集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

カルト小説家は明治維新がお好き?

2017-09-28 10:31:55 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 最近ネットを見ていますと、西鋭夫なるヤツが書いたという「明治維新の隠された真実」とか、「坂本龍馬に資金を出した黒幕の正体」とか、そんなアホくさい作品を買え!という広告がボンボコ出てきます。
 いちおうちょっと気になって、同人とその著書に関するネットの反応を見ますと「目新しい話など何もない」「歴史をちょっとかじった人なら誰でも知っている話をもったいぶって話しているだけ」という評判ばかりであり、歴史を語る資格がないドシロウトであることが分かります。いわゆる歴史好きな情報弱者をターゲットにした詐欺商売ですな。
 
 これに関連し、「明治維新の隠された真実」という系列のしょうもない本を書き、同じく情報弱者を相手に儲けているのは、以前弊ブログでも紹介した、原田伊織(昭和21~ 残念ながら存命)とかいう老害ジジイ。
 コイツは「明治維新という過ち」「大西郷という過ち」「官賊と幕臣たち」などという、「薩長憎し!水戸憎し!」という正体不明の怨念を燃やし、ロクな下調べもしていない妄想丸出しの自称「サムライ・エッセー」なるトンデモ本を書き続けている、まあ、はっきり言いまして、司馬遼太郎にあこがれる一種の狂人。内容はいずれも、いかがわしい超常現象大好きな人だけが購読する「月刊ムー」掲載レベルです。
(なお私は基本、他人の氏名には「様」「さん」をつけて呼称するよう気を付けていますが、この原田伊織に関しては、呼び捨てもしくは「老害」「ジジイ」の呼称で充分な人物なので、以後そのように呼称します。)

 この原田というジジイは自称歴史家ですが、その著作に対する姿勢は単なるカルト作家であり、決して歴史家のものではありません。
 このジジイは歴史ものを書くにあたっての所信を「明治維新という過ち」においてこう書いています。
「近年は誰もが一次資料だ、二次資料だと騒ぎ立て、一次資料というだけで信じ込む単純さが幅を利かせている」

 …あのね、おじいちゃん、「歴史の本を書く」ということ、しかもただの小説じゃなくて、史実を掘り起こして書くという行為をするのなら、当時書かれた資料をきちんとあたるのは当たり前なんだよ。それが史学というものなんだよ。「単純さが幅を利かせる」とかそういうレベルの話じゃなく、ごく当たり前の話なんだよ?わかる?おじいちゃんはたしか彦根東高校とかいう、滋賀県の名門高校(なんでも、毎年国立大学に100人以上の合格者を出している名門だそうです。なお、原田伊織は大阪外語大卒。あっ…(察し))の出身なのをやたらと吹聴しているのに、そんなことも知らないの?ほかの賢い彦根東OBが見たら泣くよ?

 江戸末期から明治初年にかけての時期においては、当時の人が書き残した史料が本当にたくさん残っており、きちんと当たろうと思えばすぐにできるはずです。
 しかしこのジジイが、自作において使用した参考文献68冊のうち、35点が小説家の手によるもの(ブログ「群龍天に在り」調べ)で、当時書かれた一次資料がほとんど使われていません。
 しかも「参考文献」として、国賊作家司馬ポニョ太郎の「街道をゆく」を山のように使っており…もう、バカとしかいいようがありません。
 なお、これら一連の原田作品の問題点については、「群龍天に在り」という非常に秀逸な歴史考察ブログがあり、そちらで大変丁寧にまとめられておりますので、ぜひご参考とされてください。
 URLはこちら→http://touryuuuan.blog.jp/archives/1064198255.html

 このほかこのジジイは、同著においてこう続けています。
 「歴史を皮膚感覚で理解するということは、その場の空気を感じ取ることだ」
 「資料や伝聞は、その手助けに過ぎない」
 …おお、おじいちゃんは資料がなくても、その場所に立ったら歴史が理解できるんですね?すごいですね!おじいちゃんはエスパー伊東だったんですね!
 …これはもう、「カルト」のレッテル貼りをしても十分でしょう。

