集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

岩国の隠れた?忘れられた名将と黒獅子旗(その4)

2017-11-28 20:38:15 | 周防野球列伝
 その日、池上投手の下宿に電話をかけてきたのは、岡村さんを永幸工場に引っ張り込んだシメナワでした。

「池上は複雑としかいいようのない表情でもどってきた。『専売千葉』が助っ人にきてくれ、ということだった。
『それはちょっとこまるだろう。つらい話だな。』
『おい、おい、のん気に言うな。八郎、お前も指名されているらしいぞ。』」(「青春」より)
 ちなみにこの「八郎」というのは、当時の仲間内における岡村さんの呼び名で、その語源は岡村さんが小学生くらいの頃、終戦のドサクサでシナ共産党の八路軍に保護されていた経歴からついた、と「青春」にはあります。
 これら一連の会話が示す事実…それは岡村さんが、都市対抗独自の制度である「補強選手」に指名されたということです。

 「補強選手」は、第21回大会(昭和25年)に始まった制度です。
 此の前年の昭和24年秋、プロ野球はセ・パ両リーグに分裂し、(発足当初セ8球団、パ7球団)、多数の即戦力を持つ社会人チームは、プロ野球に大量に選手を抜かれてしまいます。
 もっとも悲惨だったのが第20回(昭和24年)の都市対抗優勝チーム・別府市の星野組。当初星野組はプロ野球への加盟も考えていたようですが、結局計画倒れに終わり、監督兼任選手の西本幸雄、エース荒巻淳など、主力をのきなみ毎日オリオンズに持っていかれ、都市対抗優勝の強豪は、優勝した年に解散・崩壊という、なんとも悲惨な末路を遂げてしまいます。
 この事態を受け、大会レベルの低下が懸念されたところ、主催の毎日新聞・小野三千麿(日本で初めてメジャーに土をつけた名投手。詳しい経歴は弊ブログ「杉田屋守伝」を参照してください(''◇'')ゞ)の「予選敗退チームから有望選手を期間限定で借り受けて、地域最強のチーム同士を競わせれば良い」という意見にみな「コロンブスの卵状態」で賛同。これにより、予選で敗れたチームからこの大会に限って選手をレンタル、自軍の選手として出場させられるという、都市対抗に限定された実にユニークかつ実用的な制度が発足します。これが「補強選手」です。

 発足当初は、2次予選に進んだチームは1次敗退チームから最大5人、さらに本大会に進んだ場合、2次予選敗退チームから5人という、どエラい大人数の補強を許していましたが、昭和53年には1次予選後の補強を廃止、2次予選終了後に5人と大幅に補強選手を削減。平成22年からはさらに減じて3人となり、現在に至っております。

 岡村さんは「私は補強選手制度など、ほとんど知らなかった。ただ、『日本石油』に入社した井上先輩が昨年、一昨年と『日本鋼管』から後楽園に出場していたから、そのような制度をおぼろげながら知っている、というていどだった」(「青春」より)…そのため岡村さんは、最初はこの申し出を断ります。「敗けたチームに行きたくないのです。それに、社長にわるいから」(「青春」より)。
 ところがほどなくシメナワは、専売千葉側の意向ををふたたび伝えてきます。
「キャッチャーだけでもいい。貸してくれ…とまた言ってきた。」(「青春」より)
 この一言に、補強選手参画を拒んでいた岡村さんの気持ちがグラリと「参加」へと傾きました。あの宮武三郎が、キャッチャーの俺を名指しで…ただし、奥ゆかしい岡村さんは、こう付け加えることを忘れませんでした。「社長が承知なら行きます。」

 永幸の社長は岡村さんの補強選手参画を喜びました。
 なにしろ専売千葉は岡村さんの他、投手の池上、「狂介」、松山武遊撃手(当時立大4年在学中)、坂本孝治中堅手(立大-永幸)の大量5人を補強に指名してきたのです。永幸は「優秀選手をたくさん抱えているという」という優位を誇示できますし、また、専売にはある種の「貸し」を作れるわけです。社長のゴキゲンは悪かろうはずがありません。
 社長はシメナワとともに岡村さんの前に現れ、激励します。以下のやり取りはかなり秀逸なので、「青春」に記載のまま記載します。

「色白で、丸い顔に丸い眼鏡をかけた社長は、二つ折りにしたナン枚かの紙幣を私の胸ポケットにおしこみながら、シメナワにいった。
『新しい練習着をそろえてやれ』
『練習着はまだきれいです。洗濯していきます』と私はいった。
『スパイクは?新しいのを買ってやれ』
『スパイクもまだきれいです。みがいていきます』
社長は声もなくわらった。
『女とちがって、男は質素でいい』」(「青春」より)

