集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

平成28年末のご挨拶

2016-12-31 09:58:48 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 今年も今日1日で終わります。
 今年も1年、弊ブログをご覧いただき、まことにありがとうございました。
 来る新年もよろしくお願い申し上げます。

 いつもコメントを下さる皆様も、そうでない方も、よいお年をお迎えください。

 周防平民珍山 拝
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霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(第15回・柳のカエル・甲子園へ跳ぶ!)

2016-12-26 15:45:24 | 周防野球列伝
 大正14年度山陽大会決勝。広陵エース繩岡修三は4回以降完全に立ち直り、柳井打線は全く手が出ません。コツコツ当てようと試みる柳井打線を、得意の剛速球でなで斬りにしていき、三振の山を築きます。
 5回裏。広陵もついに反撃に転じ、この回と8回裏とに1点ずつを返しますが、冷静な柳井エース・清水光長はコーナーを丁寧に衝く投球で、8回までに8安打を浴びながらも連打を許さず、1イニング1点以上の加点を許しません。
 そして運命の9回に突入…

 9回表の柳井の攻撃は7番清水からの下位打線。決死の形相で投げる繩岡の前に、あっという間に三者凡退に打ち取られます。
 9回裏、広陵最後の攻撃。広陵ベンチから、広陵の学生応援席から、客席を埋め尽くした広島の野球スズメから、悲鳴に近い声援が飛び交います。「『1点だゾ』『わづかに1点だゾ』悲痛な激励の辞は八方から飛んだ」(大正14年8月11日大阪朝日新聞広島版)
 この回の広陵の攻撃は打順よく、1番阿波から。広陵の松本マネージャーは阿波の手を両手でガッチリ握り「頼む!」と叫び、打席に送り出します。
 阿波は勇んで打席へ。清水の投じた初球を勇んで叩きますが、力みすぎの打球はあえなくセカンドフライ。いきなり先頭打者を打ち取られます。続く2番田岡もファーストゴロ。ツーアウトランナーなしという大ピンチに「広陵ベンチの選手顔を掩(おお)ふて泣き出した」(上掲新聞より)。
 しかし、さすがは山陽の横綱広陵、ここで3番吉岡が意地を見せます。
 吉岡は甘く入ったストレートを痛打。これがショートの頭上を大きく超え、左中間に落ちる二塁打となります。
 続くバッターは4番、角田隆良。この初球をキャッチャー松本が後ろに逸らし、吉岡は悠々三塁を陥れ、ツーアウトながらランナー三塁。広陵、一打同点のチャンス!「満場落雷のごとき騒ぎ」(上掲新聞より)。
 しかし、清水は全く慌てませんでした。
 よくブレーキのかかった得意のアウドロを投じると、打ち急いだ角田はこれをひっかけ、打球はボテボテのショートゴロ。ショート松村はこれを難なく捌き、一塁鹿島のミットへ送球…ミットが高々と「バシっ!!!」という音を発した瞬間、柳井中学の初優勝、甲子園出場が決まりました。

 試合終了の瞬間、ほとんどが広陵を応援する人間で埋め尽くされた広島体育協会グラウンドは、一瞬、水を打った如く静まり返り、「寂たり!寞たり!」(上掲新聞より)という、奇妙な静寂が支配し…その中で真っ先に我に返ったのは、数十人で応援に来ていた、柳井中学の応援団。手に持った日の丸の扇子を高く振り上げ「勝ったー!甲子園じゃー!バンザーイ!!」と万歳の連呼を始めました。
 それをきっかけに今度は、大勢の広陵ファンが騒ぎ始めました。
 何しろ、自分たちが誇りとする「山陽の中等野球二大横綱」が、連日同じチームに敗れたわけです。その怒りの矛先は当然、柳井中ナインに向けられました。観客はラムネのビンを投げつけ、柳井の応援団に殴りかかり、そこら中から罵声が飛び交い、大騒ぎになりました。
 身の危険を感じた柳井ナインは一時、全員でマウンド附近に固まって避難。その後警官が輪形陣を組んで護衛し、着替えもそこそこに、やっとの思いで球場を後にしました。
 大阪朝日新聞には表彰式のことは書かれていませんが、おそらく、表彰式は行えるような状況になかったと思われます。