 私は原田ジジイの本は、前任地の図書館で読んだだけ(目と頭が汚れるので、その後読んでいないです('◇')ゞ)であり、その後のエゴサーチはネットで行っただけなのですが、まあ、これら一連の原田作品をざざっと調べれば、「明治維新じゃなくて、著者の存在自体が過ちだよ!」というツッコミが生まれること請け合いです。
 なおこの原田なるジジイは著作において、大学時代に学生運動をしていたことを自慢していました。
 私は「学生運動をしていたジジイはクズ、それを吹聴したり自慢したりするヤツはもっとクズ」との固い信念を持っていますが…やはり、人間のクズでした。

 明治維新は我が国開闢以来の大変革の時代であり、その時代を駆け抜けた人の業績は、ある一面からだけでは評価しにくく、今もって正確な業績評価ができていない状態が続いていると仄聞します。
 だからこそ、「薩長は殺人鬼でテロリスト」みたいなうがった見方をするアホウが昔から絶えないわけですが、明治維新についてほぼ間違いない事項として言えることは「いろいろあったが、日本人が残る英知を結集して国難を乗り切った。対して江戸幕府は当時、既に当事者能力を喪失していた」ということ。
 少しでもスキを見せれば列強が即座に付け入ってきて植民地にされる、という剣呑な時期を乗り切った先人を捕まえて、自らは傷つくことのない後世から、ゲスの浅知恵で「テロリストだ、人殺しだ」などというのは、愚かとしかいいようがありません。活字にして世に問うていいことでは、決してありません。

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ドカっと座ることと、やらない言い訳の天才

2017-09-23 19:08:21 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 何かの筋トレ啓発本で「電車でドカっと座るオヤジは、なぜその姿勢なのか?」という問いかけを見ました。
 内容はうろ覚えですが、「それはオヤジの態度が悪いからではなく、明らかに筋力低下に起因するものであり、今まで楽なほうに逃げていたツケが現出したものとも言える」みたいなことが書かれてあったと思います。

 そうした座り方をする人間…うちの会社にも掃いて捨てる( ´艸`)ほどいますが、私の記憶に鮮明に残る1人を挙げるとすれば…なぜか付き合いの長いKKBさんという先輩。50歳を突破した今でも山のようにバカスカメシを食い、昼食にラーメン屋に行けば「大盛ラーメン・ライス中・ギョーザ」はマストアイテム!洋食の店に行けばナポリタンテンコ盛!という食生活を送るそのシルエットはまさに布袋様の置物(;'∀')。座り方は明確に「ドカっ!」であり(;''∀'')、また、自家用車のリクライニングは常に倒れた状態です( ´艸`)。

 そんなKKB先輩の人生最大の特技は…「やらない言い訳」。
 この先輩はとにかく言い訳が得意。全く理路整然とはしていませんが、とにかく井戸水のようにコンコンと言い訳が湧き出すため、聞いている方がそのうち根負けし、「そうなのかな…?」と納得してしまうのです。キャッチセールスとか訪問販売の世界でこの才能が生かせたなら、トップセールスマン間違いなし!というくらいのレベルです。
 ちなみにこのKKB先輩、実は私の広島地方本社時代の前任者。
 私がこの人から仕事を引き継いだ時、まず一番びっくりしたのが、この人が仕事をした痕跡が何一つなかったことです。
 物品の出納帳簿は真っ白、部外関係者との連絡は途絶したまま、必要な業務はまったくしていない…
 ただ、私がそれにたまげて説明を求めに生きますと、その「やらない言い訳」をトウトウと展開。私はすっかりだまされ…あとでひどい目に遭いました(''◇'')ゞ。結局1年以上をかけ、上司にKKBさんが原因である不備をなじられ、どなられしつつ、通常の営業形態に戻したことがございました。

 …とはいえ、体力維持に「言い訳」は当然、通用しません。
 やらなかったらやらなかった分、自分の体に実に正直に跳ね返ってきます。
 KKBさんはいつものように、「俺は朝にトレーニングしているんだけど…」などと言いますが、明らかに筋肉量を上回る脂がしみついておりますし、そのトレーニングが有効なものなら、あの「ドカっ!」という座り方にはならないでしょうよ( ´艸`)。

 「電車でドカっと座るオヤジは、なぜその姿勢なのか?」…なんだかすごく腑に落ちた筋トレ啓発本の記事のお話、でした。
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クルマオンチのクルマ考

