集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(第20回・明治神宮競技大会と「人生の道場」との邂逅)

2017-01-28 09:55:48 | 霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝
 「明治神宮競技大会」なる大会が始まったのは大正13年のこと。
 内務省の所管する大会で、「明治天皇の聖徳を憬仰(けいこう。偉大なものを敬い慕う)し、国民の身体鍛錬、精神の作興に資す」との大会で、柔道、剣道、相撲といった格闘技や、ア式蹴球(サッカー)、ラ式蹴球(ラグビー)、排球、篭球など、全15種目(第1回大会。爾後増え続ける)が行われておりました。
 なお現在も、11月に「明治神宮野球大会」という名前の野球大会が大々的に行われておりますが、戦前の明治神宮競技大会は、こんにちの神宮大会よりも、むしろ国体に近い色合いを持つ競技大会でした。

 当時大人気の中等学校野球は、同大会でも第1回から行われておりました。
 出場校の選抜方式は、春夏の甲子園で顕著な成績を挙げた学校が内務省により直接選ばれるという、現在の国体高校野球競技の出場校チョイス方法に極めて近いものでした。

 大正14年10月5日。柳井町に驚くような吉報が届きました。
 内務省はこの日、第2回明治神宮競技大会中等野球選抜野球競技の出場校を発表。その栄えある出場8校の中に、柳井中学が入っていたのです。
 選出8校は以下の通りです。
高松商業・早稲田実業・第一神港商業・大連商業・長野商業・静岡中学・愛知一中(現・愛知県立旭丘高校)・柳井中学(補欠・和歌山中学・長崎商業)

 夏優勝&春準優勝の高松商業と、夏準優勝の早実は文句なしの当選。夏ベスト4の第一神港商業と大連商業も当確。夏ベスト8に残った学校からは、柳井中と静岡中学が選ばれています。
 残りの2校、愛知一中と長野商業の選出理由…これはあくまで著者私見ですが、「春夏連続で出場」だけではなかったのでは、と思います。

 この年の春のセンバツでは、高商、早実のほか、兵庫の甲陽中学(現・甲陽学院高校)と鹿児島の鹿児島一中(現・鹿児島県立鶴丸高校)がベスト4に入っていますが、これは神宮大会出場に際し、全く歯牙にもかけてもらっていません。これはおそらく、センバツという大会自体のネームバリューがまだまだ低かったためと思われます。
 すでにネームバリューのあった夏の甲子園のベスト8に残ったにも関わらず選出を逃したのは、長崎商業と敦賀商業。それでも長崎商業は補欠校に名を連ねているのでまだいいのですが、敦賀商業に至っては落選です。
 それら非選出校になく、愛知一中と長野商業にあったものといえば、「春夏連続出場」という冠だけなのです。

 それはともかく、明治大帝を祀る明治神宮の名が冠された大会に出場できるということで、柳井町民はもとより、当事者である柳井中学ナインはいやがうえにも奮い立ちました。

 初めて帝都東京に赴いた柳井ナインは試合に先駆け、宮城に詣で、靖国神社に詣で、明治神宮に詣で、地域や学校のの弥栄を祈願しました…が、実はこのときの上京で、オッチャンは自身の人生に最も影響を及ぼし、宮城にも靖国神社にも、明治神宮にも勝る「道場」「殿堂」となる場所と初めて邂逅することとなります。
 その「殿堂」とは…この大会の舞台となった戸塚球場です。

 「戸塚球場」といえば、東京六大学野球ののファンにはお馴染みの名前でしょう。
 早大の野球部創設から、昭和63年に東伏見にメイングラウンドが移転するまでの間、早大野球部の本拠地であり続けた球場です。
 この戸塚球場は、ただ早大の練習場として存在しただけでなく、東京府内(当時は東京府)にまだまだ専用球場の少なかった戦前には、各種公式戦の開催できる希少な球場としての役目も果たしていたのです。
 ちなみに大正14年当時、神宮球場はまだ建設中でした。
 
