無明抄

もの言わざるは腹ふくるるわざ・・。かなわぬまでも一市民の発言

梅原猛「仏になろう」読書ノート

2007-05-11 | 無明抄:こころの一人遊び
梅原猛「仏になろう」を読む。

梅原がここでいう「仏」とは「菩薩」のこと
日本人よ、仏教的な道徳にもとづく生き方に立ち戻れ、という呼びかけである。

日本人は聖徳太子の時代以来、長く仏教道徳で生き方を律してきた。
徳川幕府は、支配層には儒教、庶民には仏教と使い分けてきたが、庶民の生き方を律してきたのは仏教、古代からの自然な宗教意識としての「神道」と習合,あるいは融合した日本仏教である。
ところが、神道の中でも特殊で国粋主義的な平田神道=国学が明治維新の思想的原動力となり、明治政府は、廃仏毀釈で仏教を廃止、同時に本来の神道をも廃止あるいは変質させ、国家を神とする新しい神道=国家神道を国民に押し付けた。
国家主義と儒教道徳の中でも「忠」に偏した「修身」教育によって国民に天皇のために死ねと教えてきた。
廃仏毀釈で神も仏も殺してしまった上に、敗戦によって、国家神道、修身が否定され道徳教育、宗教教育も消えてしまった。日本は宗教も道徳もない、世界にもまれに見る無神論の国となってしまった。
本来、仏教道徳の実践者として人々の模範となるべき者が「僧」であるが、日本では徳川幕府による檀家制度の下での宗教的停滞、戦後の妻帯の常態化などから、戒律を守る僧がいなくなり、自ら戒律を守っていない後ろめたさから、僧が仏教道徳を説けなくなっている。
こうして、現代日本は「神がいなければ全ては許される」という「罪と罰」あるいは「カラマーゾフ」的な社会になってしまっているのではないか。
人間は殺しあう動物だとすれば、だからこそ「殺すなかれ」という道徳が必要であり、道徳は根底に宗教を持たなければなりたたない。
古来日本人を律してきた仏教道徳の基本、「十善戒」「六波羅蜜」はキリスト教の十戒等、他宗教の道徳よりも普遍性を持っている。
世界中で戦争、殺戮が続き、あらゆる生命の破壊である環境破壊はとどまるところを知らない。この人類の危機の時代だからこそ、仏教道徳が求められている。

以上が私が受け止めたこの著の大意。
象牙の塔の対極でバイタリティー溢れる知的世界を築いてきた梅原氏の、現状への危機感を感じさせる発言だ。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。