その日、池上投手の下宿に電話をかけてきたのは、岡村さんを永幸工場に引っ張り込んだシメナワでした。
「池上は複雑としかいいようのない表情でもどってきた。『専売千葉』が助っ人にきてくれ、ということだった。
『それはちょっとこまるだろう。つらい話だな。』
『おい、おい、のん気に言うな。八郎、お前も指名されているらしいぞ。』」(「青春」より)
ちなみにこの「八郎」というのは、当時の仲間内における岡村さんの呼び名で、その語源は岡村さんが小学生くらいの頃、終戦のドサクサでシナ共産党の八路軍に保護されていた経歴からついた、と「青春」にはあります。
これら一連の会話が示す事実…それは岡村さんが、都市対抗独自の制度である「補強選手」に指名されたということです。
「補強選手」は、第21回大会(昭和25年)に始まった制度です。
此の前年の昭和24年秋、プロ野球はセ・パ両リーグに分裂し、(発足当初セ8球団、パ7球団)、多数の即戦力を持つ社会人チームは、プロ野球に大量に選手を抜かれてしまいます。
もっとも悲惨だったのが第20回(昭和24年)の都市対抗優勝チーム・別府市の星野組。当初星野組はプロ野球への加盟も考えていたようですが、結局計画倒れに終わり、監督兼任選手の西本幸雄、エース荒巻淳など、主力をのきなみ毎日オリオンズに持っていかれ、都市対抗優勝の強豪は、優勝した年に解散・崩壊という、なんとも悲惨な末路を遂げてしまいます。
この事態を受け、大会レベルの低下が懸念されたところ、主催の毎日新聞・小野三千麿(日本で初めてメジャーに土をつけた名投手。詳しい経歴は弊ブログ「杉田屋守伝」を参照してください(''◇'')ゞ)の「予選敗退チームから有望選手を期間限定で借り受けて、地域最強のチーム同士を競わせれば良い」という意見にみな「コロンブスの卵状態」で賛同。これにより、予選で敗れたチームからこの大会に限って選手をレンタル、自軍の選手として出場させられるという、都市対抗に限定された実にユニークかつ実用的な制度が発足します。これが「補強選手」です。
発足当初は、2次予選に進んだチームは1次敗退チームから最大5人、さらに本大会に進んだ場合、2次予選敗退チームから5人という、どエラい大人数の補強を許していましたが、昭和53年には1次予選後の補強を廃止、2次予選終了後に5人と大幅に補強選手を削減。平成22年からはさらに減じて3人となり、現在に至っております。
岡村さんは「私は補強選手制度など、ほとんど知らなかった。ただ、『日本石油』に入社した井上先輩が昨年、一昨年と『日本鋼管』から後楽園に出場していたから、そのような制度をおぼろげながら知っている、というていどだった」(「青春」より)…そのため岡村さんは、最初はこの申し出を断ります。「敗けたチームに行きたくないのです。それに、社長にわるいから」(「青春」より)。
ところがほどなくシメナワは、専売千葉側の意向ををふたたび伝えてきます。
「キャッチャーだけでもいい。貸してくれ…とまた言ってきた。」(「青春」より)
この一言に、補強選手参画を拒んでいた岡村さんの気持ちがグラリと「参加」へと傾きました。あの宮武三郎が、キャッチャーの俺を名指しで…ただし、奥ゆかしい岡村さんは、こう付け加えることを忘れませんでした。「社長が承知なら行きます。」
永幸の社長は岡村さんの補強選手参画を喜びました。
なにしろ専売千葉は岡村さんの他、投手の池上、「狂介」、松山武遊撃手(当時立大4年在学中)、坂本孝治中堅手(立大-永幸)の大量5人を補強に指名してきたのです。永幸は「優秀選手をたくさん抱えているという」という優位を誇示できますし、また、専売にはある種の「貸し」を作れるわけです。社長のゴキゲンは悪かろうはずがありません。
社長はシメナワとともに岡村さんの前に現れ、激励します。以下のやり取りはかなり秀逸なので、「青春」に記載のまま記載します。
「色白で、丸い顔に丸い眼鏡をかけた社長は、二つ折りにしたナン枚かの紙幣を私の胸ポケットにおしこみながら、シメナワにいった。
『新しい練習着をそろえてやれ』
『練習着はまだきれいです。洗濯していきます』と私はいった。
『スパイクは?新しいのを買ってやれ』
『スパイクもまだきれいです。みがいていきます』
社長は声もなくわらった。
『女とちがって、男は質素でいい』」(「青春」より)
かくして「捕手 岡村寿」は、第26回都市対抗野球大会に正式に選手として参画できる資格を得たわけでございます。
【参考文献】
・「青春・神宮くずれ異聞 宮武三郎と助っ人のわたし」 大島遼(岡村寿)著 防長新聞社
・「都市対抗野球60年史」 日本野球連盟 毎日新聞社
・フリー百科事典ウィキペディア「補強選手制度」の項目