 「戸塚球場」あるいは「戸塚グラウンド」と呼ばれた、早大野球部専用グラウンドの歴史は、古く明治35(1902)年まで遡ります。
 早大がまだ「東京専門学校」、その野球部が「チアフル倶楽部」という、同好会と呼ぶのもおこがましいようなクラブだったころ、なぜかその世話をなにくれとなく見てくれていた奇特な予科部長・安部磯雄が、近所の富農から農地を有償で借り上げて整地した4000坪ほどのグラウンドこそが、この「戸塚球場」の発祥となります。
 長く借地時代が続きましたが、明治の末年から大正の初年頃、その富農が土地を破格の安値で早大に売却したため、戸塚球場は名実ともに早大の所有地となりました。
 グラウンドが早大の所有物となったころには、ラグビー部や陸上部などが「学生皆の土地を、野球部だけが占有するとはけしからん」と強談判に及んだことがたびたびあったそうですが、その都度説得の上はねつけ、野球部の聖地として死守した、と飛田穂洲先生の著書にはあります。

 府内に球場が少なかった明治末期から大正にかけ、戸塚球場は慶大のグラウンドであった三田綱町球場と共に、各種野球公式戦の舞台として活用されましたが、しょせんグラウンドに毛が生えた程度の設備しかなく、観戦設備は実にお粗末なものでした。
 このころ、野球部長になっていた安部磯雄は早大野球部のアメリカ遠征を契機に「鍛錬の場所としても、試合をする会場としても、戸塚球場に本格的なスタンドを作り、観戦設備を整えることは急務である」と志向、その必要性を訴え続けていましたが、ちょうどこの大正14年、予算請求に最適なできごとが立て続けに勃発しました。
 その理由こそがこちら↓

①春のリーグに試験参加した東京帝大が好成績を記録し、秋のリーグから東京帝大が参画した「東京六大学野球リーグ」発足が決定。常打ち球場の確保が喫緊の課題となった
②同じ秋のリーグ戦において、明治39年以来となる久々の早慶戦が復活する運びとなり、大観衆を収容できる球場設備の確保が急務となった
③早大ーシカゴ大学の定期戦(明治43年の早大アメリカ遠征を契機に、5年ごとに日米双方で招待試合をするという約束をしていたもの)がこの秋に行われることとなっており、招待する早大側はきちんとした観客席を持つ「ボールパーク」を整える必要があった

 安部部長はこれを、戸塚球場の施設拡張の好機ととらえ理事会に諮問。理事会もことの重大さをすぐに察知し、5万円の予算拠出を採択します。
 この設備投資により、戸塚球場は当時の東京府内としては破格の、25000人が収容できるコンクリート製スタンドを持つこととなり、その数年前に整備された外野のフェンスと併せ、本格的球場設備を備えた「球場」としての体裁が整えられました。
 上京したてのオッチャンが見た戸塚球場は、そのスタンドが竣工したまさに直後。しかも内野には、植木屋が「一升いくらで売り買いできる」という高級な砂が敷き詰められていた状態。
 海砂まじりの劣悪なグラウンドで練習していたオッチャンにすれば、戸塚球場は光り輝くような、聖なる野球殿堂にみえたことでしょう。

 オッチャンはこれまで、早大野球部と関係の深かった鈴木監督の薫陶を受け、夏には毎年、臨時コーチである早大のスタープレーヤーの指導を受け、早大の野球に漠然としたあこがれや期待を抱いていました。
 しかし、初めて見る戸塚球場はオッチャンの想像を超えてはるかに立派であり、そのフィールドで躍動する早大野球部は、この数週間後、初めてシカゴ大学相手に勝ち越し、「打倒シカゴ大学」に燃える早大の宿願を初めて果たす強豪メンバー。
 当時日本一美しいフィールドに躍動する、日本一の技術を持つ野球部を見たオッチャンが「ワセダで野球をやるんじゃ!」と決意したのは、おそらくこの時であったことは想像に難くありません。