 「広陵高校野球部有志の会」HP「野球部沿革」掲載の略歴には、このときのことに関し、「8月 第11回 山陽大会決勝で柳井中に敗北したことで、ファンのハラキリ事件が発生した。」などという、なんとも恐ろしいことが書かれてありました。要するに広陵ファンが敗戦に憤激、切腹を試みたということです。
 ただ、昭和43年5月22・23日付朝日新聞の記事によると、この「ハラキリ騒動」が起きたのは、翌年の山陽大会準決勝時に起きたとあります。当「杉田屋守伝」としては、ソースがはっきりしている朝日新聞説を採用したい(詳細は第28回をお読みください)と思いますが、それはともかく。

 柳井町でも、ナインに対するこうした乱暴狼藉の事実は当然耳に入ります。あたりまえですが、町民はこれに猛反発。柳井町では一時「広島からものを買わない」なる不買運動が勃発したそうです…。

 決勝戦のボックススコアを見ますと、広陵はヒット9本を放ち、チーム打率は2割2分5厘。エース繩岡は12奪三振と好投し、エラーもわずか1つと堅守も光ります。
 対する柳井はヒットわずかに5本、チーム打率は1割4分7厘。奪った三振はわずか3、エラーも大量8個。数字だけ見れば、全く広陵に敵することすらできないようなありさまですが、いったい何が原因で柳井が勝利し、広陵がまさかの敗北を喫したのでしょうか。

 もう少し記録を丹念に見てみますと、柳井は四死球2(広陵0)、盗塁3(広陵0)、二塁打1(広陵1)、三塁打1(広陵0)。長打はいずれも早い回にしか出ていません。
 ここから見えてくることは、柳井はいつもの短打・積極走塁に加え、繩岡がスロースターターということを見抜いたうえで、序盤には長打が狙えそうな選手に、積極的に振らせていたという、巧みなベンチワークが伺えます。
 球速が上がる中盤から終盤にかけてはいつもの短打・積極走塁で崩そうとしており、盗塁3はいずれも後半に仕掛けています。結果として得点には結びつきませんでしたが、繩岡にたくさんのタマを投げさせ、動揺させただけでも、無意味なものではなかったと思われます。
 また、わずか14歳の2年生エース・清水の好投は特筆すべきものがあります。
 後年東京六大学でもスターとして鳴らし、また後年、広陵黄金時代を築くメンバーがずらっと並ぶ強打線を相手に、味方が8個ものエラーをしながらも、淡々と後続を断ち、無四球で2点に抑え込んでいるのです。しかも前々日には胃痙攣で死にそうになりながら…もう、ほめるしかありません。
 
 対する広陵は選手ひとりひとりは極めて強力で有能でしたが、どの打順から打っても点が取れる強力打線でありすぎたがゆえに、「リードされたときの組織的・段階的反撃方法」が考えられておらず、選手がめいめい勝手に打ってしまい、結局散発的な反撃にしかなりえなかった、という推察が成り立ちます。
 序盤から劣勢であったはずなのに、タマをよく見てランナーを溜めようとか、果敢に走ってかき乱そうとした痕跡は「四死球0、盗塁0」という結果からは、見て取ることができません。
 当時はまだまだ、その地域一番の豪打者が打って、その地域一番の剛腕投手がビュンビュン投げて…という、きめ細やかさに欠ける野球がまだまだ普通に行われていた時代。当時の広陵は「豪打者が打って、剛腕投手が投げる」ができすぎるチームであったがゆえに、その強さが逆に仇となってしまいました。