2017-09-16 12:14:36 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 先ごろ亡くなられた俳優・作家・映画プロデューサー・家門研究家にして、「安藤組」組長としても鳴らした安藤昇先生。
 その著書は、壮絶な生きざまに裏打ちされた、心に響く名言がたくさんつづられており、いつも瞠目させられるところ大なのですが、今回はそんな安藤先生の名言のうち、クルマに関する記述を「男の覚悟」(青志社)から引用させていただき…そのうえで所信を申し述べさせていただきます。

「クルマには、道具であること以上の魅力がある。素晴らしいクルマを所有することはステイタスであり、権力、経済力の誇示でもある。ヤクザがアパート住まいをしながらでもフルサイズの高級外車に乗りたがるのは、何よりそのことを物語っている。」

 この意見には基本的には賛同しますが、心底からは賛同しかねるところがあります。

 自営業やヤクザなどのように、ある程度見栄を張らないと足元を見られる、という業務上?の必要がある人が、身の丈以上のクルマを持つ…ということは充分に理解できます。
 ただ、そうした商売上の必要がない、私のような勤め人が身の丈に合わない高級車に乗りたがるのは、個人的見解ということをお断りしたうえで所信を述べさせていただきますれば、バカ以外の何物でもなく、全く理解に苦しみます。
 ただ、残念なことにうちの会社の社員は私と真反対の発想、つまり安藤先生が言うところの「アパートに住んでいるくせにフルサイズの高級外車に乗りたがる」バカが多いのです。もう本当に、いやになるくらいいっぱいいる(-_-;)(;'∀')(-_-;)。

 まだ現場に出てきて1、2年のハンチク野郎がハリアーを買い求め、ジープ社の巨大ランクルタイプを乗り回し、ムスタングを買い…という、吐き気がするような光景を今まで嫌というほどみましたが、もう、私に言わせれば「顔じゃない!(←相撲界の隠語で、「身の丈に合わない」という意味)」の一言。醜い。はっきり言って醜い。それ以外に表現のしようがありません。
 ただ、オーナーであるバカな若者は、そのクルマに乗っているときはとても幸せそう…

 これも私の勝手な分析ですが、うちの会社の社員であって、身の丈に合わないクルマやバイクが大好きなヤツ、というのは仕事・趣味のいずれにもロクなウデがない、つまり、仕事ができない、頭が悪い、人に自慢できる趣味が何もない…という傾向がとても強いように思います。
 つまり、オーナーがバカで能無しというコンプレックスを、高級なクルマを持つことで解消しようといういわゆる「代償行為」にしか見えないのです。

 私の自家用車に関する見解ですが、原則、タイヤが4個ついていて、車検に通るものであれば何でもいいです。
 なので私は、未だに軽自動車に乗り続けています。
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「霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝」の更新一時休止について

2017-09-11 10:12:38 | 周防野球列伝
 「霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝」ですが、第33回からは早大野球部編となります。

 ただ、オッチャンの早大野球部時代の戦績などに関する資料収集や研究は未だ途上の段階にあり、現状では披瀝できる状態にございません。
 早大時代は、オッチャンの野球人生随一の誇りの時期であり、これをネット資料程度をもとに雑に解説しては天罰が下ります。
 オッチャン伝説に厚みを増す観点から、今しばらく資料収集及び同分析に時間を頂きたく、「杉田屋守伝」の一時休止をご寛恕頂きますよう、伏してお願い申し上げます。

 これに伴い、「杉田屋守伝」以外の記事には頭に「通常営業」との文言を振っておりましたが、今後しばらくはこれを削除することと致します。

 周防平民珍山 拝
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霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(第32回・オッチャンたちの卒業と「野球の柳井」第一次没落)

2017-09-09 14:21:17 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 オッチャンたち柳井中学野球部2期生最後の試合は、大正15年9月14日、自校のグラウンドにおいて行われた広島商業戦でした。なおこの試合は、柳井町長が会長を務める柳井体育協会主催の招待試合で、ただの練習試合というわけではなかったのです。
 試合は先発こそ久甫でしたが、リリーフで清水が投げ、そしてオッチャンや加島、久甫が打って…と、3期連続甲子園出場メンバーの貫目を見せつけ、9-4で快勝。有終の美を飾ったのでした。

 引退した2期生はそのまま、ある意味野球よりも過酷?な受験戦争に身を投じます。
 オッチャンは、尊敬する鈴木監督の修行した早大野球をさらに深く学びたいと考え、また、夏休みごとに柳井中学にやってきてコーチを施してくれた早大の名選手に強いあこがれを抱いていたことから、早大の受験を志しました。