 戸塚球場は、WASEDAのユニホームにそでを通したオッチャンの文字通りの「道場」となったのですが…今回のお話は、その2年前のことになります。

【第20回・参考文献】
・「私の野球生活」杉田屋守著 杉田屋卓編 私家版
・「柳井高等学校野球部史」柳井高等学校野球部史編集委員会
・「熱球三十年」飛田穂洲 中公文庫
・「ニッポン野球の青春」菅野真二 大修館書店
・「東京六大学野球連盟結成90周年シリーズ6 早稲田大学野球部」ベースボールマガジン社
・フリー百科事典ウィキペディア「戸塚球場」の項目

 

霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(第19回・試合巧者・第一神港商業!)

2017-01-23 20:23:58 | 霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝
 山下実の特大のツーランで、いきなり2点を先制された柳井中学は、三回表に反撃します。
 この回先頭の8番久甫が四球で出塁。続く9番宮村の送りバントがラッキーな内野安打となり、無死一、二塁のチャンスを作ります。
 普段の柳井中学ならここでバント攻勢で手堅く得点を狙うところですが…山下の長打に焦ったのか、鈴木監督は1番加島に強攻を命じます。
 加島は期待に応える強いライナーを放ちますが、打球は運悪くショート池田の真正面!池田はこれを難なくキャッチしてワンアウト。二塁ランナー久甫も、一塁ランナー宮村も大きく飛び出しており、柳井、トリプルプレーの大ピンチ!池田は二塁に入った久保に転送して久甫アウト。久保は一塁に転送して三重殺の完成…と思いきや、ここで信じられないプレーが発生します。
 一塁手の山下実が、セカンド久保から転送された何でもない送球を後逸。まさかこれを後逸すると思っていなかったライト桝本のカバーも遅く、タマがファウルグラウンドを転々とするうちに、宮村は一気に本塁を陥れ、ラッキーなんだかアンラッキーなんだかわからないうちに、1点を返します。

 しかし、その後の柳井打線は復調した神港エース・町田の前に全く手が出ません。
 柳井の各打者は「町田は技巧派であり、そのウイニングショットのアウドロを狙い撃つ」という狙いの下、バッターボックスの前いっぱいに立ってアウドロの曲がりっぱなを狙いますが、町田はそれを察するや、逆に低めのストレートで力押し。ストレートを狙い打とうとする打者に対しては、逆に低めのアウドロを投じ、柳井打線を完全に翻弄します。

 打線の湿りは、守備にも悪影響を及ぼします。

 六回裏、神港商業の攻撃はツーアウトながら満塁のチャンスでしたが、清水は打者を見事、サードゴロに打ち取ります。セオリー通りであれば、三塁手がゴロを取って、三塁を踏んでチェンジ…という場面。
 ところがこのゴロをさばいた柳井のサード福田は、何を思ったのか二塁ランナーをアウトにしようとこれを追っかけ、そのすきに三塁ランナーがホームイン。柳井はやらなくてもいい追加点を与えてしまいます。
 冷静な柳井エース・清水は大炎上こそしませんでしたが、八回裏にはスクイズと8番池田の三塁打でさらに2点を献上。
 終わってみれば1-5と、試合経験の違いを見せつけられる敗戦となりました。

 では、柳井を下した第一神港商業が下馬評通りにこの大会を制したのか…というと、実はそんなことはなく、神港商業は続く準決勝で、早稲田実業に3-4で惜敗。優勝を逃しました。
 神港商業が全国制覇を果たすまでには、もうちょっとだけ時間を要しますが、その話はまた後日。

 この大会を制したのは、この年春の準優勝校でもある四国の名門・香川県立高松商業学校。
 高松商業はこの大会、二回戦から登場。初戦で東山中学(京都)を14-0で一蹴すると、準々決勝では静岡中を4-1、準決勝で大連商業を9-2で破るなどまさに横綱相撲。決勝では、大会屈指の好投手・高橋外喜雄を擁する早稲田実業を5-3で下し、「いともあっさり」という感じでこの大会を制しました。
 優勝の立役者は、エースで四番、未だに「戦前最強の選手」との呼び声高い、宮武三郎!
 この投打にマルチな才能を持ち、のち六大学、都市対抗、職業野球と、いずれの舞台でも「天才」の名をほしいままにした宮武三郎とオッチャンは、意外と早く直接対決するのですが…その話はまた後日(;^ω^)。

