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集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

(書いたヤツはそう思っていませんが)大極論!「柔道は日本伝武道に非ず」(その7)

2025-05-13 17:57:03 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 「柔道は日本伝武道ではない」話の最終回になります。結構長くなりましたが、お急ぎでない方はお付き合いいただきますれば、幸甚に存じます。
 なお文中、嘉納治五郎先生や講道館に関し、かなり辛辣なことを書いているように見受けられる箇所がありますが、これらはすべて、ワタクシが昔の一次資料を調べに調べた結果です。
 柔道側から「この内容は治五郎先生や講道館への侮辱ニダ~!」というような異議があった場合、いつでも受けて立ちますので、よろしくお願い致します。

 弊ブログでは「警察術科の長い長い歴史」以降、柔道をずっとフォーカスし続けていますが、その理由を簡単にまとめますと、柔道とは
・講道館は「柔道は日本伝武道の代表なり」と自称しているが、技術体系や稽古の内容がいい加減すぎるうえ、礼法ひとつ取っても、古い日本の礼法から完全に逸脱しているので、日本伝武道の仲間じゃない。
・「教育に用いる社会体育」と呼ぶには危険度が高い(学校教育武道において、硬膜下血腫などの重大事故が最も多数発生しているのは柔道)うえ、ルールがコロコロ変わるので、社会体育として不適である。
・「小能く大を制する」だの「柔能く剛を制する」などと景気のいいことを言っているが、道着からルール設定まで、何から何までデブかマッチョが勝つようにできているので、「看板に偽りあり」になっている。前の東京オリンピック以降、柔道が外国人天国になったのは当たり前。
・理念として「知育・徳育」を謳っているくせに、講道館はその発足から現在まで、他流派潰しばかりに力を入れており、内輪でも頭の悪い勢力争いばかりしている。とても知育・徳育にふさわしい格闘技とは言えない。「私たちのようなマネをしてはいけません」という反面教師としてならわかるが…(-_-;)。
という、矛盾をはらんだ…というより矛盾だけで固まった極めて珍妙な格闘技であり、「なんでこんな頭のおかしいものができてしまい、それが社会に受け入れられたのか?」ということが不思議でならなくなったからです。

 さて、調べれば調べるほど(作ったヤツや広めたヤツの頭が)おかしな格闘技・柔道ですが、ここまで調べて、ようやくこんな疑問が出てきます。
「なぜ、柔術を社会に普及させる役割を担ったのが治五郎先生なんだ?確かに治五郎先生は当時の我が国ではトップクラスの官僚だったが、柔術の腕ははっきり言って、シロウトに毛が生えた程度。なぜ他の実力派の柔術家たちが動かなかったのか?」
 これに気づくことって、実は我が国武道史を考えるうえで、すごく重要なことなんです。
 ワタクシたちは永い事、治五郎先生や講道館が広めた「明治初期の柔術家は貧乏をこじらせ、生活が立ち行かなかったから、治五郎先生が代表して柔術を研究し、柔道を作り、結果として柔術を救った」というプロパガンダに知らず知らずのうちに絡め取られており、その見解が史実だと思い込まされています。
 武道や格闘技の歴史に多少詳しいと自負しているワタクシだって、こんなごく単純な疑問を抱くのに、相当の時間を要したのです。それほど治五郎先生と講道館が捏造した「公式史」は、強い呪縛力を持っているのです。
 ではここから虚心坦懐に史実と照らし合わせ、「明治初期の武道再興ムーブメントと、その中で治五郎先生が何を考え、どう動いたかを見てみましょう。

