無明抄

もの言わざるは腹ふくるるわざ・・。かなわぬまでも一市民の発言

白井聡氏講演「永続敗戦としての戦後70年を考えよう」感想

2016-03-13 | 日々雑感

2016年3月12日、神戸市内で白井聡氏の講演会「永続敗戦としての戦後70年を考える」が開かれ、参加した。
若い論客の話を聞いて、長く惰眠をむさぼっていた左脳が久々の刺激で少し働いた。
白井氏は1977年生まれというから、あの60年代末の世界同時多発の「スチューデントパワー」日本の「全共闘運動」も生まれる前の出来事になる世代だ。この若い世代から登場した優れた論客の活躍に大いに期待する。

以下、彼の講演の論旨と若干の感想を記す。ご本人からは「そんなこと言ってないよ」とお叱りを受けるかもしれない。ざっと通読した「永続敗戦論」が手元に見当たらないので氏の論旨を再確認できないまま、あくまで私の理解による意訳・解釈であることをお断りしておく。

■敗戦の否認、無責任の体系
白井氏は、戦後日本のアウトラインを以下のように描く。
日本人は、戦後、敗戦を「終戦」と言い換えて否認し、今もそれは続いている。敗戦の事実を正面から受け止めないで、見たくない、見ない姿勢でいる限り「敗戦」は終わらない。
丸山真男が「無責任の体系」論で示したように、あの戦争指導者達は口を揃えて「実は日米開戦には反対だった」「しかし、そう言える状況ではなかった」などと語り、誰一人責任を認めなかった。しかもそれは彼らが罰を逃れるために虚偽の言い逃れをしたのではなく、事実そうだったという点で一層深刻な問題だ。
そういう日本人の「敗戦の否認」と冷戦構造下でのアメリカの意向とが合致して岸信介らの旧支配層が復権し、対米従属の下での経済繁栄路線がもたらされた。

これらの指摘自体は何も目新しいことではなく、戦後繰り返し多くの識者が指摘もし、論じられてきたことで、私は、「永続敗戦論」が注目を集めたのは、多分にその魅惑的なネーミングによるところであろうと感じているが、あるいは、近現代史を教えられなかった若い世代には案外目新しく思える指摘だったのかもしれない。

■戦後レジームとはすなわち永続敗戦レジームであり、その柱は崩壊した。
白井氏は、現状を以下のようにとらえる。
安倍晋三は「戦後レジームからの脱却」を叫ぶが、戦後レジームとはつまりは敗戦の否認、無責任の体制と冷戦構造下で日本を反共の砦として反映させるというアメリカの戦略に育まれた「永続敗戦レジーム」である。
しかし、今や冷戦はとっくに終結し、他方、資本主義は行き詰まり、従来型の成長は不可能になっており、永続敗戦レジームを支えた柱は崩壊している。

安倍政権の「戦後レジームからの脱却」は実はその永続願望であり、一層の対米従属と裏返しとしてのアジア、近隣諸国への居丈高な姿勢は「敗戦否認」のアンビバレンツな病んだ心理のあらわれである。
しかし、戦後レジーム=永続敗戦レジームの柱は失われ、そこからの脱却は不可避である。
かつて本来の国家の使命である国民の保護さえ放棄して「国体護持」に狂奔して破局を招いたように、今の支配構造を維持するために強権政治によって軍需による経済けん引、戦争に活路を求め破局に至るまで暴走するハードランディングか、それを許さずソフトランディングを果たせるか、私たちは、そういう岐路に立っている。