 この第11回大会には、山下・宮武のほか、満州の大エースで、のちにパ・リーグ審判として活躍する円城寺満(大連商業)、のちに初代大阪タイガースの主将として活躍、「猛虎魂」の権化と言われた強打の一塁手・松木謙治郎(敦賀商業)、大阪の至宝と呼ばれた名捕手で、のち早大でオッチャンの盟友となる伊達正男(市岡中学)など、前途有為な名選手が、綺羅を踏んで揃っていました。
 
 また、創部4年目にして大健闘した柳井中学は全国の野球ファンの注目を集めました。
 大会終了後の大阪朝日新聞に掲載された大会総評には「未来が恐ろしい新鋭の柳井」として、特に評文が寄せられています。
「創立三箇年にして昨年の優勝校を一蹴し有望視されて出場した柳井中学は、一見したところ荒削りではあるがそのチームは実に立派な素質を有していた」
「今年よく戦うて戦いの自信を得たこのチームが以後1年間の進歩は計り知れぬものあるべきと思はれるとともに、来年の奮闘振りが一等期待が持たれていることは事実である」

 オッチャン達は全国の俊才・俊英と直接戦い、出会い、大きな刺激を受け、山口県に戻りました。

【第19回・参考文献】
・「柳井高等学校野球部史」柳井高等学校野球部史編集委員会
・「山口県高校野球史」山口県高等学校野球連盟
・「毎日グラフ別冊 センバツ野球60年史」毎日新聞社
・「ホームラン 2016年9月号臨時増刊 歴代春夏甲子園メンバー表大全集」廣済堂出版
・フリー百科事典ウィキペディア「第11回全国中等学校優勝野球大会」の項目

 

通常営業・オンリーさん哀歌

2017-01-21 21:09:46 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 「オンリーさん」。この単語をご存知の方、どのくらいいらっしゃいますでしょうか…。

 日本が米軍の占領下におかれた時代以降、日本本土における米兵の愛人、あるいは現地妻のことをこう呼称しました。
 語源は、米兵相手のパンパンの中でも、特定の兵隊のお気に入りになったら、その兵隊の「オンリーワン」になるから、「オンリー」だそうで。
 日本の北から南まで、米軍基地がある、あるいはあった地域には、この「オンリーさん」に関する昔話がゴロンゴロン転がっています。

 ベトナム戦争たけなわの時代の山口県岩国市は、まさにそうでした。
 土地の古老に聞きますと、当時は土曜の夜ともなると、週明けにはベトナムに送られる兵隊がそこらじゅうで暴れ、ジープに乗ったMPがそうした乱暴する兵隊を警棒で殴り廻り、ロープでぐるぐる巻きにしてジープに放り込んでモンキーハウス(監獄)にブチ込むという、実に殺伐とした状況であったようです。
 その反面、アメリカ直輸入の文化・風物がやってくる土地でもあったため、今では考えられませんが、広島から若者がたくさん遊びに来ていたそうです。当時「広島から岩国に遊びに来ていた」著名人をひとり挙げると…広島カープの衣笠祥夫選手がいますね(;^ω^)。
 若くて血の気の多い兵隊がいて、それを目当てに日本の若い男女が集まってくれば、「男女のもつれ」が生じるのはごく当然のお話です。

 死と隣り合わせであった米兵は心の安らぎを求め、オンリーさんを囲うことが多く、岩国も例外ではありませんでした。
 岩国のオンリーさんはその地理的事情からか?九州出身者が多かった、とも聞きます。
 土地の古老によりますと、士官のオンリーさんは米軍官舎の中に住まい、けっこうゆとりある生活をしており、それが一部日本人のねたみややっかみを買っていたと聞きます。
 そうしたオンリーさんにねたみ、やっかみ、その他複雑な感情を抱く地元の若い男が「オンリーさん征伐」などと銘打ち、夜這いをかけていたという、なんともコメントしづらい話も聞きました。

