無明抄

もの言わざるは腹ふくるるわざ・・。かなわぬまでも一市民の発言

梅原猛 「誤解された歎異抄」を読む

2004-07-19 | 無明抄:こころの一人遊び
梅原猛 「誤解された歎異抄」(光文社文庫)を再読。

歎異抄といえば、ただちに「善人なおもて往生す。いわんや悪人においておや」の一節が思い出される。
梅原によれば、それが「誤解」だという。

歎異抄は、もともと絶対他力を説いた親鸞の死後、弟子たちの間に見られた「自力」的な要素をまじえる傾向に対して、絶対他力を改めて強調するという意図で唯円によって書かれた。
そのため、必ずしも親鸞の教えの真髄とはいえない悪人正機説が強調されすぎており、そのことと「あの世」「この世」といった観念を受け入れない近代思想の視点とがあいまって、あたかも悪人正機論が親鸞思想の真髄であるかのような「誤解」を広めたというのである。

それでは親鸞の教えの真髄は何かというと、二種回向と二種浄土とであるという。
親鸞は、阿弥陀如来の本願によって極楽往生しても、そのまま極楽にとどまるのではなく、衆生を救うために繰り返しこの世に帰ってくる、往ってまた還る(往相回向と還相回向)と考えていた。
また、絶対他力の信仰の揺るぎない人は真実の浄土に行くが、自力をまじえるような人、つまり阿弥陀如来の本願に任せきれない人は、仮の浄土に往き、そこで500年とどまらねばばらない・・と考えていた。
この、往生しても還ってくる、極楽に二種ある、というのが親鸞の思想の真髄だと、梅原は言う。

では、なぜ二種の極楽を説いたのか。
ここに「他力」の一種の矛盾がある。
絶対他力で、「悪人ですら往生できる」なら、他力に徹することができないとか、自力門に走るとかいった信仰上の間違を犯したとしても同じように極楽往生できるはずである。しかし、それでは「絶対他力」を説く意味がない。
そこで、「正しい(他力の)信仰」の優位性を主張するために二種の極楽を想定して、そこに差をつけたのである。
梅原は、「これは一種の差別である」が、親鸞は真の他力の教えを説くために必要な差別と考えたのであろうと言う。

こうした梅原の指摘が的を得ているとすれば、他力信仰の矛盾がそこに集約していることになる。
親鸞は、二種の浄土まで持ち出して、自力を交えず、他力に徹せよと説いた。
しかし、そのように迷いなく他力に徹する、弥陀の本願への硬い信仰を持つことができるかどうか、それ自体も一つの自力とは言えないか。
弥陀の本願に任せきるという意志・・、他の宗門でなく親鸞の教えに従うという意志、まさに「法然上人にだまされて地獄に落ちてもかまわない」という強烈な「信」を持つこと、それが自力でなくて何であろう、と思うのだがどうだろう。


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1 コメント

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訪問のごあいさつ (濁川(だくせん))
2004-08-21 13:11:37
はじめまして

歎異抄についてのお考え

興味深く拝見いたしました



歎異抄を読むシリーズを

身勝手な解釈で展開しています

よろしければご覧ください



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