 当時、甲子園に出るような有望選手は、強豪私学が早い段階からツバをつけておき、そのまま引っこ抜いていくということが常態化しておりました。当然オッチャンにも、いくつかの大学予科への入学要請があるにはあったのですが、オッチャンの固い決意はゆらぎませんでした。
 また、官立高校(現在の国立大学に相当)に入るには当然死ぬほど勉強する必要がありますし、それ以外にも当時、日本では最高峰の野球をやっていた早慶を受験する場合、頼まなくても選手の方から「入れてくれ、入れてくれ」と頼みこんでくるわけですから、「野球選手だから履かせてもらえるゲタ」はないに等しい状態。そんな中で「学生としての気合」を見せるためには野球選手としてのウデのみならず、心して勉強する必要がありました。オッチャンの述懐です。
「当時の中学選手のスターは各大学から勧誘に来たもので、私にも各大学から誘ひに来ました然るに早大は平然たるもので私の存在など全く認めてくれませぬ。
 併し(しかし)私は漠然ながら中学時代から早大野球部の精神を慕って居ましたので早大の予科を志願…」

 この年の瀬の12月25日、大正天皇陛下が崩御して時代が昭和と変わり(そのため昭和元年はわずか6日しかなかった)、年が明けて昭和2年の春。オッチャンのサクラは見事に咲き、早大予科への入学が決まったのです。
「その時の喜びは大変なもので今でも240番と云ふ受験番号を忘れませぬ。」

 ほかの2期生のサクラも見事に咲きました。
 ・捕手(主将)加島秋男 立教大学予科
 ・遊撃手   井上高明 慶応大学予科
 ・一塁手   久甫侃  長崎高等商業学校(現・長崎大学経済学部)
 ・中堅手   川本昇  山口高等学校(現・山口大学)→東京帝国大学工学部

 特に凄いのは川本と久甫。これだけ厳しい野球の練習に耐えながら、難関の高等学校・高等商業に入り、川本に至っては東京帝大に進学しているのですから、当時の柳井中学の学問レベルの高さが伺えます(同校の不肖の後輩である著者は恥じ入るばかりです)。

 さて、2期生なきあとの柳井中学ですが、その実力を名実ともに支えてきた絶対エース清水の卒業(昭和4年3月卒)と共に、その力をジワジワと下げて行きました。
 トドメとなったのは、昭和5年度いっぱいをもって、柳井の野球を一から築き上げてきた名将・鈴木立蔵監督がいなくなったことです。
 鈴木監督のもともとの専門はスペイン語。しかし、2代目の須貝太郎校長が、「教師としての地歩を固めることがより良い監督生活への第一歩」と配慮したうえで英語教諭として採用していたのです。
 しかし、6代目の本沢校長はこのことを問題視して追及、結局鈴木監督は京都師範のスペイン語教諭として転出することとなり、8年間で4度も柳井中学を甲子園に導いた名将は、追放同然にその座を追われることとなったのでした。
 なお、本沢校長はこのころ勃興してきた国粋主義に迎合するお調子者で、教師の服を海軍士官の第一種軍装をまねた紺サージの制服にするなど、エキセントリックな男としても知られていました。また、大の野球嫌いで、野球部員はことあるごとに、理不尽な攻撃の的となりました。当然、野球の実力は低下するいっぽうとなります。

 柳井の実力低下と期を一にして、県西部の下関商業が勃興したのも、柳井にとっては不幸なできごとでした。
 遠洋漁業の基地として、造船の町として栄える下関を拠点とする下関商業はたちまち全国トップレベルに躍り出、昭和10年代の中国地方の野球を席巻します。反対に柳井中学野球部は、長い長い冬の時代に突入。その長い冬は結局、終戦まで開けることはありませんでした。

 のちに稿を改めてお話ししますが、新制柳井高校の戦後初となる甲子園出場は昭和23年夏。この時の監督は、オッチャンと共に甲子園でプレーした頼もしい後輩・川近勝。その川近を監督として推挙したのは誰あろう、オッチャンだったのです。 

【第32回参考文献】
・「私の野球生活」杉田屋守著 杉田屋卓編 私家版
・「柳井高等学校野球部史」柳井高等学校野球部史編集委員会

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