・弊ブログ「岩国の隠れた?忘れられた?名将」コメント中 真夜中のデッドアングル様記載記事
「池上は複雑としかいいようのない表情でもどってきた。『専売千葉』が助っ人にきてくれ、ということだった。
『それはちょっとこまるだろう。つらい話だな。』
『おい、おい、のん気に言うな。八郎、お前も指名されているらしいぞ。』」(「青春」より)
ちなみにこの「八郎」というのは、当時の仲間内における岡村さんの呼び名で、その語源は岡村さんが小学生くらいの頃、終戦のドサクサでシナ共産党の八路軍に保護されていた経歴からついた、と「青春」にはあります。
これら一連の会話が示す事実…それは岡村さんが、都市対抗独自の制度である「補強選手」に指名されたということです。
「補強選手」は、第21回大会(昭和25年)に始まった制度です。
此の前年の昭和24年秋、プロ野球はセ・パ両リーグに分裂し、(発足当初セ8球団、パ7球団)、多数の即戦力を持つ社会人チームは、プロ野球に大量に選手を抜かれてしまいます。
もっとも悲惨だったのが第20回(昭和24年)の都市対抗優勝チーム・別府市の星野組。当初星野組はプロ野球への加盟も考えていたようですが、結局計画倒れに終わり、監督兼任選手の西本幸雄、エース荒巻淳など、主力をのきなみ毎日オリオンズに持っていかれ、都市対抗優勝の強豪は、優勝した年に解散・崩壊という、なんとも悲惨な末路を遂げてしまいます。
この事態を受け、大会レベルの低下が懸念されたところ、主催の毎日新聞・小野三千麿(日本で初めてメジャーに土をつけた名投手。詳しい経歴は弊ブログ「杉田屋守伝」を参照してください(''◇'')ゞ)の「予選敗退チームから有望選手を期間限定で借り受けて、地域最強のチーム同士を競わせれば良い」という意見にみな「コロンブスの卵状態」で賛同。これにより、予選で敗れたチームからこの大会に限って選手をレンタル、自軍の選手として出場させられるという、都市対抗に限定された実にユニークかつ実用的な制度が発足します。これが「補強選手」です。
発足当初は、2次予選に進んだチームは1次敗退チームから最大5人、さらに本大会に進んだ場合、2次予選敗退チームから5人という、どエラい大人数の補強を許していましたが、昭和53年には1次予選後の補強を廃止、2次予選終了後に5人と大幅に補強選手を削減。平成22年からはさらに減じて3人となり、現在に至っております。
岡村さんは「私は補強選手制度など、ほとんど知らなかった。ただ、『日本石油』に入社した井上先輩が昨年、一昨年と『日本鋼管』から後楽園に出場していたから、そのような制度をおぼろげながら知っている、というていどだった」(「青春」より)…そのため岡村さんは、最初はこの申し出を断ります。「敗けたチームに行きたくないのです。それに、社長にわるいから」(「青春」より)。
ところがほどなくシメナワは、専売千葉側の意向ををふたたび伝えてきます。
「キャッチャーだけでもいい。貸してくれ…とまた言ってきた。」(「青春」より)
この一言に、補強選手参画を拒んでいた岡村さんの気持ちがグラリと「参加」へと傾きました。あの宮武三郎が、キャッチャーの俺を名指しで…ただし、奥ゆかしい岡村さんは、こう付け加えることを忘れませんでした。「社長が承知なら行きます。」
永幸の社長は岡村さんの補強選手参画を喜びました。
なにしろ専売千葉は岡村さんの他、投手の池上、「狂介」、松山武遊撃手(当時立大4年在学中)、坂本孝治中堅手(立大-永幸)の大量5人を補強に指名してきたのです。永幸は「優秀選手をたくさん抱えているという」という優位を誇示できますし、また、専売にはある種の「貸し」を作れるわけです。社長のゴキゲンは悪かろうはずがありません。
社長はシメナワとともに岡村さんの前に現れ、激励します。以下のやり取りはかなり秀逸なので、「青春」に記載のまま記載します。
「色白で、丸い顔に丸い眼鏡をかけた社長は、二つ折りにしたナン枚かの紙幣を私の胸ポケットにおしこみながら、シメナワにいった。
『新しい練習着をそろえてやれ』
『練習着はまだきれいです。洗濯していきます』と私はいった。
『スパイクは?新しいのを買ってやれ』
『スパイクもまだきれいです。みがいていきます』
社長は声もなくわらった。
『女とちがって、男は質素でいい』」(「青春」より)
かくして「捕手 岡村寿」は、第26回都市対抗野球大会に正式に選手として参画できる資格を得たわけでございます。
【参考文献】
・「青春・神宮くずれ異聞 宮武三郎と助っ人のわたし」 大島遼(岡村寿)著 防長新聞社
・「都市対抗野球60年史」 日本野球連盟 毎日新聞社
・フリー百科事典ウィキペディア「補強選手制度」の項目
・弊ブログ「岩国の隠れた?忘れられた?名将」コメント中 真夜中のデッドアングル様記載記事