撮影したのは農連市場の前だったと思うのだが…
(違ってたらゴメンナサイ)
初めて沖縄を訪れた1995年、この辺りを歩いていたら
小さな食堂らしき店からちょうどおじさんが出てきて
「ここの豆腐(当然「ゆし豆腐」のことだろう)は美味しいよー」
と教えてくれた。
残念ながらちょうどご飯を食べたばっかりだったので
そのときは店に入らなかった。
それから那覇へ行く度、その店を探しているのだが見つからない。
店を閉めてしまったのだろうか。
あの美味しい豆腐には永遠にめぐり合えないのかもしれない。
月イチ恒例のカメラ雑誌立ち読み
◆「日本カメラ」
*「China White」金村修
近年の金村氏のプリントは、黒が強く、画面のほとんどが
塗りつぶされているような印象のものが多い。
Port Gallery T での展示のときも、印刷されたカタログは普通の調子だが
プリントは黒く焼きこまれていた。
フィルムから印画紙へという工程の中で、いかに対象の画像が変化していくか、を
意識的に示そうとしているのかもしれないが
何か「隠そうとする」作為のようなものを感じてしまう。
*「ライカで散歩」北井一夫
浦安写真横丁における「境川の人々」の展示と同時期に
ギャラリー蒼穹舎でも写真展をするそうな。
なんとか抱き合わせで見に行けないだろうか…
◆「アサヒカメラ」
*「新・今日の写真 写真の現場8」
もう5年前、2003年12月の事だが、京都写真展の撤収の際、
プリントをはずしていたら、見知らぬ初老の男性が近づいてきて
「この写真はいいですねー」と言ってくれた。
褒めて頂いたのでとりあえず「ありがとうございます」とお礼を言ったが
いきなり初対面で話しかけられたので
「誰やこのオッサン」という印象だった。
後日、その方がゲストで来ていた平木収氏であったことを知った。
あの時、もっと自分を売り込んでいたら良かった…。
各誌に浦安写真横丁2008の予告が載った。
東京近辺だし、賑わうだろうなぁ。
夕方6時をまわったが、
四条畷駅前から乗客が自分一人だけの近鉄バスに乗り
東高野街道を南下して大阪産業大学前へ。
古堤街道(中垣内越街道)を須波麻神社まで登り、
引き返して住道駅前へ
古寺や旧家が点在する山麓の住宅街の上を
関電東大阪変電所からの何本もの高圧線がまたぐ
ちょっとシュールな風景である。
さすがに7時半くらいになると真っ暗になって
あたりの様子も良くわからなくなってしまった。
しかし新旧混在の情景はなかなかおもしろそうである。
近いうちにもう一度リベンジを、と決めて
学研都市線で家路につく。
車両から遠くに「SANYO」というネオンが見えた。
というわけで、これでようやく表題につながるのです^^;
頑張れ!ニッポン!!
