集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

ニオイは記憶に残るものゆえ(-_-;)

2018-03-24 09:22:55 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 私のサンボの先生はこのようなことをおっしゃっていました。
 「人間の潜在意識にもっとも強く働きかける五感は嗅覚、次が味覚です」
 …ニオイの記憶は強く残る。そして潜在意識に働きかける。これがウソではない、というお話を、本日はしてみたいと思います。

 泉州支社在勤時、同僚にS中という男がいました。
 筋肉にやたらと造詣の深い男で…というか、自分の筋肉とその育成、あとは女くらいにしか興味を示さない。素頭はいいものの、とにかくコミュ障で自分勝手という、悪い意味で「ザ・トレーニー」という気質を有する男でした。
 こいつはまだプロテインの種類がそんなに存在しなかった平成10年代の頭ころ、効能はピカイチなれど、高額で有名であった某ブランドのプロテインやアミノ酸類を、メシのたんびに手当たり次第に服用していました。
 「ケッタイなことをしよるな。」私の感想はただそれだけでした。

 そんなS中と一緒に、長い長い航海に出たのは、ヤツと出会って半年たったころでした。
 航海中のある時、自分の身にピッタリと装着すべき装備品が壊れて使えなくなったため、比較的体形の似ているS中から、装備品を借り受けることとしました。
 そして、ヤツの装備を身に着けるべく、何気なく、ほんとうに何気なく顔の前に装備をかざしたところ…「グエーーーーーーーー!!!!!」
 「ケミカル臭」に「生ごみ臭」が加わり、しかもそれぞれが強烈に自己主張し合うという、すさまじい悪臭が私を襲ってきました。臭いが本当に目に染みて、まともに目を開けていられないほど。それほどの悪臭でした(~_~;)(~_~;)
 航海中は同じメシを食っていたのですから、この悪臭の原因は、ヤツが頻繁に服用している高級プロテインとアミノ酸類、あとはヤツの体質くらいしか考えられないわけで…いやもう、本当に臭かった。10数年を経た今でも、鮮明に記憶に残っています。
 それ以来ワタクシは、体臭については人一倍気を付けて生活するようにはしております…。
 
 あと、自分が原因となる「臭い」で他人を不快にさせたことも忘れられません。
 まあ、狭所ですかしっ屁をして、それがすかしっ屁にふさわしいだけの凄まじい臭気を発し、周りの先輩からめっちゃくちゃ怒られたというだけの話(-_-;)ですが、これまた、自分のした屁であるはずなのに、その臭さは超弩級であり(-_-;)、鮮明に記憶に残っています。

 潜在意識や記憶に残りやすい臭いですが…個人的にはあまり、記憶に残ってほしくない気もします。
 
 
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霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(第35回・「『柳』井の中の蛙」だったオッチャン、大海を知る)

2018-03-18 20:24:46 | 周防野球列伝
 早大野球部の合宿所は、オッチャンたちが入部する2年前の大正14年、牛込区戸塚(現・新宿区戸山)の近衛騎兵連隊横に新造されたばかりでした。
 5年に1度のシカゴ大学との対戦を控えた早大は、練習場である戸塚球場を、試合のできるスタジアムとしても使えるよう大改装。5万円の巨費を投じ、25000人収容のスタンドを新築、面目を一新したということについては第20回でお話しした通りです。
 早大野球部はこれに併せて野球部合宿も新築しました。
 同合宿所は鉄筋コンクリート2階建て。2階は選手室16部屋、1階に食堂、応接室、事務室、炊事場を備え、地下に浴室、屋上に運動場を備えるという、当時としては最新の合宿所でした。またこの合宿は、当時としては珍しい1人1部屋の個室制度なっていたようです。
「(早大野球部の旧合宿所は)下戸塚の四五四番地の古ぼけた下宿屋のあとを借り受けたもので、むろん今日の如く一室一人などというぜいたくなものではなく…」(「熱球三十年」より抜粋)
 さて、そんな合宿ですが、オッチャンたち昭和2年度入学組が早大の門をくぐったとき、そこはもぬけの空となっていました。
 実はこの時、早大の一軍に相当する先輩16名は、同年4月2日に横浜を出航、4か月にも及ぶ長いアメリカ遠征に旅立っていたのです。遠征メンバーは以下の通り。
【監督】市岡忠男 【投手】藤本定義(松山商)、水上義信、原口清松(大連工)、朝倉長、中津川忠(大田原中) 【捕手】伊丹安廣 【一塁手】西村成敏(松本商) 【二塁手】森茂雄(松山商) 【三塁手】井口新次郎 (和歌山中)【遊撃手】西村満寿雄、富永時夫 【左翼手】瀬木嘉一郎 (横浜商)【中堅手・主将】氷室武夫 【右翼手】水原義明

