01年秋、友人から京都大学の研究者K氏の論文が送られてきた。
K氏は、市民の立場にたって反原発運動に力を注いでこられた、私がかねてから敬愛する正義感あふれる科学者である。
論文は、9・11以降、アメリカを発信源として吹き荒れた集団ヒステリーじみた「反テロ戦争」の声に対する怒りに満ちた反論である。
その中で、氏は、先住民を虐殺し土地を奪って「自由と民主主義」を謳い上げたアメリカの建国以来の「体質」や、アフガニスタンやパレスティナ問題での理不尽な振る舞いを厳しく指摘し、今回の「テロ」の背景にある、そうした虐げられた人々への深い共感をこめて、「米国は『米国につくかテロにつくか』と世界に踏み絵を迫った。敢えて問われるのであれば、私は躊躇なく『テロ』に付く。」「虐げる強者の正義に組するよりも虐げられる弱者の正義に組したい、強者の暴力を見過ごすくらいなら弱者の暴力にあえて荷担する、同時に、「虐げる側に属する者」は虐げられる者の暴力にたいして「罪無き市民」であると主張することは許されない」と述べている。
私は、この論文を読んで、大筋で共感しながらも、「そうではない、そうじゃない」と叫びたいような、やりきれない想いに捕らえられた。
そして、論文を送ってくれた友人に思いを書き送った。
************************
アメリカの横暴、傲慢への怒りやアフガンの人々への思いは全く同感です。
子供の頃に見た西部劇にいつしか疑問を感じはじめたという体験も、まったく同じです。
そして、学生時代に、ベトナム戦争に荷担する日本で安穏としていることはベトナム人民の頭上に爆弾を投げつけることと同じだと思って、臆病風と綱引きしながらデモに加わっていた頃なら、Kさんの「私が虐げられた人々の攻撃の標的になったとしても、罪のない市民が殺されたなどとは口が裂けても言いたくない。」という言葉に100%共鳴したと思います。
でも、いつの頃からか、どこか違う、と思っています。
Kさんの論文に大筋で同意しながらも、もっとも本質的な二点で違和感があります。
ひとつは、暴力の考え方。
虐げる強者の暴力=悪 虐げられる弱者の暴力=正義 という二元論は、わかりやすいけれど、やはり間違いだと思います。
正義の殺戮なんてないんだ!
どんなに悔しくても、苦しくても「正義の殺戮なんてない」ということを噛み締めない限り、この世から戦争も殺戮もなくならない、そう思うのです。
数年前、新聞の書評欄で「歴史新聞」という本の紹介を見て、おもしろそうだと買いました。新聞の体裁で歴史上の出来事をパロディー風に書いてあるのです。
最初は面白がって読んでいました。しかし、読んでいるうちにだんだん笑えなくなり、半分も読む前に、もう読みつづける気力がなくなりました。
そこにかかれているのは、人間の愚かさでした。
戦争、陰謀、支配、殺戮、革命・・・、延々と繰り返される同じ愚行・・。
人間は有史以来、飽きることなく同じことを続けている。進歩したのは破壊、殺戮の方法だけ・・。
正義の名のもとでなら暴力も許されるとする考えからは、憲法9条も輝きを失うのではないでしょうか。なぜ、理由の如何を問わず紛争解決の手段として戦争を放棄したのか。アフガン人民を救うことが正義であり、そのための暴力が許されるなら、日本軍はアフガン人民の側にたって闘わねばならないのではないでしょうか?それをしないのは無責任な中立主義か臆病になってしまうでしょう。
そうではない、正義の戦争なんて認めない!という地平に立ってはじめて9条が輝くのだと思います。
何度も何度もヒロシマを訪ね、被爆者の声を聞きながら、不思議に思いつづけたことがあります。それは、あれほどの地獄を味わわせられながら、被爆者の口から敵国アメリカへの憎悪を聞くことがほとんどないことです。
誰もが口をそろえて、腹の底から搾り出すように訴えることは、アメリカへの憎悪ではなく、「戦争は絶対にしてはいけん」という言葉なのです。