13日は、四条畷駅東口前の画廊喫茶エコーに
向井仁志さんの写真展「母港」を見に行く。
向井さんとの縁は、2002年、「アサヒカメラ」に
大東市の市民ギャラリーでの写真展「もののこえ」の案内が
掲載されたのを見てからである。
小さく載っていたガスタンクのモノクロ写真に何か惹かれるものがあった。
身近な対象に「静かに耳をすますような」そんな作風が好きになり、
それから2年毎、地元で開催される写真展にお邪魔している。
今回の「母港」は向井さんの故郷、愛媛県で撮影されたもの。
既視感と現実の変化との狭間でゆらぐ視線を
静かに画面に定着させた、常に変わらぬ向井さんの作品である。
ゆっくりと、かつ着実に
自分の世界をつくりあげておられるのが羨ましくもある。
会場に置かれている新作のファイルも見せていただいた。
その中で、ご自分のお子さん(と思われる子供)を撮った
「幼蟲」と題された作品に
このような言葉が添えられていた。
かれらには
おとなにはわからない
あえかなひかりがみえるらしい
かれらには
むしやくさきがかわす
かすかなこえがきこえるらしい
(このblogをご覧になっているであろう向井さん、
勝手に引用して申し訳ありません^^;)
これはもちろん、自らの子供への愛情表現でもあり、さらに
自らが子供から大人へと成長する時に失ってしまった
子供ならではの瑞々しい感性への惜別の情も伺える。
しかしそれだけではなくこれは向井さんの作風にもつながるような気がする。
カメラを通して「あえかなひかり」や「虫や草がかわす声」を
向井さん自身が見つけようとしているのではないかと思えてならない。
入れ替わりお客さんが来られ、あまりお話もできなかった。
この次、向井さんの作品にあえるのは、また2年後
バンクーバー五輪の年になるのだろうか、などと思いつつ会場を後にする。
向井仁志さんの写真展「母港」を見に行く。
向井さんとの縁は、2002年、「アサヒカメラ」に
大東市の市民ギャラリーでの写真展「もののこえ」の案内が
掲載されたのを見てからである。
小さく載っていたガスタンクのモノクロ写真に何か惹かれるものがあった。
身近な対象に「静かに耳をすますような」そんな作風が好きになり、
それから2年毎、地元で開催される写真展にお邪魔している。
今回の「母港」は向井さんの故郷、愛媛県で撮影されたもの。
既視感と現実の変化との狭間でゆらぐ視線を
静かに画面に定着させた、常に変わらぬ向井さんの作品である。
ゆっくりと、かつ着実に
自分の世界をつくりあげておられるのが羨ましくもある。
会場に置かれている新作のファイルも見せていただいた。
その中で、ご自分のお子さん(と思われる子供)を撮った
「幼蟲」と題された作品に
このような言葉が添えられていた。
かれらには
おとなにはわからない
あえかなひかりがみえるらしい
かれらには
むしやくさきがかわす
かすかなこえがきこえるらしい
(このblogをご覧になっているであろう向井さん、
勝手に引用して申し訳ありません^^;)
これはもちろん、自らの子供への愛情表現でもあり、さらに
自らが子供から大人へと成長する時に失ってしまった
子供ならではの瑞々しい感性への惜別の情も伺える。
しかしそれだけではなくこれは向井さんの作風にもつながるような気がする。
カメラを通して「あえかなひかり」や「虫や草がかわす声」を
向井さん自身が見つけようとしているのではないかと思えてならない。
入れ替わりお客さんが来られ、あまりお話もできなかった。
この次、向井さんの作品にあえるのは、また2年後
バンクーバー五輪の年になるのだろうか、などと思いつつ会場を後にする。
中平卓馬氏の写真に関する理論と実践については、
近年、ようやく写真界の一つの歴史として
冷静に批判的に捉えられているようだ。
しかし、こと私自身に関して言えば
彼や彼とともにあった多木浩二氏や森山大道氏によって
60年代から70年代に様々な挑戦や試行錯誤が行われたおかげで、
今、少なくとも写真というメディアについて疑うことなく
その可能性に身を委ねて進んでいける、ということは間違いない。
意識するしないに関わらず、私たちは
先達の恩恵を大いに受けているはずである。
中平卓馬氏は、1975年―1977年、当時写真を始めたばかりの当時の私にとって、
言わばアイドル的存在だった。端的にいえばあまりにもカッコ良かった。
あの頃は、まだ「プロヴォーク」の熱気が写真界にくすぶっていたのである。
記憶喪失前の彼に出会ったことが、今の私につながると言っても過言ではない。
長旅を気遣って下さった石川真生さんには悪いのだが
沖縄行きの一番の目的は中平卓馬氏の作品を見ることであった。
2003年に横浜美術館で回顧展が行われてからは
時折り個展などもあるようだが、それ以前は
氏の作品をプリントで見ることは殆ど絶望的であった。
これを逃すともうチャンスは無いように思われた。
時間的な余裕もない状況だったが
当時那覇に住んでいた従兄弟に会う用事も合わせて
1泊2日で予定を組むことに決めた。