 明治以降における日本伝武術のうち、最も早く再興したのは撃剣。
 西南戦争での抜刀隊の活躍(実際は非常な銃撃戦の戦いばかりで、抜刀隊はそんなにハデな活躍はしていなかったが、川路利良大警視の武術振興のコマーシャルとして、そういう活躍をしたことになったのはヒミツ(;^ω^))によって「やはり警察官に、撃剣は必要だ」との世論が形成され、これを受けた警視庁は明治12(1879)年初頭から梶川義正・上田馬之助・逸見宗助といった天下の名人を招集して警察の階級を与え、それらの名人に稽古をつけさせるという事業をしています。
 その後警視庁は、明治16(1883)年には柔術の名人も招集していますし、ほぼ同時期のまた明治17(1884)年には、のちの大日本武徳会の雛型となる「剣槍柔術永続社」という結社ができたりと(残念なことに1年で頓挫したが、撃剣では松崎浪四郎、柔術では中村半助などの有力武術家が多数参加していた)、別に文教キャリアの治五郎先生がしゃしゃり出てこなくても、警察や民間では、実力派の剣術家や柔術家による「武道復興」が、それなりに始まっていたのです。

 こうして当時の「武道復興」の史実を虚心坦懐に眺めますと、ワタクシも皆様も、ひとつの疑問が澎湃と湧き上がってくると思います。
「治五郎先生が本当にやりたかった事業は『武道の再興』などではなく、『俺様が考案した柔術』を普及させることにより、当時の国民がほとんど認識していなかった『日本のスポーツ統括団体(講道館)』をこっそり作って一番乗りを果たし、以後の日本スポーツ界の主導権を握ることだったのでは?」
 治五郎先生や講道館の広めたプロパガンダをベースとして見ると「とんでもない侮辱発言」かもしれませんが、実はこの仮説をもとに治五郎先生や講道館がやったことを顧みると、今まで「矛盾だ」と思っていたことが、全て納得のいく行動になるのです。

 「俺様の柔術」をやりたいだけなら、師匠の言うことを聞かなくても、日本伝武道に則った稽古をしなくても、型の持つ意味がわからなくても、実戦で使えない技ばかりでも、何の問題もありません。
 また「俺様の柔術」は、日本伝柔術が根っこにない、完全な根無し草ですから、他の柔術諸流派は「手を取り合うべき仲間」などではなく、「スポーツという概念がわからない、因循な叩き潰すべき敵」でしかありません。
 講道館柔道が初期の初期からスパーリング一辺倒のおかしな技術だったこと、武道を標榜しつつ、全く実戦に供する技術がないこと、スパーリング以外の練習方法を持たないこと、そして遠慮会釈がない他流派潰しといったことのすべては、先ほど掲げた仮説で全て説明ができます。
 さらに言えば、初期の講道館の門人(四天王のうち富田常次郎、山下義韶、第2期門人でいえば磯貝一、飯塚国三郎、宗像逸郎など)が、他流派潰しのために招集した「飛車角」であった横山作次郎・西郷四郎を除き、みんな我が国トップクラスのインテリばかりであったことについては、将来に亘って柔道を学校体育にしようという目論見が当初からあったため、と考えれば納得がいきます。

 このことを裏付けるように、治五郎先生は本連載のタネ本である「柔道家としての嘉納治五郎」の連載第3回において、「諸種の運動もやった」と銘打ち、「体育として最も適した運動は何か」を探るべく、ベースボール・ボート漕ぎ・ウォーキング(当時のインテリ学生さんの間では、日曜日に集まって遠くに出かける「遠足会」なるものがあったそうです)をやったけども、どれも一長一短で、結局「身体鍛錬のため」には柔術が一番良かったのだ、と語っていますが、これは先ほどの仮説に立脚して考えますと、「日本初のスポーツは『俺様の考えた柔術』しかないと確信したんだ」と読み替えることができます。
 