ヒロシマの被爆者のみでなく、私の父母を含めて、空襲による無差別殺戮を経験した日本人の多くが、同じようにアメリカを非難するよりは、「戦争をしてはいかん」というのです。
非戦闘員への無差別爆撃や原爆投下は、あきらかに国際法違反の戦争犯罪でありながら、日本は勿論、国際社会がそのことを一度として指摘しなかったことは重大な誤りだと思います。
それはそれとして、戦中世代が「戦争をしてはいかん」というとき、「戦争」にはいかなる限定もつきません。それは、自らが駆り立てられた大東亜の正義も連合国の民主主義の正義も、同じように人々を殺戮したことに変わりは無いということを痛切に知っているからではないでしょうか。
戦後、曲がりなりにも9条が消えずにきた、保守の政治家でさえその重みを認めてきた背景には、一夜にして大東亜の正義が侵略者の悪にひっくり返り、鬼畜米英が正義の民主主義にひっくり返った、昨日まで殺しあっていた相手が今日は解放軍になった、昨日死んだ兵は、市民は、一体なんのために死んだのかという、痛切な思いを原体験とした世代の存在が大きかったのではないか、今そう思っています。
そして、そういう価値観の逆転は歴史上数え切れないほどあります。「正義」ほど厄介なものはない、そう痛感するのです。
もし普遍の正義というものがあるとすれば、「殺すな!」。
無力な、裏切り続けられる正義かもしれませんが・・。
繰り返しになりますが、正義の殺戮なんてない!のだと思います。
アメリカの攻撃は、国家によるテロであり許されないことは勿論ですが、「罪の無い」(とあえて言いますが)市民数千人の中に飛行機を突入させた行為も、まぎれもなくテロであり、いかに彼らの心情が汲むべきものがあろうと(彼らの心情を思えば・・という気持ちは多分Kさんと同じです)、やはり許されないと思います。
二つ目の違和感は、その「罪無き市民」についてです。
Kさんは、以前から原発問題でもよく自らの「加害者性」を見据えるべきだという趣旨の発言をされています。
これも「自己否定」を試みた全共闘世代としては拍手したいとも思うのですが、やはりいつの頃からか少し「ちがう」と思うようになっています。
アフガンの子供たち、民衆が、わけも無く殺されて良いわけが無いように、アメリカ人が、たまたまアメリカ人であったというだけで殺されて良いわけは無いのです。
世界の弱者を虐げる覇権主義のアメリカに属するというだけで、その罪は免れないとする冷酷さに、私はくみすることはできません。
人を単純にその所属する共同体や地域や立場によって裁いてしまう見方には、生身の人間、日々苦しみ、喜び、矛盾の中で生き続ける人間への視点を欠いた冷たさが潜んでいるようにすら思います。
加害と被害の構造こそが問題なのであって、その構造に組み込まれて生きる人々(組み込まれることなく生きる霞のような人間なんてどこにいるのだ!)に、それ自体で罪があるわけではないと思うのです。(勿論、自らが組み込まれている構造に気づき、変えようとすることの重要性は否定しません。)
「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」の、敵・味方を超えようとする世界が好きです。
でも、多分「歴史新聞」はこれからも何百年も同じ記述を続けねばならないのだろうとも思います。
2001,11,10
K氏は、市民の立場にたって反原発運動に力を注いでこられた、私がかねてから敬愛する正義感あふれる科学者である。
論文は、9・11以降、アメリカを発信源として吹き荒れた集団ヒステリーじみた「反テロ戦争」の声に対する怒りに満ちた反論である。