 岩国に勤務した米兵の中には、そのまま日本で現地除隊し、オンリーさんを本妻にして、岩国に住み着いている人がたくさんいます。
 それとは別に、完全に「ヤリ捨て」の憂き目にあった人、あるいは男が戦死して帰ってこなかったなどの事例もたくさん聞いておりまして…男女の人間模様とは「いい」「悪い」、あるいは「幸せ」「不幸せ」の2極だけでは測れないものがあるなあと、そういうことに疎い私でも、なんだか複雑な気持ちになります。

 本日は「忘れられた戦後の話」をお送りしました。

通常営業・「自主性」のイカサマを糺す

2017-01-16 20:15:44 | 兵隊の道・仕事の話
 今の世の中、どこへ行っても「自主性」「個性」の花盛りです。
 ガキにやれ自主性だ、個性だというおためごかしを言い始めたのは、私の記憶が正しければ、私たちの世代(今生きていれば40歳ちょっと過ぎくらい)が第一世代となるのですが、ガキのころから家人や近所のオッサンから「ガキはわしらのやってきたこともわからんで、生意気言うな!」とキツいことを課され、「何をー!」と食らいつくことばっかりで生きてきた私は、中学生くらいのころから生意気にも「これは違う、絶対におかしい」と常に不平不満を持っていました。
 特に、高校進学後の教師の多くは、「自主性」「個性」などと言いつつ、その反面山のような課題やテストを課し、出来が悪い人間をあからさまに差別するというようなことをしており、私はそうしたおためごかしに、非常に反発を覚えていました。
 私が学生じゃなくなった後も、教育現場には恥も臆面もなく「自主性」だの「個性」だのという言葉が跋扈し、それが「ゆとり」という今世紀最大の悪政を呼び、日本の教育を半崩壊状態にしてしまいました。それはもう、日教組の読んだ自縄自縛なので、それはともかく。

 私がガキの時分から反発していた「自主性」「個性」。これは教育の現場に必要なのか。それをガキに求めていいのか。
 当時私が漠然と抱いていた不安や不平不満を、実に短い文字で端的に「違う!」と言い表した記事をごく最近発見しましたので、ここでご紹介します。

 その名言をものしたのは、もと横浜ベイスターズ中継ぎ投手として活躍したものの、私と同じく口の悪さが災いし、わずか4年でクビになってしまった中野渡進さん。
 のちにもつ鍋屋を経営、人気店となったものの一身上の都合により閉店。現在は会社員をしつつ野球指導に燃えているという、「奇貨居くべし」という「名人」です。経歴や人となりに関しては「球団と喧嘩してクビになった野球選手」(中野渡進著・双葉文庫)を参照してください。

 中野渡さんが「野球太郎育児」(廣済堂出版)内で「中野渡進の少年野球わたり歩き」というコーナーで、「今現在、強制的に練習をやらされてばかりですが、この先、子供が自主性をつけるためにはどうすればいいのでしょうか?」という父兄の悩みに、このように答えておられます。
「子供が自主性なんて考えられるわけねえだろ。自ら激しく追い込む小学生って…逆に怖いわ。最初はやらされてなきゃわからない。ある程度強制されて、最低限のものを大人が与えて、それから自分には何が足りない、何が必要かを考えて自主性に至るんだから、まずはやらされる練習を覚えなきゃしょうがない!やらされとけ!」
 私これを読んだとき、まさにその通り!と膝を大きく打ったものです。

 人間として、学生として、部活で競技の入り口に立つための通過儀礼として、「強制力」は極めて重要なのです。
 人間として、学生として、選手としての基礎基本を作るには、理屈抜きで「師匠の言うことを何も言わず修練する期間」が絶対に必要です。