 19世紀当時、世界の中心であったヨーロッパでは、各種スポーツのルールやテクニックが整備され、娯楽や国民体育として大人気を博していました。
 文明開化後間もない明治10年代、我が国にまだそのムーブメントは届いていませんでしたが、いずれスポーツが娯楽や体育として受け入れられる日が来るということを、当時の我が国では治五郎先生だけが明確に見通せていました。だから明治10年代の初頭にベースボールやボート漕ぎといった、一般人には全く無縁の高級スポーツをやっていたわけです。
 この流れで考えますと、おそらく治五郎先生が柔術を始めた理由は、何かのきっかけでイギリス式レスリングを知り、そのうち、カンバーランド式(ジャケットを着て釣手・引手を取って投げ合う、ジャケッティッド相撲みたいな競技)が自らの理想に最も近いと感じ、それを柔術道場で実地に試したかっただけではないか、と思うのです。
 このことはワタクシの妄想ではなく、治五郎先生が「柔道家としての嘉納治五郎」の中で語った「福田道場在籍時、大兵の門人福島兼吉を、カンバーランドスタイルの肩車で投げた」という話が、そのことを暗喩・補強しています。

 治五郎先生がスポーツの未来を見通した眼力や志は確かにスゴいのですが…治五郎先生の良くないところは、自分の持つ強大な権力を「日本スポーツを率いるのはオレしかいないから、オレの作ったスポーツ競技を普及させ、スポーツ界を牛耳る」という方向にのみ指向させてしまったこと。
 それに関する「限りなく黒に近いグレー」な出来事を、ここで紹介しておきます。

 明治10年代中盤には、先ほど紹介した警察による撃剣の再興など、「武術再興」の運動が全国各地で沸き上がっており、各地方の有力者から文部省に対し「撃剣や柔術を体育に採用してはどうか」との問い合わせが殺到していました。
 もしそれが叶えば、当時は各地方にまだまだたくさん存在した「真の技術を持った柔・剣術家」たちの再評価にもつながりますし、また、そうした名人たちに「体育の先生」という安定した職業を与えることもできるようになります。
 こうした動きを受けた文部省は明治16(1883)年5月、体操伝習所(今の筑波大)に対して「本邦剣術柔術等ニ就キ教育上ノ利害適否ヲ調査」を命じ、伝習所は1年余をかけて調査。その結果は「体育の正科として採用することは不適当なり」というものでした。
 講道館ベッタリの史料しか読まずに書かれた各種論文では「治五郎先生はこの答申を受け、伝習所が示した問題点を解消した柔術を作るべく、柔道を編纂したのだ」みたいなことを書き、ワタクシも弊ブログ連載「警察術科の長い長い歴史」でその説を採用してしまった(不覚!!!!!)のですが…先ほどお話しした仮説をもとにワタクシが出した結論は「この『不適』の判定は、治五郎先生が命じたものであり、『不適の判定を受けての柔道編纂』は治五郎先生の完全なる自作自演」です。

 治五郎先生最大の野望「自分と自分の手下による日本スポーツ界の席巻」は他のどの武術でもなく、あくまでも治五郎先生が作った『俺様の柔術』によってのみ達成されなければなりません。その権利を他人に渡すなんてことは治五郎先生にとって、ありうべからざることでした。
 そこで治五郎先生は、文教族トップのアブロリュート・パワーを使って伝習所に「不適と言え」と命令し、「そんな理不尽な命令に耐えて、その答申を覆す新スポーツを作ったオレってステキ!」というポーズを取ろうとしたとしか思えません。
 数年前に放送された大河ドラマ「いだてん」で、治五郎先生が伝習所の後身である東京高等師範の校長をしていたことを覚えている方もいらっしゃるでしょう(校長在任期間は明治26(1893)年から、なんと23年間!)。
 日本最高峰の師範学校長をずっと勤められるような高級官僚の治五郎先生が、手下の下した「不適」の裁定を覆すためにがんばる!なんて、太陽が西から登るようなことをするはずがないですし(;^ω^)、逆に、治五郎先生が伝習所に対して命令を出して言うことを聞かせることは、赤子の手をひねるより簡単だったはずです。
 なお、治五郎先生は明治22年ころから、自流である柔道につき「知育・体育・徳育」とか「体育法の柔道・修心法の柔道・勝負法の柔道」などということを盛んに言うようになり、それに関する文献もアホほど残っていますが、これらはすべて「治五郎先生の、その場しのぎの思い付き」と断じていいと考えます。
 あの程度の屁理屈、スーパーインテリ治五郎先生ならアドリブでペラペラ喋れますよ(;^ω^)。

