本筋とは関係ありませんが、本年元旦に発生した能登半島沖地震に於いて被災なされた皆様に対し、衷心よりお見舞い申し上げます。弊ブログができることは脱稿現時点では何もありませんが、募金箱が設置され次第、とりあえず義援金の募金をしようと思います。
では、本編を始めます。
「その3」では、本気の本気で日本にレスリングを根付かせた、真の「漢」のお話を致します。
ここに一人の男ありき。
八田一朗。のちに「日本レスリングの父」と呼ばれる男です。
ここに一人の男ありき。
八田一朗。のちに「日本レスリングの父」と呼ばれる男です。
八田は明治39(1906)年、広島県江田島生まれ。父・重次郎は海軍機関大佐であったため、出生場所をもっと厳密に言えば、父の勤務&居住地であった海軍兵学校敷地内、だったそうです。
小学校までは父親の仕事柄、全国を転々。父の海軍退役に伴って東京に住むようになり、まずは全国屈指の超名門校・開成中に入学しますが、勉強についていけず、積もり積もった鬱屈から悪さをして退学。
次いで父と同じ海城中(海軍兵学校の予備校的存在の学校。硬派がウリ)に編入するも、自動車運転手&人力車夫無慮20数名VS八田たち4名が大乱闘を繰り広げ、しかもそれが新聞沙汰になって、学校当局の知るところとなり退学。
さらにさらに、本来諭旨退学であるべきところ、校長・吉見海軍中将に余計な一言を発してしまい、より厳しい「放校」処分を食らいます。
さすがにこれではマズい、自分で自分を更生しないと、末はヤクザかチンピラの道しかないと思い直した八田は一念発起し、「四修」(当時は中学4年まで進級していれば、大学予科の受験資格があった)による大学進学を企図します。
一高合格を目指して予備校で勉強を続け、それと並行して柔道に打ち込みますが、柔道にのめり込み過ぎたせいで一高受験は大失敗。仕方なく早大の第一高等学院に入学します。
受験はあまり成功しなかった(-_-;)八田ですが、柔道のほうは熱心な稽古の成果が大いに実を結び、予備校の三年間+高等学院の三年間の計6年で四段に昇段したのですから、これは大したものです。
高等学院時代から柔道部員として大いに幅を利かせていた八田は、大学本科進級直後の昭和4(1929)年、早大柔道部のアメリカ遠征に参加します。
遠征の目的について八田は「外国には柔道があまり普及していなかったので」(「勝負根性」実日新書、昭和40年)その普及のためのデモンストレーションだった、と記していましたが…おっと、講道館が「柔道は昭和に入るころには、世界中に普及していた」という大嘘を暴く資料がひっそり見つかった(;^ω^)。
それはさておき、ここで八田は、レスリングというものと衝撃の出会いを果たします。
遠征のさなか、早大柔道部はシアトル大学レスリング部に他流試合を申し込みますが、お互いの試合ルールが全くわからないため、最初は双方柔道着着用の柔道ルール試合、次は双方半裸のレスリングルール試合、最後はコイントスで勝った方が自分の有利なルールで試合をする、という変則三本勝負を実施。
ここで早大柔道部はレスリングルールにおいてケッチョンケッチョンにやられ、しかも驚くべきことに、早大柔道部の尾崎西郷三段は、柔道着着用のジャケッティッド・マッチであるにも関わらず、相手選手から「エビ固め」(おそらく現代のレスリングでいう「弓固め」と思料)を食らって背骨を傷め、「控え室にかつぎ込んでも吐く、尻から洩らすという、いわゆる失禁状態」(「私の歩んできた道」昭和54年・立花書房)に陥るに至りました。
※註 前出「勝負根性」と「私の歩んできた道」の内容は99.5%くらい同じなのですが、「尾崎西郷」という個人名が出てくるのは後者だけなので、この箇所については後者を引用しております。