 かくして「捕手 岡村寿」は、第26回都市対抗野球大会に正式に選手として参画できる資格を得たわけでございます。

【参考文献】
・「青春・神宮くずれ異聞 宮武三郎と助っ人のわたし」 大島遼(岡村寿)著 防長新聞社
・「都市対抗野球60年史」 日本野球連盟 毎日新聞社
・フリー百科事典ウィキペディア「補強選手制度」の項目
・弊ブログ「岩国の隠れた?忘れられた?名将」コメント中 真夜中のデッドアングル様記載記事
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「杉田屋守伝」改稿のお知らせ

2017-11-27 21:18:17 | 周防野球列伝
 「岩国高等学校野球部史」(門田 栄著 岩国高等学校野球部史編集委員会編・岩国高等学校野球部OB会発行)の調査研究により、オッチャンが岩国中学在学時~柳井中学転校までを記した第5回・6回・8回の原稿を改稿しましたのでお知らせいたします。
 「岩国高等学校野球部史」の読み込み、調査不足による改稿で、お恥ずかしい限りですが…サラっと書き流してしまった、岩国中学時代のオッチャンに少しだけ陰影をつけることができたかな…と思っております。
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「戦う気合」にチャンスと地位を与えよ

2017-11-13 20:53:54 | 格闘技のお話
 映画「二百三高地」を見た方にとっては意外な事実かもしれませんが、日露戦争の時代での白兵戦での死傷者は全体のわずか2.5%。以後、時代が下るに従って火力は発達、当然のように、肉弾相打つ白兵戦での戦死者はどんどんそのパーセンテージを下げていきます。

 しかし、平成の現在にあっても、自衛隊をはじめとした各国軍は銃剣術をはじめ、火器に拠らない戦闘・格闘の訓練を実施していますし、敵陣地に突撃を敢行させる訓練もしております。しかも、ちゃんとした軍隊ほど、こうしたことをきちんとしている。
 むろん、きちんとした軍隊であればあるほど、「火器が戦闘の優劣を決する」ことを知っているはずなのですが、それとは背反するように、火器に拠らない戦闘の訓練を行ってもいる…なぜ?

 この二律背反を理解するキーワード。それは下に掲げたクラウゼヴィッツの言葉ではないかと思うのです。
 「演習ニ於テ戦争ノ体験ハ得ル能ハズ。演習ハアクマデ技術ヲ訓練スル範疇ヲ出デズ」
 もう少しわかりやすい解釈としては…以前ご紹介した「戦争にチャンスを与えよ」(エドワード・ルトワック、文春新書)の中の、この文章でしょうか。
「どの国の軍隊に対しても、武器を与えるのは難しいことではない。(武器を取り扱う)訓練を施すのも、それほど難しいことではない。しかし『戦闘する意思』まで植え付けるのは極めて困難だ。『戦闘する意思』というのは、外から注入できるものではないからだ。」
 そう。戦う意思と気合は、「演習」、もう少し詳しく表現すると「モノの使い方&フォーメーション訓練」では涵養されないのです。
 「足を踏まれた痛みは、踏まれた者にしかわからない」などと言いますが、格闘訓練などを死なない程度に行うことにより、「殺される」「痛めつけられる」ということにリアルな感覚を持たせることだけが、「負けない!」「殺されない!」という気持ちを兵隊さん1人1人に植え付ける唯一の方法である、ということなのです。

 格闘訓練は紀元前の軍隊から現代の軍隊まで途切れることなく行われている、おそらく唯一の訓練でしょう。要するにそれだけ重要であり、これ以外に「殺すこと」「痛めつけること」にリアルな感性を持たせる訓練は今もって確立されていない、という証左でもあると考えます。
 逆に言えば、徒手格闘、あるいは銃剣格闘といった非火器による格闘訓練の有効性を認識せず、あるいは「火器があれば格闘訓練なんかいらない」という浅はかな理由を根拠にやらない、という軍隊は三流軍隊であると断じていいわけです。
 平成の初年頃、自衛隊では「徒手格闘訓練はイジメを誘発するから積極的にやらなくていい」という、なんともふざけたお達しが出た時期があったやに聞きましたが、平成17年には新徒手格闘が発足、今や自衛隊員の徒手格闘能力は極めて高いものとなっております。