 結果として治五郎先生の戦略は全て図に当たり、治五郎先生は「日本初のスポーツ」である柔道を普及させ、他流派を叩き潰し、日本スポーツのイニシアチブを握り、アジア人初のIOC理事になることができました。
 その反面、成立したときから「スポーツ」であり、日本伝武術としての性質を最初から持たない柔道、護身術や逮捕術としての能力を全く有していないのに、「柔道は武道だから無敵だ!」などという大嘘をつき続けた結果、様々な問題や犠牲者を出すに至ります。
 しまいには、晩年になって気が狂った治五郎先生が、むかしアドリブの一発ギャグとして披露した「勝負法」の実現を求めるという「砂浜を掘って井戸を見つける」的なバカな研究をしており(このあたりの経緯については「嘉納健治伝」参照)…これはもう、吉本新喜劇レベルのギャグとしか言えません。何をかいわんやですwwww

 以下、本連載のまとめです。
・柔道は治五郎先生が、日本スポーツのイニシアチブを握るために作った『俺の考えた柔術モドキ』でしかなく、日本伝武道が持つ特性を何ら有していない。従って日本伝武道の仲間に入れていけない。
・柔道の歴史は当初から他流派や異端者の排除、そして歴史の捏造に彩られており、シナや朝鮮の『易姓革命』と同じことをしている。
シナ・朝鮮人のマネをして歴史も伝統もメチャクチャにした柔道は、やはり日本伝武道ではない。
・治五郎先生は『柔道の武道性』につき、様々な媒体でそれらしいことを言っているが、どれもこれも耳を貸すに値しない屁理屈である。
 おそらくこれからもヨカタたちは「柔道は日本伝武道の代表的なものだ」と信じ続け、オリンピックがあるたびに「柔道は武道だから、武道精神がウンヌン」などというバカ極まりない話をすると思いますが(;^ω^)、本連載に掲載したような理由から、少なくともワタクシは生涯を通じ「柔道は日本伝武道じゃない」と言い続けます。

 最後に本連載第4回で引用した、沖縄拳法空手道・山城美智首席師範のお言葉を再掲し、本連載をシメたいと思います。

「歴史も伝統も受け継ぐ気がない者を、武術家とは言いません。」
 
 泉下の治五郎先生、聞こえてますか?

【本連載は以下の書籍・論文を引用しました】
「柔道家としての嘉納治五郎」(講道館機関誌「作興」第6巻第1号~第4号〔昭和2年〕連載)
「沖縄拳法 山城空手」山城美智 チャンプ
「剣士松崎浪四郎伝」園田徳太郎 ちくま書房
「警視庁武道九十年史」警視庁警務部教養課 編
論文「嘉納治五郎による柔道教材化の試み―「体操ノ形」を中心として―」 池田拓人
フリー百科事典ウィキペディア「嘉納治五郎」の項目

2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (老骨武術オヤジ)
2025-05-13 21:51:07
ありがとうございました。姿三四郎のデマ小説で悪役にされ辛酸をなめた空手諸先輩方に思いをはせ、御礼申し上げます
m(、、)m。
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ありがとうございます! (周防平民珍山)
2025-05-22 11:50:21
 老骨武術オヤジさま、ありがとうございます。今回はこれまでの連載に付随した「講道館研究」の中間決算みたいなものとなり、今や懐かしのガーシーじゃないですが(;^ω^)、意外といいところまで「講道館の闇の暴露」
ができたと思っております。
 読んでいるみなさんが食傷気味かな?と考えて当面講道館関係の話は中断、かわりにあまり読む人がいなさそうな「ワタクシはこう思う」的な雑記をいくつか掲載しようと思っています。
 またよろしくお願いいたしますm(__)m
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