レスリングに大苦戦した八田は「いまこそレスリングを研究しておかないと、将来の日本の柔道界はひどい目にあうぞと痛感」(前掲著)し、帰国直後からレスリング研究の重要性を説き、レスリング研究部門の設立を訴えます。
しかし八田の主張は、早大柔道部でも講道館も大いに白眼視されたあげく、「八田は毛唐のスポーツに魂を打った裏切り者だ」などと陰口を叩かれるようになります。
それはさておき、ここで八田は、レスリングというものと衝撃の出会いを果たします。
遠征のさなか、早大柔道部はシアトル大学レスリング部に他流試合を申し込みますが、お互いの試合ルールが全くわからないため、最初は双方柔道着着用の柔道ルール試合、次は双方半裸のレスリングルール試合、最後はコイントスで勝った方が自分の有利なルールで試合をする、という変則三本勝負を実施。
ここで早大柔道部はレスリングルールにおいてケッチョンケッチョンにやられ、しかも驚くべきことに、早大柔道部の尾崎西郷三段は、柔道着着用のジャケッティッド・マッチであるにも関わらず、相手選手から「エビ固め」(おそらく現代のレスリングでいう「弓固め」と思料)を食らって背骨を傷め、「控え室にかつぎ込んでも吐く、尻から洩らすという、いわゆる失禁状態」(「私の歩んできた道」昭和54年・立花書房)に陥るに至りました。
※註 前出「勝負根性」と「私の歩んできた道」の内容は99.5%くらい同じなのですが、「尾崎西郷」という個人名が出てくるのは後者だけなので、この箇所については後者を引用しております。
レスリングに大苦戦した八田は「いまこそレスリングを研究しておかないと、将来の日本の柔道界はひどい目にあうぞと痛感」(前掲著)し、帰国直後からレスリング研究の重要性を説き、レスリング研究部門の設立を訴えます。
しかし八田の主張は、早大柔道部でも講道館も大いに白眼視されたあげく、「八田は毛唐のスポーツに魂を打った裏切り者だ」などと陰口を叩かれるようになります。
といいますのも、早大柔道部はアメリカでの大苦戦をひた隠しに隠し、「アメリカでは毛唐を柔道のワザで、ケチョンケチョンにやっつけた」と大嘘を発表していました。
それを真に受けた大衆作家・松本鳴弦楼(本土に初めて実戦空手を伝えた本部朝基先生が、飛び入りでロシア人ボクサーを倒した武勇伝を雑誌「キング」に書いたので有名な作家。長く正体不明とされていたが、近年の研究で二六新報社長・松本賛吉のペンネームと判明)が「早大柔道部、アメリカレスリング陣を千切っては投げ、千切っては投げ」みたいな文章にして世間に発表してしまい、この雑文の内容を本気で信じたバカ柔道家たちが八田を「毛唐に魂を売ったウソツキ野郎」呼ばわりしたわけです。救いようがありませんね。
八田は「事ここに至っては、自分がレスリング部を立ち上げるしかない」と一念発起。昭和6(1931)年4月、八田は15人の部員とともに早大レスリング部を創設。これがわが国における、完全なる「組織的にレスリングをトレーニングする団体」の第1号となります。
この設立には、あの「サンテル事件」のときの日本側首班であり、アメリカにレスリング留学をしていた庄司彦雄が帰国したことも大いに関係しております。
ただ、発足から早大柔道部、ひいては講道館を敵に回してしまった早大レスリング部の船出は最初から前途多難。
早大柔道場の使用は当然拒否され、八田は柔道部を実質上除名。当時の早大柔道部師範・宮川一貫(1885~1944)なるクソバカに至っては除名のみに飽き足らず、「八田の段位を返上させろ!」などと叫んでいました。
このヒトは代議士(昭和3年から衆議院議員、3期連続当選)をつとめるいっぽう、福岡に本拠地を置いた政治結社・玄洋社の大幹部だったのですが…柔道の何百倍も優れた格闘スポーツ(周防平民珍山比(;^ω^))であるレスリングを許容できていない時点で、いわゆる「大アジア主義」なるものが、いかに実態の伴わない空論だったかを知ることができます。