(…なお話の文脈から言えば完全な余談ですが、ウチの会社の「タイーフォ術」は、その技術体系が極めて稚拙・拙劣なることもさることながら、その目的が「タイーフォをする技術を純粋に学ばせるため」なのか、それとも今回掲示した「戦う意思と気合を充溢させるため」なのかが全く判然とせず、その場しのぎの施策・属人的な思い付きの練習に終始しているのが、いつまで経っても一向に発展なく、ダメダメな原因であると思います。)
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岩国の隠れた?忘れられた名将と黒獅子旗(その3)

2017-11-11 20:37:16 | 周防野球列伝
 現役の立大生(この年から学生を各チーム3人まで入れてよいことになり、また、2部の学生なら学生として勘定に数えられないこととなった)でガッチリ戦力を固めた新生永幸工場は埼玉県予選を軽く突破。埼玉・千葉などの代表を集めて行われる南関東予選に進出します。
 下馬評は「優勝候補は永幸工場でキマリ」。選手もそのつもりで、全力で戦った…といえば聞こえはいいですが、別な表現をすれば、選手の若さが溢れすぎ、手の内が相手に即座にバレてしまうような戦い方をしてしまったようです。

 準決勝の全千葉戦。相手にリードされた永幸は明日の決勝用に温存しておいた池上善郎がリリーフ登板し、3イニングを全員三振に打ち取ります。打線も岡村さんのヒットを皮切りに連打が続いてやっと逆転、粘る全千葉を振り切り、決勝へコマを進めます。
 実はこの一戦を決勝の相手は綿密に偵察しており、大学生くらいの選手で溢れる若い打線のクセともろさ、そして決勝に池上は投げない…ということまで丸裸にされていました。
 永幸の二枚看板・「狂介」も池上も共に、立大野球部在学中から肩を痛めていました。投げ込みと走り込みしか投手の練習方法がなかった当時、肩を痛めていないピッチャーなどどこにもいなかった、と「青春」はいいます。
「(いちど試合で投げると)一週間はダメだという。肩があがらない。シャツも脱げない。箸ももてない。」(「青春」より)
 そんな偵察があったとはつゆ知らず、岡村さんも、「狂介」もただ浮かれていました。
「思いは決勝戦を飛び越えて後楽園出場へと向かっていた…まだ私は、トーナメントを勝ち抜くための過酷な試練、そのために必要な綿密な配慮も知らない、ガキ同然の選手であった」(「青春」より)。

 決勝戦の相手は千葉市・専売千葉。「白いユニフォーム姿の何の特徴もないチーム」(「青春」より)の中にたったひとり、どう見ても只者ではない巨漢がいました。それは誰あろう、専売千葉監督・宮武三郎。
 高松商業では大正14年夏の甲子園優勝!大学では慶応大学不動のエース・四番として活躍、戦前の慶応黄金時代の立役者!社会人に転じては東京倶楽部のエースで四番打者として、3度都市対抗優勝に出場し3度優勝!職業野球の草創期に阪急に入団して活躍!などなど、まさしく戦前の野球の「生きる伝説」です。
 「巨漢はただひとりベンチの前で、両手を尻ポケットにつっこんで、仁王立ちだった。すごい迫力だった。この一戦、なにほどのことやある、といわんばかりだった。」
 「宮武監督はゆっくりとこちらを見た。帽子を目深にかぶり、ひさしの下から鋭い眼光を飛ばしてきた。威圧するごとく、睥睨するがごとく。オイ、チンピラタチ、ガンバレヨ…というふうに」(いずれも「青春」より)
 若い岡村さんでも、「生きる伝説」の出現には心底からビビったわけですが、だからといって試合開始が遅くなるわけではありません。

 試合は定刻通りに開始され、双方無得点のまま速いペースで回は進みました。
 永幸は「新人2人の継投」(青春より)でなんとかしのぎ切っていましたが、専売はサインもなくいきなりバントをし、あるいは走塁を仕掛けして、永幸をかく乱します。しかし専売千葉も、先発の後を受けた「狂介」の荒れ狂うタマを、元々貧打の専売は打ち崩せません。
 「狂介」は、全千葉戦に先発しての中1日登板であり、ここは池上につないでしのぎたいところ…しかし池上は昨日力投したばかりで、全く使えない状態。「狂介」の「いかいでか。腕が折れても、ぶち投げるぞ」(「青春」より)という気合の投球だけが頼りという状態が続きます。
 いっぽう永幸自慢の打線は、綿密な偵察により全て得意のコースが分析されており、専売千葉先発・小宮圭三郎投手(専売千葉→リッカーミシン→立正佼成会)の前に、主砲の松山選手・坂本選手からも、岡村さんからも、全く快音が出ません。