 当時は、六大学連盟に所属する学校が、最新技術を学ぶためにリーグ戦を丸々休んで渡米遠征することがちょくちょくありました。
 ただ、部員総員が渡米できるわけでもありませんので、日本に残留した部員は当然留守を預かりつつ、練習と試合を繰り返します。
 このレギュラー組不在の間留守を任されたのが、「五十年史」では「留守軍」と形容された残留軍団と新入生。その主要メンバーは以下の通り。
【投手】源川栄二(新潟中)、高橋外喜雄【捕手】松本清(柳井中)、大島政之助(新潟商)、川久保喜一(長崎商)【一塁手】内川留治(上記の阿部留治)【二塁手】上條(下の名前不詳)、矢田英五郎(弘前中)【三塁手】黒木正巳、杉田屋守【遊撃手】佐伯喜三郎【外野手】今井雄四郎(米沢中)、多勢正一郎(神奈川中)、山本實(佐伯中)、黒田正二
 留守軍に編入された新入生としてはオッチャンのほか、投手の高橋、のちに強打者として活躍する佐伯、黒田といった名前が確認できます。

 オッチャンたち留守軍は、4月上旬に来日した米国邦人チーム・フレスノ野球団との対戦を皮切りに、横浜高商や国学院などを相手とした春季対抗戦、早慶新人戦、六大学対抗戦(早大は一軍が不在のため、昭和2年春は不参加の形を取り、かわって留守軍が対抗戦という形でリーグ戦参加)などと連戦に次ぐ連戦の日々を過ごします。
 留守軍は8月の東北・北海道・樺太遠征までを戦い抜き、春の六大学対抗戦は3勝3敗、北海道・東北遠征はなんと16戦全勝。特に北海道・東北遠征の最終の2試合では、函館太洋倶楽部を2戦連続で下しているのですから、さすがは当時、日本最高峰の野球技術を持っていた早大…というべきでしょう。

 しかし、オッチャンがほんとうに早大野球部の洗礼を受けるのは、一軍の先輩が帰って来たそのあとから、でした。

 レギュラー組帰国後少し経った昭和2年秋。秋季リーグ戦開始を控えた早大野球部は、市岡監督引率の下、栃木県宇都宮市で合宿を張りました。
 ここで、入学以来あまり顔を合わせていなかった伝説の先輩方の本気のプレーを初めて見たオッチャンは、驚愕します。

 まず打撃。柳井中学では四番を打ち、強打者を自任していたオッチャンでしたが、井口新次郎先輩、伊丹安廣先輩、水原義明先輩らの打撃は、甲子園で見た中学レベルの強打者をはるかにしのぐ、異次元のものでした。
 当時の早大打撃陣の白眉と言えば井口先輩。22貫目(83キロ弱。当時、大学野球選手の平均体重が70キロ程度)の巨体をクラウチングスタイルのように構え、三百匁(1125グラム)のバットを軽々と振り回し、矢のようなライナーをぶっ飛ばすのです。
 守備陣もまた華麗の一語で、井口・伊丹先輩や森茂雄先輩を筆頭に「鉄桶」を謳われた守備陣が、まさに水も漏らさぬ見事な連携を見せていました。
 オッチャンも甲子園で一流プレーヤーとしのぎを削った名選手ではありますが、当時日本最高峰の野球と言えば東京六大学野球。オッチャンはただただ、レベルの違いに呆然となるほかありませんでした。
 そして練習の長さ、濃密さ。リーグ戦を控えたこの時期、練習のきつさは佳境を迎えます。オッチャンもこれまで、柳井中学の猛練習に耐えてきたのですが、早大の練習はそれを凌ぐものであり、ついて行くだけで必死です。
 「大海」のレベルを初めて知ったオッチャン。来日したとき以来の強烈なカルチャーショックを受けたことは想像に難くありません。