 強打者や剛球投手がいなくても、考え方と取り組み、そして鍛錬によって強豪と十分に伍し、そして勝つこともできる。
 若きオッチャンは、鈴木監督が教えてくれた細やかな野球に、大きな啓示を受けました。
 その証拠にこの甲子園出場以降、オッチャンの打撃や守備に、「フォア・ザ・チーム」の動きが少しずつ色濃くなっていきます…が、その話はまた後日。

 さて、話は大混乱の中、広島体育協会グラウンドを抜け出した柳井ナインに戻ります。
 柳井ナインは着替えもそこそこに、優勝旗だけ何とか受け取り、やっとの思いで柳井行の汽車に乗り込みます。汽車は順調に走り…夜も遅い午後10時40分、柳井津駅(現・JR柳井駅)に帰着しました。
 そこで柳井ナインを迎えたのは、手に手に提灯を持って、バンザイを連呼する柳井町民無慮3000名。大八車に、急ごしらえのねぶたをのっけた祝賀用の車も散見されます。
 ナインや町民は、優勝旗を先頭に町内を行進。そのまま代田八幡宮に参拝し、戦勝報告を行いました。
 「とうとう甲子園じゃのう!」「柳井中学は創部4年なのに甲子園ちゃー、どようしもない(※どうようしもない=柳井で、想像もつかないすごさを意味する方言)チームじゃ」「甲子園に応援せに行かにゃーいけんのう。船がえかろうのー」(※当時、柳井には別府航路などの客船が中継寄港していた)など、夜12時の解散まで、町民は口々に賛辞を送り、勝利を祝いました。

 広島の2強・広島商業と広陵中学に何度も挑み、その都度叩き落されていた柳のカエルはついに、その2強に飛びつき、飛び越し、甲子園へのジャンプに成功したのです。

【第15回・参考文献】
・「柳井高等学校野球部史」柳井高等学校野球部史編集委員会
・「山口県高校野球史」山口県高等学校野球連盟 編
・「ホームラン 2016年9月号臨時増刊 歴代春夏甲子園メンバー表大全集」廣済堂出版
・朝日新聞 「広島の50大会史」昭和43年5月22,23日付 朝日新聞デジタル「バーチャル高校野球」掲載
・HP「広陵高校野球部有志の会」
 
 
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杉田屋守伝・第14回補足

2016-12-26 09:43:39 | 周防野球列伝
 「速報得点版」に関する箇所を加筆訂正しております。もしよろしければご確認下さいませ。
 「ビッグゲームの結果をライブで知りたい!」という欲求と、それをできる限りの技術力で見せようとする度量は、時代を問わず同じようでございます(;^ω^)
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霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(第14回・山陽大会決勝と強敵広陵中学)

2016-12-22 08:00:46 | 周防野球列伝
 大正14年8月8日、広島体育協会グラウンドには、立錐の余地もないほどの観客が詰めかけました。
 観客のお目当てはもちろん、大正14年度山陽大会決勝、広陵中学対柳井中学の一戦。
 観客のほとんどは、広陵の甲子園出場を信じて疑わない広島の野球スズメや広陵の学生。柳井からわざわざ応援に来た無慮数十名の応援団は、その一隅でひっそりとプレイボールを待っていました。

 広陵中学野球部は明治44年創立。これまで全国中等大会に1回、春センバツ1回出場の強豪です。
 特に、春センバツにはこの年出場したばかり。1回戦で運悪く、この大会を制した松山商業と対戦。3-4で惜敗したものの、松山商業エース森本茂と広陵エース繩岡修三の投げ合いは、甲子園の野球ファンを唸らせるものでした。
(ちなみに、松山商業エース森本茂の1代前のエースは藤本定義。のち巨人監督となり、戦前の黄金時代を築いたあのお方です。)
 広陵ナインは「甲子園で負けた借りは、甲子園以外では返せんのじゃー!」と猛練習に打ち込みました。
 エース繩岡を筆頭に、角田隆良、山城健三、田岡兵一など、のちに人気絶頂の東京六大学でもスター選手となるメンツがゴロゴロそろっている広陵の強さはまさに圧倒的。1回戦で下松工業を4-0、二回戦で長府中学を7-0、準決勝で山口中学を6-0と、まさに鎧袖一触で撃破しての決勝進出です。
 広島の野球スズメにしてみれば、豪華メンバーをそろえて圧勝してきた広陵に対し、柳井中学なんぞは「なんとなくヨタヨタ勝ち進んできた田舎チーム」としか思えませんでした。

