昨日、How展撤収しました。
最近はこれでようやく一年納めという感じがするようになった。
上の写真は今回の展示風景だが、これは
ギャラリーが閉まっている時の状態である。
シャッターの外側の壁面になるため、夜間でも
外から見えるというわけである。
あたかも常設展示のようで、ちょっとお得感のある
スペースではなかろうか。
来年も機会があればここに展示したいものである。
このように外からギャラリーの中が良く見えるせいか
寺町通を通りかかった人も「何だろう?」と
中へ入ってくることがよくあるようだ。
特に最終日(21日)は、雨が降ってアーケードのある場所へ
人が流れてきて、ギャラリーへの入場者も多くなったようである。
うなぎの寝床のような狭い室内が混雑したり、といった
場面も見られた。
会期ギリギリに案内のDMを出したが
結構いろんな方が見に来てくれたようだ。
大変有難いことである。
(芳名録をめくってみると、ちょうど京都写真展の講演会のために
京都に来ていた飯沢耕太郎氏の名前もあった。)
残念ながら向井仁志さんとはまたしてもすれ違いになってしまったようだ。
大変申し訳ないことである。
この手のグループ展に言えることだが
全体を見て、何のためにグループ展なのかが常に問われる部分であろう。
もちろん、様々な人が各自の作品を持ち寄って一つの場所に集まる、
というだけで、それが出会いや新しい表現のきっかけにもなるだろうが
色々集まって何が表現できているか、というのは難しい問題である。
あるテーマを特別に定めているわけでもなく、それぞれが持つ世界が
並べられて、その集合体として何が生まれているのか、単に
バラバラなものの寄せ集めなのか、個展とは根本的に異なる問題が
あるような気がする。
強いて感じたことを記せば、同時期の京都写真展の作品は
「見せる」手段については良く練り上げられた完成度の高い作品が
多かったように思う。
(もちろん表現手段の「うまさ」「巧みさ」が、そのまま
上質な表現につながるか、といえばそうではないのだが。)
今回の自分の作品は、ちょっと手抜き感もアリになったが
会場に飾ってみると、結構いい感じだな、と自画自賛の気分に浸ってしまった。
当初3点並べるつもりが、1つフレームのマットの大きさが合わない事に
展示の2日前に気づくという失態から作品2点になってしまったが
対象的な2点から見る人が色々と解釈出来そうな気がする。
また次回は(もしかしたら同じギャラリーの同じスペースで)新しい作品が
展示できるかもしれない、などと考えると、一年後がまた楽しみになってきた。