【第35回・参考文献】
・「早稲田大学野球部五十年史」早稲田大学野球部編
・「熱球三十年」飛田穂洲 中公文庫
・内閣府HP防災情報のページ(「近衛騎兵連隊」所在地検索)
 
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岩国の隠れた?忘れられた名将と黒獅子旗(その7)

2018-03-15 17:41:46 | 周防野球列伝
 今回は、「青春・神宮くずれ異聞」のもう一人の主人公・「狂介」の正体を推測する、というところに特化してお送り致します。
 ただ、最初にお断りしておきますが、私は山口県立岩国高校のOBでも、同校野球部のOBでもなんでもない、単なる野球好きのオヤジであり、そのオヤジが数少ない参考文献をもとに推察したにすぎません。もし事実と異なっていても、あまり激おこにならないよう、伏してお願い申し上げます。

 まず、「狂介」とはいかなるキャラクターか、ということをまずおさらいしておきます。
・岡村さん高2の春(=昭和26年春)に、福島県の磐城から転校して来た。
・体がでかく、ケンカが鬼のように強い。体力抜群。
・体力抜群を買われ、岩国高校では主戦投手となり、岡村さんとバッテリーを組む。が、ノーコン荒れ球。狂介をエースに押し立てた岩国は負け続けた。
・高校卒業後は立教大学に進学するも、部内でのゴタゴタで上級生を半殺しにして退部、退学。いろいろあって岡村さんと共に永幸工場に身を投じる。
・ガンで早世。享年39歳。

 まずワタシが最初に考えたのが「「狂介」は岡村さんの岩国高校時代の同級生で、主戦投手」。
 で、「岩国高等学校野球部史」をひもときますと…岡村さんの同期にあたる主戦投手はSという方。名前は「キョウスケ」を連想せるものではありませんし、また、Sさんは1年の時からずっと岩国高校野球部に在籍されているため、転校して来たわけでもありません。また、立大にも進学していません。
 つまり、Sさんと「狂介」との共通点は、皆無とは言わないまでも極めて薄いことから「狂介=高校同級の主戦投手がモデル」という単純な推論はここで消滅、と相成ります。

 さればということで、Sさん以外で、岡村さんとそう遠く離れていない時期に活躍した投手…そして狂介のモデルになりそうな方…ということで調べてみますと、岡村さんの卒業翌年から主戦投手を務めた、高崎章なる投手が浮かび上がりました。
 玖珂(岩国の山奥の街。当時は山口県玖珂郡玖珂町。現在は岩国市玖珂町)出身の高崎投手は岡村さんの2年後輩。主戦投手となったばかりの28年春の県知事杯でいきなり好投を見せ、岩国高校野球部史上初となる県制覇に貢献。
 また同年夏、岩国高校は昨年度の1回戦負けの鬱憤を晴らすかのような快進撃を見せて西中国大会に進出。決勝で広陵に3-2で敗れて惜しくも甲子園出場を逃しますが、高崎投手は文字通りこの快進撃の立役者となりました。
 昭和28年秋には新チームの主将に抜擢されて快投を見せますが、主将就任直後の秋の中国大会では準決勝、29年夏の西中国大会でもこれまた準決勝で敗退し、いずれも甲子園まであと一歩!及びませんでしたが、岩国高校のレベルを押し上げた、岩国高校史上屈指の名投手と呼んで差支えありません。
 高校卒業後は中央大学を経て、岡村さんと同じ永幸工場野球部に入部。こちらでも主戦投手として活躍しますが、昭和39年に脳腫瘍を発症、28歳で、あまりにも短い生涯を閉じております。
 高崎投手と「狂介」は、「剛速球投手」「ガンで早世」「永幸工場野球部に在籍して活躍(ただ、永幸に在籍した時期は岡村さんとはかぶらない)」という点が共通しています。
 