このヒトは代議士(昭和3年から衆議院議員、3期連続当選)をつとめるいっぽう、福岡に本拠地を置いた政治結社・玄洋社の大幹部だったのですが…柔道の何百倍も優れた格闘スポーツ(周防平民珍山比(;^ω^))であるレスリングを許容できていない時点で、いわゆる「大アジア主義」なるものが、いかに実態の伴わない空論だったかを知ることができます。
実は早大レスリング部にはこうした「外患」だけではなく、「内憂」もありました。それは他でもない、コーチである庄司彦雄です。
八田のレスリング部創設目的は「とにかくレスリングを専門的に研究・練習しなければ、柔道の国際化もありえないし、それに何より、世界基準の格闘スポーツを知らなければ、日本の格闘スポーツは世界から立ち遅れるばかりだ」という極めて真摯なものでしたが、コーチである庄司は全く違いました。
八田のレスリング部創設目的は「とにかくレスリングを専門的に研究・練習しなければ、柔道の国際化もありえないし、それに何より、世界基準の格闘スポーツを知らなければ、日本の格闘スポーツは世界から立ち遅れるばかりだ」という極めて真摯なものでしたが、コーチである庄司は全く違いました。
庄司がレスリング部に乗っかった理由は、語弊を恐れずはっきり言いますと「自分が政治家になるための売名行為」。
元来政治家志望であった庄司は、自分の名前を売るためには何でもするという性質を有しており、あのサンテルとの試合も、「講道館の反対を押し切ってレスラーに立ち向かう勇者」という勇名が欲しかったからやった、という説が未だに途絶えておりません。
それでも早大レスリング部は庄司を「本邦随一のレスリングの有識者」ということでコーチに迎え入れたわけですが、実は全然有識者でもなんでもありませんでした(この点は後述)。
レスリングを売名の手段としか考えていなかった庄司は、その甘い認識に起因した「余計なこと」を連発し、早大レスリング部や八田たちをかき乱し、大いに足を引っ張ることとなります。
早大レスリング部は同年6月10日、大隈講堂で「早大レスリング部発足記念公開試合」を挙行します。
この試合には嘉納大先生以下、講道館の大幹部が来賓として招待されていたうえ、JOAK(現・NHK東京)の中継まで行われたという、たかが学生運動部の発足にはハデすぎるもの。
すべてはハデ好き、売名好きの庄司の差し金です。
ただ、そこで公開された試合は「ウェイトやルールも実に出鱈目であった」(大日本体育協会史 下巻より)とわざわざ明記されるくらい、ひどいものでした。
ただ、そこで公開された試合は「ウェイトやルールも実に出鱈目であった」(大日本体育協会史 下巻より)とわざわざ明記されるくらい、ひどいものでした。
庄司は昭和2年から3年間、南カリフォルニア大学にレスリング留学しており、その経歴が早大レスリング部をして、庄司をコーチとして招聘する理由となったわけですが、実はその「留学」の内容は極めてお寒いもので、とてもとても「レスリング留学していた」などと威張って言えるものではありませんでした。
庄司が日本レスリングのために貢献できたことは、サンテルと戦ったこと以外には「わが国初のレスリング技術書を発行した」だけなのですが、その技術書「レスリング」(三省堂。翻訳者は当時の早大レスリング部幹部・山本千春。昭和6年)も、技術書と銘打ってはいますが、その内容はアメリカで買ってきたレスリング技術書の丸パクリに、当時のアメリカン・プロレスの豆知識みたいなものをくっつけただけというシロモノ。
アマレスを全く練習せず、当時大人気を博していたアメリカン・プロレスばかりを見て喜んでいた庄司の中における「レスリング」とは、アマレスとプロレスがゴッチャになった、意味不明なシロモノでしかなかったのです。