 広陵はこの決勝、春センバツのレギュラーをほぼフル出場させ、万全を期しました(☆印は春センバツのレギュラーを示す)。
1番ショート阿波真次郎☆・2番ファースト田岡兵一☆・3番キャッチャー吉岡米蔵☆・4番サード角田隆良☆・5番ピッチャー繩岡修三(主将)☆・6番センター上原穣☆・7番レフト筒瀬茂夫☆・8番セカンド山城健三・9番ライト谷原博
 対する柳井中は準決勝と変わらない、いつものレギュラーメンバーがそろいます。
1番ファースト加島秋男・2番サード福田耕亮・3番ショート松村正(主将)・4番センター杉田屋守・5番レフト田中清人・6番キャッチャー松本清・7番ピッチャー清水光長・8番ライト久甫侃・9番セカンド宮村栄雄

 運命の一戦は、柳井中学先攻でプレイボール!です。

 1回表の柳井中の攻撃は、1番加島が四球で出塁。2番福田、3番松村は凡退しますが、鈴木監督は繩岡の立ち上がり状態をよく見ていました。
「回が進めば繩岡を打ち崩すことは難しい。打って点を取るなら序盤しかない!それにツーアウトだ。思い切って打て!」
 鈴木監督は4番のオッチャンに強攻を指示。ここでオッチャンは持ち前の勝負強さをいかんなく発揮します。
 球威がまだ十分でない繩岡の初球を、オッチャンはフルスイングでひっぱたきました。
 ボールはぐんぐん伸び、見事左中間を破る値千金の先制タイムリー!
 続く5番田中も連続ツーベースで続き、なんと柳井中学は初回に2点、さらに3回にも1点を加え、序盤でいきなり3点をリードします。
 広島体育協会グラウンドには、広陵ファンの悲鳴と、柳井から来た少ない応援団の歓喜の絶叫が激しく交差。柳井の応援団はそろいの団扇をばたつかせながら、統制の取れていないバラついた歓喜の声を挙げました。
 中国新聞記者・藤井猪勢治によると「そのころ訓練や統制の取れていなかった柳井ファンは、『屹度勝ちましょ、勝たせましょ』と一種異色のあるエールで、揃いの大団扇をばたつかせながら、大いにスタンドを動揺めかせたしたものだ」といった状況でした。

 いっぽうそのころ、柳井中学の地元・柳井町では、大阪朝日新聞が町内10数か所に得点速報板を設置し、試合の様子を略リアルタイムで報じていました。
 「得点速報板」とは耳慣れない言葉ですが、テレビ・ラジオ中継がなかった当時は、これによる中継が主流でした。

 「毎日グラフ別冊 センバツ野球60年史」(毎日新聞社)には、第3回センバツの際、大阪毎日新聞が本社前に設置した速報板に関する説明があります。
 「縦243センチ、横364センチもの競技板(※大阪毎日新聞は「野球競技板」と呼称した)は、今の野球ゲームの原型のようなもの」
 同書には野球競技板の写真も掲載されており、得点経過や選手名はもちろん、アウトカウントやボールカウントなども一目でわかる、なかなかりっぱなものです。
 この少しあと、大正14年10月には早慶戦が19年ぶりに復活。この時には時事新報、報知、東京朝日、東京日日と各社各様の工夫を凝らした掲示板を設置しています。
 時事新報はアメリカのスタンダード・ベースボール・プレーヤーボールド社と特約を結び「プレーヤーボールド」なる掲示板を運用。電話連絡により入って来た情報に基づき、ボールの行方や選手の動きなどもリアルにわかるスグレモノ。報知新聞は「電光装置野球実写機」、東京日日と東京朝日は「速報台」なる速報板を運用し、この復活早慶戦を伝えていたそうです。
 いずれも、略リアルタイムで選手の動きを伝えるスグレモノでした。