 私はこうした時期を、自分で勝手に「『1』を作る時期」と呼んでいます。
 人間は大きな飛躍を遂げ、成功するときには「掛け算」で飛躍します。
 しかし、その飛躍を遂げるためには、自分自身の価値を「1」あるいは「1.1」とか「1.2」にする時期が必要であるとも考えています。それこそが、物事を習得するため、自我を出さず、人の言うことを忠実に修練する時期なのです。
 ここで師匠の言うことを聞かず、やれ個性だ、自主性だとほざいてやるべきことをやらなければ、礎石がグズグズの上に建物を建てるようなもので、何も習得できず、みじめな人生になることは必定でしょう。 
 また、いくらやってくるチャンスが大きくても、人間的な価値が「ゼロ」の人間は、そのチャンスを生かすことはできませんし、下手すればそのチャンスが来たことすら気づかないかもしれません。
 掛け算と同じく、人生の掛け算も同じ。いくら大きな数を掛けても、ゼロはゼロのままなのです。

 来るチャンスを逃さない人間力を形成するためには、「人から言われたことを、各レベルに応じ、自家薬籠中の物とするまで黙って頑張る」という時期を耐えて過ごすことが絶対に必要です。
 これこそが人間の「1」を形成することであり、それがない人間には、以後何を教えてもダメだと思います。

 その「1」を作ること・・・私的には、あいさつをして、整理整頓がきちんとできて、義務教育以上の教育をきちんと受け、先祖や父母、寺社に尊崇のまごころを持つことが最低ラインだと勝手に考えています。
 それができない人間に自主性だ、個性だなどというのは、ちゃんちゃらおかしな話だと思います。
 
 あの頃個性だ、自主性だなどと言っていたバカ教師の皆様、もし弊ブログを読んで言い訳がございましたら、ぜひコメ頂きましたら幸いです。

霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(第18回・立ちはだかる神戸の「怪物」)

2017-01-15 20:10:24 | 霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝
 柳井の甲子園2戦目は大正14年8月21日の準々決勝。
 緒戦の勝利に意気上がる柳井ナインですが、準々決勝の相手が決まったときには、さすがに動揺の色を隠しきれませんでした。
 その相手は…兵庫県の市立第一神港商業。
 神港商業は前年の大正13年夏から3期連続の甲子園出場。
 チームは技巧派エース町田重信、控え投手西垣徳雄といった地力のある投手陣と、センター島秀之助、近畿ナンバーワン捕手小柴重吉などの有力選手が多数所属。試合運びもうまく、近畿一円に敵なし、という充実度合いを誇っていました。
 そんな神港の中には、ひときわ輝く超ド級の選手がいました。「和製ベーブ」こと、四番ファースト山下実。オールドベースボールファンにはお馴染みの名前ではないでしょうか。

 山下は大正13年夏の大会、早実戦でいきなり豪快な一撃!甲子園で最も深い右中間フェンスに、ショートバウンドでたたきつけたデカい当たりは、新装甲子園大運動場第1号ホームラン。推定飛距離は415フィート(約125メートル)!!
 この試合山下はヒット、ホームラン、センターオーバーの三塁打と大当たり。一躍、日本中等野球最強打者と謳われるに至ります。
 翌大正14年の第2回センバツでは、この大会から始まった個人賞のうち、打撃に関するタイトル(本塁打賞・打撃賞【最高打率に相当】・生還打賞【打点王に相当】。戦前のセンバツには、夏の大会との差別化を図る観点から、個人賞というものが存在する時期があった)をすべて独占。大正14年夏の時点では、押しも押されもせぬ最強打者として、各チームから大きく警戒される存在となっていました。

 山下の体格は、のち職業野球・阪急に入ったときの身長・体重が175センチ、79キロ。中学時代もそんなに変わらなかったものと思われます。
 現在ならこの程度の体格の選手は掃いて捨てるくらいいますが、当時は、中等野球の選手の平均身長・体重が160センチちょい、55キロくらいだった時代。その時代の175センチ、79キロは破格の大男です。