従って庄司がプロデュースした前出の「公開試合」の試合会場は、円形のマットではなく、なんとロープを張った四角いリング。
従って庄司がプロデュースした前出の「公開試合」の試合会場は、円形のマットではなく、なんとロープを張った四角いリング。
レスリングの門外漢である体育協会幹部ですら「ひどい、デタラメ」と評したのは、けだし当然といえましょう。
この乱脈な試合が行われた直後の6月28日、八田はヨーロッパのレスリング事情を知るため、シベリア鉄道を使用して渡欧します。
不思議なのはこの旅行、なぜか八田の自伝には全く出てこず、大日本体育協会史に「八田一朗は欧州各国のレスリングを視察し、明年のオリムピックにそなへる事となり六月二十八日午前十時東京駅発列車で、華々敷く出発し、シベリヤ経由で渡欧した」と書かれてあるのみです。
この乱脈な試合が行われた直後の6月28日、八田はヨーロッパのレスリング事情を知るため、シベリア鉄道を使用して渡欧します。
不思議なのはこの旅行、なぜか八田の自伝には全く出てこず、大日本体育協会史に「八田一朗は欧州各国のレスリングを視察し、明年のオリムピックにそなへる事となり六月二十八日午前十時東京駅発列車で、華々敷く出発し、シベリヤ経由で渡欧した」と書かれてあるのみです。
これはあくまで状況証拠による推察ですが、この洋行は、体育協会が「初めてレスリング部門にきちんとした人材を得た」との判断により、体育協会の肝煎りで行われたものと思料されます。
八田の父は元海軍軍人ではありますが、軍縮華やかなりしこの頃、退役軍人が高額の洋行旅費を捻出できるとは全く考えられませんし、それに何より、海外旅行がまだ特権階級のものでしかなかった時代に、たかが学生、しかも数年前まで、警察がマークするほどの不良学生だった八田に対し、容易にパスポートが下りるとも思えません。
さらに言いますと、八田は自分語りが好きな人物で、多数の自伝を残しているのですが、この洋行のことだけは、なぜかどの著書からもスッポリ抜け落ちています。
そうしたことを様々考えますと、この洋行は
・体育協会は日本人略不在のオリンピック競技・レスリングにメダル獲得の可能性を見出し、真のリーダーになる人物を探していた。そこに八田が現れた。
・こうした視察は本来であれば学生の八田ではなく、コーチである庄司が赴くべきところではあるが、売名以外に興味がなく、レスリングへの思い入れはないに等しい庄司は不適任以外の何物でもなかった。八田以外、レスリング視察の適任者はいなかった。
・しかし当時の日本レスリングは、体育協会に加盟できる正式団体を有していなかったので、体育協会として公式支援はできない。
・さらに言えば、協会が公式に八田を支援すると、あちこちから、特に講道館や早大柔道部から「なんで八田を贔屓するんだ!」と叩かれる。
・そこで体育協会は八田と水面下で交渉し、体育協会が旅費と旅券・査証の手続きを請け負うかわりに、あくまで「個人」の資格でヨーロッパに行ってもらうこととした。
というものではなかったかと思います。
ちなみにインチキスポーツ作家・柳沢健の著書「日本レスリングの物語」では、この洋行のなかでイギリスに渡った八田は、イギリスで活躍し続けていたレジェンド柔術家・「スモール・タニ」こと谷幸雄の知己を得てレスリング界に人脈を築いた、と書かれてありましたが、国会図書館蔵書でその点を裏付ける文書が発見できなかったことから、この点は「真偽不明の柳沢フィクション」として片づけることとします。
さて、最新のレスリング事情を学んで帰国した八田ですが…その帰国早々、庄司が大問題を引き起こし、船出早々の早大レスリング部はいきなり、存亡の危機に立たされます。
さて、最新のレスリング事情を学んで帰国した八田ですが…その帰国早々、庄司が大問題を引き起こし、船出早々の早大レスリング部はいきなり、存亡の危機に立たされます。