 では、そのほかの「狂介」の特色はどのようにして形作られたのか…というと、これはちょっとわかりません。おそらく、岡村さんと同時期ころ、岩国高校野球部に在籍した方でないとわからない、というのが正直なところです。 
 ただ、岡村さんが「青春」を著す際、夭折した優秀なる後輩高崎章投手に対し「俺たちのときにあいつがエースだったら…」「あいつと都市対抗でバッテリーを組めたら…」と思いをはせたことは至極当然のことであると思います。
 そして、そこから話を膨らませて「俺の不遇の時代に、あいつがツーカーの友達だったら…」という願望も込めて生まれたのが、「狂介」だったのでは…これはあくまで、ほんとうにあくまでも私見です(;^ω^)。
 
 第8回からはまた、専売千葉-大昭和製紙戦の戦況を負っていきますが、「青春」の記載と、実際のスコアブックを折半しながら追っかけていくことと致します。

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負荷は正しくかけましょう?

2018-03-01 10:07:26 | 格闘技のお話
 ワタクシ、全体的な実人生は不遇なくせに、なぜか武道や格闘技に関しては、アタリの道場や師匠を引き続けているという、とてつもない幸運に恵まれ続けておりますが…ナンデダロウ。

 また、恒常的に師事した師匠以外にも、ピンポイントで教えを受けた大先生も名人ぞろいで、これまた自身の幸運に驚くばかりです。
 そんなピンポイントで教えを受けたとある大先生が、「空手の稽古と負荷のかけ方」について質問したワタクシに、こう教示して下さったことがあります。
「動作自体に負荷をかけてはいけません。というか、空手の稽古自体に、負荷をかけるという概念がありません。形を正確に練ることが、最大にして最高の負荷…といえば、負荷になるのです。」
 馬鹿で哀れな子羊を諭すようにおっしゃった先生の言葉…これをきちんと理解するまでに、私はなんと2年を費やしました。しかも空手の稽古ではなく、並行して行っているフィジカルトレーニングの勉強をする過程で初めて理解したのです。クソバカですね(-_-;)。
 
 「筋肉まるわかり大事典」(石井直方著・ベースボールマガジン社)によりますと、「してはいけないトレーニング」とは「思いつきのトレーニング」「競技動作に直接負荷をかけるトレーニング」の2つだそうです。
 ものを知らないオッサンが、ダンベルをゴルフのドライバーや野球のバットに見立ててスイングのマネをしたりするのを見かけると思いますが、あれこそがまさに「思いつき」の「競技動作に直接負荷をかけるトレーニング」の端的な事例ですね(;^ω^)。
 競技動作に直接負荷をかけてはいけない理由は、主に以下の2つに集約されます。
①繊細な動きを必要とする競技動作に直接過大な負荷をかけることにより、ケガのリスクが大きく高まる。
②競技動作に直接負荷をかけることにより、動作自体が不自然になり、パフォーマンスの低下を招く。要するに重みの加わったヘタクソなパフォーマンスをアウトプット(出力)することで、その不自然でヘタクソな動きが脳に擦りこまれてしまう。
(脳はインプット以上に、アウトプットの影響を受けやすいことは以前弊ブログにてお話ししましたとおりです)
 
 つまり、「パワーをつける」「競技動作のパフォーマンスを上げる」ということは別個に行うべきであり、バカな思い付きによってそれを二つながらやろうとか考えると、取り返しのつかない失敗をするというわけですね(-_-;)。しかし…あの質問をして、大先生の見解をお伺いしていなかったら…いろいろとゾッとします。

 ちなみにいつものグチですが、わが社のタイーフォ術(うちの会社で行われている健康体操( ´艸`))のポンコツ指導者にはこの「思いつき」による「競技動作に直接負荷をかける」トレーニングをするのが大好きな阿呆が多く、私はそれをいつも、ニヤニヤしながら見ています。見るだけで、その危険性については教えませんけどね…。
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