■「敗戦の否認」「無責任の体系」をどう見るか
「敗戦の否認」「無責任の体系」として指摘されている事柄は全くそのとおりであり、前述のとおり目新しい指摘ではない。
その指摘を聞きながら私は自問自答していた。「敗戦の否認」「無責任の体系」は、日本の支配層によって、あるいはアメリカによって刷り込まれた単に「誤った認識」なのか、それとも日本人に深く根を張った「国民性」なのか。白井氏はどう認識しているのだろうか、と。
たとえば、私自身、何度もヒロシマを訪問し被爆者の体験談を繰り返し聞いた。彼、彼女らはピカの悲惨さを語り、「戦争は絶対にしてはいけない」と異口同音に訴えるが、その戦争の責任者や加害者であるアメリカに対する怒りの言葉は聞いたことはほとんどない。「戦争」をあたかもある種の災害のように語るという印象をいつも感じた。
母から空襲下を命からがら逃げ惑った体験を聞いた時も同じ印象を持った。

白井氏自身も認めるように、「終戦」という欺瞞的な言葉の置き換えは、「逆コース」が始まって行われたわけではなく、それどころかあの「玉音放送」で既に敗北とか降伏ということばが巧妙に回避されていた。もっと言えば、それ以前に「全滅」を「玉砕」、「退却」を「転戦」等々、言葉を置き換えて事実の直視を避ける体質はどうしようもなく根深くあった。
「無責任の体系」も、参謀たちがどれほど愚かな作戦で失敗を重ねようが、その責任を問われるどころか最後まで無謀な戦争指導の指揮を執り続け、中には戦後も英雄扱いで国会議員にまでなった辻正信のような輩までいる。(国民がそれを受け入れた!)
この、「不都合な現実は直視せず既定路線を走る」「誰が決定の責任者かあいまいで誰も責任をとらない」体質は、何もあの異常な軍国主義下での特異な事柄ではなく、戦後も今もどこの企業、どこの役所でも、普通に見られる。それは一度でもサラリーマン経験をしたことがあれば誰もが知っているに違いない。
こうした事実を見ると、私は、これは<良くも悪しくも>、日本人の精神構造、心理構造に深く根付いた特質ではないかと思わずにはいられない。

■支配構造、政治的ヘゲモニーの所在=真の敵を見据えることこそ重要ではないか
「永続敗戦」の指摘自体に異論はないが、それが一番重要な問題だろうか?それを指摘することで現在の矛盾に立ち向かえるのだろうか?
敗戦の否認により敗戦が永続していることが現在日本の根本的な問題だとするなら、結局,未だに「終戦」と言っている大部分の日本人の精神性、思想性こそが問題だということになる。それは、戦後「一億総懺悔」論によって日本人自身による戦争責任の追及をうやむやにしてしまったのと同様に、現在日本をこういう状態にしている支配層、政治的ヘゲモニーを牛耳っている真の敵を見えなくしてしまうのではないか。
まして、それが私が思っているように日本人の根深い国民性からくるとすれば、少なくとも百年やそこらかけないと脱却できそうもないのだから。

実際、白井氏は民主党の幹部たちを敗戦を否認している戦後レジーム派だと激しく論難し、また、薩長同盟を例に挙げて、旧社会党系だの共産党系だのと御託を並べて足を引っ張り合う古い活動家たちも同類だと非難する。しかし、その共通の敵、真の敵は誰かということについて言及はない。
薩長同盟に学べ、はそのとおりだし、国共合作の例を追加してもいい。問題は、同盟し合作して戦うべき共通の敵は誰かだ。
もちろん、表面的には安倍政権である。しかし、そんな上っ面ではなく、一度は2大政党による「健全な政権交代」を容認するかに見えて、それが現実になりそうになるや、小沢をつぶし、鳩山をつぶし、311後の菅政権をつぶし、いかれた極右日本会議などに政権を担わせ、陰に日向にこれを支えている、「反革命」というべき一連の動きを主導した勢力、日本の政治ヘゲモニーを牛耳っているのは誰か、どういう勢力か?

※この状況認識については、当ブログ「3・11と安倍政権 安倍極右政権が生まれた背景についての私的推論」で述べた。

白井氏は、311後、改めて「永続敗戦」の構造が問題だと感じたというが、私が311後のこの国を見ていて気付き、痛感していることは、この国の権力構造の実態、政治的ヘゲモニーを牛耳っている勢力の実態を見据えない限り展望は開けまいということなのだが、どうだろう。


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