無明抄

もの言わざるは腹ふくるるわざ・・。かなわぬまでも一市民の発言

立松和平著 「道元禅師」に失望

2008-07-17 | 無明抄:こころの一人遊び
禅には関心があり、禅書の類も幾つか読んできた(と言っても入門程度のものが中心だが)。
道元については「普観座禅儀」はまだしも「正法眼蔵」にいたっては、現代語訳と首っ引きでも、全く歯がたたない。
また、道元流の「24時間365日全て修行」はともかく、文字通り箸の上げ下ろしから洗面の際の手ぬぐいの扱い方まで、作法、作法でがんじがらめというのは、首を傾げてしまう。そう思うのは凡俗の愚かさゆえであろうけれど・・。
ともあれ、そうしたことから道元という人物には、畏怖というか敬遠というか、そんな印象をぬぐえない反面、一体どんな生き方、どんな思索、修行の中からこういう人間像なり思想なりが生まれたのだろうという興味もある。
立松和平の「道元禅師」(上下)が刊行されたというので、そのあたりの掘りさげを期待して読んでみた。
しかし、これはなんだろう・・。
描かれているのは、完全無欠、類稀な高潔さ、天才的頭脳に恵まれた人間、一言で言えば神格化された道元像、さらに言ってしまえば絵空事。
生身の人間としての苦悩も煩悩に悩むことも無縁、初めから仏様・・。
いかに偉人といえども、そんなことはあるまい。
リアリティーに欠ける道元、そして周辺人物が道元の説法に感動する様の描き方もワンパターン。
作品の成り立ちを見ると宗門の雑誌に連載されたもののようで、立松氏ともあろうものが、宗門の立場に迎合したとは思いたくないが、余りに道元への思い入れが激しすぎた結果としても、これでは「人間道元」は見えないといわざるを得ないし、道元がそれほどまでに一途に「道」を求めた思いも見えてこない。
他者はしらず、少なくとも私にとっては魅力の無い作品で、ついに下巻最後まで読む気力を失った。

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