知らしめなければ!」という、自分が見えていない馬鹿にありがちな、無邪気であるがゆえの迷惑な善意をふるっているということです。
 タイーフォ術馬鹿もオンラインサロン馬鹿同様、タイーフォ術を「唯一無二のすばらしい格闘技」として盛んに喧伝していますが、武道・格闘技をきちんと学ばなかった三重県発の馬鹿が、合気道を適当に切って貼ってこね回して作った技術には何の深みも意味もありません(断言)。そこらへんのヤンキー小僧にすら負けるのがオチです(断言)。
 しかし原理主義派は、まともな武道・格闘技を学んでいないが故に本当に痛い目に遭っておらず、そのため、無知と愚鈍に起因する無邪気な善意を以て、「タイーフォ術はすばらしい」と宣い、善男善女を騙し続けているわけです。

 オンラインサロン馬鹿は「鵜の真似をする烏」である自分を、タイーフォ術原理主義派は「弱くてダメな自分」を、かなり安易に手に入れられる奇妙奇天烈なノウハウによって自家中毒的に騙しているだけです。
 コイツらのタチが悪いのは、自分で自分を騙しているうちはいいのですが、そのうち間違いなく他人に迷惑をかけてくるという点…(-_-;)。

 本当に、困ったもんです。

雑記・自力取得段位は、人事権では奪えないぞ( ´艸`)

2022-09-10 08:53:33 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 詳細は省きますがワタクシ、この7月を持ちまして、弊社のタイーフォ術指導官の資格をはく奪されました。
 不祥事を起こしたわけではありません。表向きの理由は「オマエの現在の仕事は『♪沖行く船の 無事を祈って 灯をかざす 灯をかざす』職場なんだから、タイーフォ術の指導官資格なんていらないだろ」、そして本当の理由は「バ患部学校出身者多数を含む、タイーフォ術原理主義派・関係者を侮辱し、メンツをつぶした」ことのようです。
 
 前任地は、弊社最大規模の地方支社であり、当然、広島県呉市に所在する弊社バ幹部学校を卒業したバ幹部が、掃いて捨てるほどいます。
 ちなみにバ患部学校出身者の、キチガイと普通の人の比率は、周防平民珍山調べで「96:4」。これは、前任地5年間でリサーチした、エビデンスのある結果であり、異議は認めません(;'∀')。
 そんなバ幹部の中には、学生時代にちょっとタイーフォ術をかじった、あるいはちょこっと武道・格闘技をかじった程度で「我こそはタイーフォ術の有識者なり」とデカい顔をしている、噴飯物のバカが多数存在します。
 これは余談ですが、バ幹部学校出身者には「武道・格闘技を通算で10年以上修行した」「一般の道場で、柔剣道以外の段を取得した」という人間がほぼ存在しません。これも、周防平民陳山がこれまで出会った、約200人程度のバ幹部学校出身者をリサーチした結果であり、エビデンスのあることです。これまた、異議を認めません(;'∀')。
 
 タイーフォ術上級資格を持ちつつも、ワタクシの軸足は「武道・格闘技をやる人」です。きちんと技術を学び、稽古を積まないと、相手に「効く」技は習得できない。そう信じてやみません。
 これに対してタイーフォ術は、合気道によく似た奇妙な技術を「こうだったらいいのにな」という妄想で煮凝らせたものであり、レベルの低い形を覚えたらそれでおしまい、というもの。どう贔屓目に見ても、そこら辺のヤンキー小僧にすら通じない技術です。
 これまで12年間、ワタクシは「タイーフォ術は実際に使える」と妄信している愚かな原理主義派を遠慮会釈なく攻撃・口撃し、あらゆる手段で「わからせて」やりましたが、その対象者がバ幹部学校出身者と、その腰巾着のザコばっかりだったのが、今回の「『灯をかざす課』への左遷」の真の原因だったと、ワタクシは結論付けています(;^ω^)。
 しかしワタクシから言わせれば、無辜の若い職員に、ヤンキー小僧にすら効かない「盆踊り」を教え、「これこそが無敵の技だ!」と教えるのは、おかしな新興宗教よりタチが悪いことであり、そんなことをしたり顔で教える奴のプライドなんて、犬にでも食わせてやればいいんだと、今でも固く信じています。
 
 けっきょく今回の「クビ」措置はバ患部学校出身者が「周防平民珍山には実力でも、口でも勝てない」と思ったが故の措置であり、ワタクシ的には「なんだあいつら、こんなセコい手段でしか報復できないのか。弱っ!」という余裕のある気持ちで、「指導官クビ」措置を受け入れることができました。
 それに何より、バ幹部はワタクシの指導官資格をはく奪することで、ワタクシを精神的に落胆させ、幹部の力を見せつけてやろうと考えたのでしょうが、ワタクシには個人的に習得した武道・格闘技の段位と、その稽古によって会得した技術や体力、気合があります。
 これこそがワタクシの真の財産であり、タイーフォ術指導官の資格なんて、何かを拭いたあとの古新聞程度にしか感じていません(あ、古新聞に失礼な発言をしました。ゴメンナサイm(__)m)。
 この財産は一生、ワタクシの中だけに存在するものであり、いかに人事権を乱用するバ幹部といえど、奪うことも、手放させることもできません。

 前任地で「もうタイーフォ術なんか、教えてもしょうがないな」と真剣に考えていたので、今回の措置は逆に、願ったりかなったりであったりします。
 
 現在はただの修行者に戻り、誰のためでもない自分だけの勉強とトレーニングを、少しずつ重ねております。