 双方無得点のまま試合は進み…9回、専売は一死三塁とこれ以上ない得点の好機。
 ここはスクイズしかない、という場面で、岡村さんは宮武監督のサインを見破ります。「ヘイ、カモン!」というちょっと場違いな掛け声。「これじゃ!」岡村さんはウェストボールを投げるよう立ち上がってミットを構えますが、狂介のタマはすーっとど真ん中に入り、スクイズによる加点を許してしまいます。
 そのまま試合は終了。永幸は都市対抗出場まであと一歩と迫りながら、後楽園出場はその手中からスルリと逃げて行ったのです。
「試合に敗けたあと、選手は帰るところがない。勝ち残っていったチームの選手ほど傷は深くなる」(「青春」より)…池上と岡村さんはその日の夜、そしてその翌日の夜と飲み歩きました…。

 呑んで呑んで、飲まれて飲んで…という、昔の歌謡曲のような(;´Д`)時間を過ごす岡村さん。しかしその生活は3日目で終止符を打ちます。
 岡村さんの眼前からいったんは消えた後楽園球場が、実に思いがけぬ形で唐突に、しかもリアルな形で、目の前にぶら下がってくるのです。岡村青年、どうする?????

(その3)参考文献
・「青春・神宮くずれ異聞 宮武三郎と助っ人のわたし」 大島遼(岡村寿) 防長新聞社
・「都市対抗野球60年史」日本野球連盟 毎日新聞社
・ブログ「野球史探求」
・弊ブログ記事「岩国の隠れた?忘れられた?名将」コメント記事(真夜中のデッドアングル様記載)
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ひさびさのサバキ・ふしぎ発見!

2017-11-07 20:29:18 | 芦原会館修行記
 かつて芦原会館の門人であったワタクシ。今でも折に触れ、当時購入した技術書を読んだり、型のビデオ(実は平成10年代の初めころ、会員限定で型のビデオというものが頒布されました。それをカメラ屋でDVDに焼いてもらったもの)を見たりする過程でやはりしみじみと思うのですが…「先代はよく、空手とケンカテクニックとを見事に融合したもんだ…」という思いを常に新たにしております。
 本日は「『空手の極意なるもの』を具体化した功績」についてお話ししたいと思います。

 空手の極意には「相手を据え物にして打つ」というのがあります。
 この「据え物にする」という表現は様々な意味を包含しており、たとえば気や格の違いで圧倒する、たとえば解剖学的見地に立脚した「動けない」ところを打つ(これを詳しく知りたい方は沖縄拳法空手道に入門してください)、もっと極端な事例になれば足を踏んづける(;´Д`)とか、まあ、具体な方法は実に様々存在するわけですね。
 ただ、足を踏んづける(;´Д`)以外の方法については、万人に理解できるものではなく、また、会得できる人間が限られるわけですので、秘伝はずっと、秘伝のままであり続けられたのです。

 そこに大ナタをぶちこんだのが、先代であったと、私はあえて断言したい。

 先代のサバキはフルコンの稽古形態をとりつつ、あくまでもその技術はエネルギー効率論に基づいたもの(確率論のあたりは、試合のテクニックとして別に確立されており、これまた大きな成果を上げていますが)。
 「ポジショニング」「受けと手による崩しやロックの融合」「掴んでの打突」「打突を利かせたのちの投げ」。いずれもいずれも、「相手を据え物」にすることで自分の攻撃エネルギーをロスなく相手に伝え、最大の効果を得ることができるテクニックばかり。しかも、万人にわかりやすくソフト化されている…
 詳しくは古本屋で「実戦!芦原カラテ」1~3巻(3巻のみ復刻印刷されており、その他はアマゾンでも古書店でも、物凄い高値がついています(;´Д`))を買って読めばわかりますが、「よく『据え物打ち』という禅問答のアンサーを、こういうテクニックで具現化したもんだ…」と、本当に感心します。

 ちなみに空手の名言として「空手とは 人に打たれず 人打たず 事のなきを基とするなり」(宮城長順先生遺訓)というのもありますが、サバキには投げ、崩しもたくさん存在し、ポジショニングと投げ・崩しを併用することができれば「人に打たれず 人打たず」制圧することが可能…しかも相手を殴るわけではないですので、和解もしやすく、「事のなき」を補填するという意味…なのかな…(;´Д`)。

 今やもう門人ではなく、単なるいち芦原カラテファンとして暖かく「サバキ」を見守り、あるいは研究していますが、様々な武道・格闘技を習得する過程において先代のテクニックのすごさ、面白さに気づ、ますますサバキの奥深さに魅了される昨今でございます。
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