 当時としては規格外の巨体と、300匁(1.1キロ超)のクッソ重たいバットを軽々と振り回す規格外のパワー、岩のようなゴツイ風貌から、ついたあだ名は「怪さん」「怪ちゃん」・・・なんか山下選手にとても失礼な気がしないでもないのですが、まあ、いいです(;^ω^)
 「怪力」とか「怪物的な飛距離」だけでは、山下のバッターとしての本質を見誤ると思いますので、具体的にどういったタイプのバッターであったかを、後年早慶戦で、山下と投手として対決、激しく火花を散らした伊達正男(市岡中→早大→全大阪、プロ野球阪急コーチなど)の著書から抜粋します。
「空振りしても、ぴゅんとすごい音がする。練習では10本打ったら5本はスタンドへ放り込む。腕力が強かった。それに選球眼もよかった。だから、ホームランだけでなくヒットもよく打った。相手にしたら、本当に怖い、始末に困る打者だった。」(伊達正男著「私の昭和野球史」より)

 さて話を準々決勝・第一神港商業―柳井中学戦に戻します。
 試合は正午ぴったりに、カンカンと太陽が照りつける中、柳井の先行でプレイボールが宣されました。
 第一神港商業のスタメンは以下の通りです。
1番ライト桝本清吉・2番サード浜崎清・3番ピッチャー町田重信・4番ファースト山下実・5番セカンド久保春吉・6番センター島秀之助・7番レフト岡正・8番ショート池田唯一・9番キャッチャー小柴重吉
 柳井中学は釜山中学戦と全く変わらないメンバーだったので、記載を省略します。

 怪物は1回裏、いきなりその真価を発揮します。
 柳井エース清水は1番桝本、2番浜崎を打ち取りますが、3番町田にヒットを許してツーアウト一塁。バッターは四番・山下実!
 山下は300匁のバットで素振りを行い、ゆったりと左バッターボックスに立ち、ちょっと広めのスタンスで構えます。
 清水もこれまで、広陵の繩岡、角田、山城、田岡などといった強打者相手に投げてはいましたが…初めて出会う規格外のオーラに、圧倒される思いでいっぱいになりました。
 清水が投じた第1球。怪物は右足をほんの少しだけヒッチさせ、テイクバックをほとんどせず、体の回転だけでバットを振り切りました。
 「グシャッ!」とか「ガシャ!」というような鈍い音とともに、球はライト久甫の頭上を大きく飛び越し…なんと、広い広い甲子園のライトスタンドに直接飛び込む、超特大の大会第6号ツーランホームランとなりました。
 今お話しした打撃フォームは、後年の阪急時代の連続写真からの描写ですが、ロングヒッターにありがちなでかいテイクバックとか、大きな踏み込みといったいわゆる「タメ」を作る動作がほとんどなく、どちらかといえばミートのうまいバッターという感じがするものです。
 そのフォームから、1キロを軽く超えるクッソ重たいバットにいきなり初速を与えられる強靭な下半身と、そのバットを正確にコントロールできる腕っぷしには、ただならぬものがあります。
 しかも清水はスピードピッチャーではないので、剛速球をはじき返すことによる作用・反作用は使えません。

 この規格外の一撃は、センターを守っていたオッチャンも、呆然と見送るしかありませんでした。
 「ここまで、あの打ち方で飛ばすやつがおるんじゃ…世の中にはスゴいやつがおるんじゃのう…」

【第18回・参考文献】
・「柳井高等学校野球部史」柳井高等学校野球部史編集委員会
・「毎日グラフ別冊 センバツ野球60年史」毎日新聞社
・「ホームラン2016年9月号臨時増刊 歴代春夏甲子園メンバー表」廣済堂出版
・「球史発掘シリーズ① 日本プロ野球偉人伝 VOL.1」ベースボールマガジン社
・「私と昭和野球史 戦争と野球のはざまから」伊達正男 ベースボールマガジン社