 ただ、これらはいずれも大阪・東京といった大都会に設置されたものであり、田舎の柳井町にあったものがそれと同等であったとは思えません。おそらく、大阪朝日新聞販売店の小父さんか小僧さんが、連絡を受けて得点を書き込むといった簡易な形式のものであったと推察されます。
 ちなみに、野球の試合が日本ではじめてラジオ中継されたのはこの2年後の昭和2年、第13回全国中等学校優勝野球大会のオープニングゲーム・札幌一中(現・札幌南高校)対青森師範(現・弘前大学教育学部)でした。
 当時は速報板以外の中継システムが存在しなかったんですね。

 1回表の得点欄に、新聞屋の小父さんが「2」を表示すると、炎天下にも関わらず速報板の前に集まった柳井の野球スズメは、大歓声を挙げました。
 しかし、柳井中学の得点欄は、4回以降「0」がずらずら~と並びます。
 柳井町民はかたずをのんで、そして、想像力をたくましくしながら、試合の経過を見守ります。

【第14回・参考文献】
・「柳井高等学校野球部史」柳井高等学校野球部史編集委員会
・「ホームラン 2016年9月号増刊 歴代春夏甲子園メンバー表大全集」廣済堂出版
・「毎日グラフ別冊 センバツ野球60年史」毎日新聞社
・「ニッポン野球の青春」菅野真二 大修館出版
・「野球界」第22巻第6号(昭和7年)
・HP「広陵高校野球部有志の会」
 
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「杉田屋守伝」外伝2・状況説明が多すぎる言い訳

2016-12-20 20:13:09 | 周防野球列伝
 特定のどなた様からか、そういう批判を頂いたというわけではないのですが、タイトルのように「コイツは杉田屋守本人の話ではなく、状況説明が多すぎる!」みたいな見方をなされている方がいらっしゃる場合の説明として、本稿を書かせていただきます。

 「霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝」は、当然のことですが、郷土の生んだ偉大なる球人・杉田屋守様の伝記です。
 しかし、その一生をただ、「いつ生まれて、いつどこの学校やチームに入って、いつ死んだ」という、うわべの経歴だけをなぞって終わるということについては、私は早い段階から「それではダメじゃ」という決心がありました。

 私は昔の野球人の話が大好きで、ガキのころからよく読んでいました。
 そのすごさ、面白さが大好きで、本当によく読んでいました。
 しかし、20数年前頃から、「昔の選手と今の選手はどっちがすごいか」という比較話を取り上げる本が出てくるようになり、そうした本では常に「昔の選手は強かったけど、野球だけに関して言えば、今の選手ほどすごくない」みたいな結論があたりまえになっていました。
 ちょうど、野茂英雄がメジャーで活躍し、それに伴って、メジャーを無条件に礼賛し、日本野球をディスる本が大量に出回った時期のことです。
 そういえば当時、その「メジャー最高!日本野球クソ!」の急先鋒であったS山とかいうクソジジイは、最近になってメジャーから袖にされたため、逆に「日本サムライ野球」などという腐った本を出版していますが、どの口がそんなことを言うのでしょうか。恥知らずが・・・

 いくつかの野球HPでも、そうしたバカ本をネタ本として、「昔は根性論での練習しか、練習方法がなかった」という、昔の人の気合と努力をバカにする論調が続いています。
 私はそのことについて、常に不満を持ち続けていました。

 まず、そうした論調を張る自称「野球ツウ」なるバカの最も腹立たしい点が、昔の野球やそれを取り巻く環境のこと全く知らず、ただ数字だけをもてあそんで喜んでいるという点です。
 今の甲子園大会のスコアと昔のスコアを単純に数字で比較し、「昔はこんなにエラーが多いんですよ、こんなに今は少ないんですよ」「今はこんなに球速が上がってますよ」「こんなにヒットが打ててますよ」…平気でこんなバカなことを言う。

 「昔はエラーが多い」。こういうことをドヤ顔で論じるバカは、いちど昔のグラブを見てみるがいい。
 当時は石油化学製品の全くない時代なので、グラブはただの巨大な皮の手袋。しっかり五本の指に力を入れて握りしめないと、すぐに「ポロッ」。昔のグラブで守らせれば、カープの菊池でも、エラー続出請け合いでしょう。
 昔の巨人の花形選手であった青田昇さんは、滝川中学時代、グラブをすべて分解し、グラブの親指以外の指先の先端に一銭銅貨を埋め込んで、再度組み立て直すということをしていたそうです。少しでも指先が土を掻くようにするための努力です。
 青田さんも著書で言っていましたが、今の野球選手で、グラブを分解して、そこまでする選手がいますか???

 「今は球速が上がった」…昔のピッチャーは、毎日毎日どんだけ投げ込みをしていたと思っているのでしょうか。それだけの投げ込みを可能にするためには、今のようなスナップの利いた投げ方ではすぐ体を壊します。全身を1本の棒のようにして、全身を供応させて投げないとダメ。その中で驚異的なスタミナとコントロールを身に着けていたのです。
 しかも当時のチームは、エースは1人か2人。今のように一度投げれば、やれ5日休みだ6日休みだというゼイタクは許されない時代だったのです。
 スピードガンの登場以降、投手の命はスピードだけ、という単細胞な論調がかまびすしいですが、昔の投手の驚異的な練習量、コントロール、精神力に敬意の念を払わなければ、昔の選手のすごみはわかりません。

 「ヒットが打ててます」…あのねえ、300匁(1.1キロ強)のバットを軽々振り回す昔の強打者が金属バットで打てば、全部場外ホームランになるわい!!!!!!

 「オッチャン」の本当の姿を知るには、オッチャンを取り巻いていた社会情勢、当時の野球情勢、戦ったライバル、柳井町付近の状況をリアルに再現しなければ、その姿は浮かび上がってきません。
 オッチャンには自著「私の野球生活」以外、全くまとまった伝記や論評がない。
 そのため、当初は「周囲の状況からその姿を浮かび上がらせる以外、方法がない」という状況で、その周囲の状況…移民の歴史、郷土の歴史、旧制柳井中学野球部の歴史、それを取り巻く野球の歴史を調べるしか、本人の人となりを浮かび上がらせる方法がなかったのですが、それを進めていくにつれ、オッチャンの人生を調べるために取ったこれらの「手段」は、現在「確信」に変わっています。

 現在の「杉田屋守伝」は「中等学校編」に相当しますが、その中だけでも、本当に豪華なメンツが多数登場します。
 そして、中等学校編で登場したライバルは、そっくりそのまま「オッチャン東京六大学編」にも登場し、しのぎを削ります。
 そしてその戦いは、そっくりそのまま「日本野球史(中興編)」になっていくのです。
 オッチャンのライバルはそのまま、オッチャンの人となりを浮かび上がらせる何よりの証左となっているのです。

 弊「杉田屋守伝」をお読みいただいている数少ない皆様には、ぜひ、杉田屋守をとりまいた昔の野球人が、いかに真摯に野球に取り組み、いかに現在の野球を形成するための礎となったかを、私めのつたなすぎる文章から、少しでも読み解いていただければ幸甚に存じます。

 「杉田屋守伝」、連載も13回を超え、長丁場となることは見えておりますが、お暇とお時間のある方はお付き合いよろしくお願い申し上げます。
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