その中で、氏は、先住民を虐殺し土地を奪って「自由と民主主義」を謳い上げたアメリカの建国以来の「体質」や、アフガニスタンやパレスティナ問題での理不尽な振る舞いを厳しく指摘し、今回の「テロ」の背景にある、そうした虐げられた人々への深い共感をこめて、「米国は『米国につくかテロにつくか』と世界に踏み絵を迫った。敢えて問われるのであれば、私は躊躇なく『テロ』に付く。」「虐げる強者の正義に組するよりも虐げられる弱者の正義に組したい、強者の暴力を見過ごすくらいなら弱者の暴力にあえて荷担する、同時に、「虐げる側に属する者」は虐げられる者の暴力にたいして「罪無き市民」であると主張することは許されない」と述べている。
私は、この論文を読んで、大筋で共感しながらも、「そうではない、そうじゃない」と叫びたいような、やりきれない想いに捕らえられた。
そして、論文を送ってくれた友人に思いを書き送った。
************************
アメリカの横暴、傲慢への怒りやアフガンの人々への思いは全く同感です。
子供の頃に見た西部劇にいつしか疑問を感じはじめたという体験も、まったく同じです。
そして、学生時代に、ベトナム戦争に荷担する日本で安穏としていることはベトナム人民の頭上に爆弾を投げつけることと同じだと思って、臆病風と綱引きしながらデモに加わっていた頃なら、Kさんの「私が虐げられた人々の攻撃の標的になったとしても、罪のない市民が殺されたなどとは口が裂けても言いたくない。」という言葉に100%共鳴したと思います。
でも、いつの頃からか、どこか違う、と思っています。
Kさんの論文に大筋で同意しながらも、もっとも本質的な二点で違和感があります。
ひとつは、暴力の考え方。
虐げる強者の暴力=悪 虐げられる弱者の暴力=正義 という二元論は、わかりやすいけれど、やはり間違いだと思います。
正義の殺戮なんてないんだ!
どんなに悔しくても、苦しくても「正義の殺戮なんてない」ということを噛み締めない限り、この世から戦争も殺戮もなくならない、そう思うのです。
数年前、新聞の書評欄で「歴史新聞」という本の紹介を見て、おもしろそうだと買いました。新聞の体裁で歴史上の出来事をパロディー風に書いてあるのです。
最初は面白がって読んでいました。しかし、読んでいるうちにだんだん笑えなくなり、半分も読む前に、もう読みつづける気力がなくなりました。
そこにかかれているのは、人間の愚かさでした。
戦争、陰謀、支配、殺戮、革命・・・、延々と繰り返される同じ愚行・・。
人間は有史以来、飽きることなく同じことを続けている。進歩したのは破壊、殺戮の方法だけ・・。
正義の名のもとでなら暴力も許されるとする考えからは、憲法9条も輝きを失うのではないでしょうか。なぜ、理由の如何を問わず紛争解決の手段として戦争を放棄したのか。アフガン人民を救うことが正義であり、そのための暴力が許されるなら、日本軍はアフガン人民の側にたって闘わねばならないのではないでしょうか?それをしないのは無責任な中立主義か臆病になってしまうでしょう。
そうではない、正義の戦争なんて認めない!という地平に立ってはじめて9条が輝くのだと思います。
何度も何度もヒロシマを訪ね、被爆者の声を聞きながら、不思議に思いつづけたことがあります。それは、あれほどの地獄を味わわせられながら、被爆者の口から敵国アメリカへの憎悪を聞くことがほとんどないことです。
誰もが口をそろえて、腹の底から搾り出すように訴えることは、アメリカへの憎悪ではなく、「戦争は絶対にしてはいけん」という言葉なのです。
ヒロシマの被爆者のみでなく、私の父母を含めて、空襲による無差別殺戮を経験した日本人の多くが、同じようにアメリカを非難するよりは、「戦争をしてはいかん」というのです。
非戦闘員への無差別爆撃や原爆投下は、あきらかに国際法違反の戦争犯罪でありながら、日本は勿論、国際社会がそのことを一度として指摘しなかったことは重大な誤りだと思います。
それはそれとして、戦中世代が「戦争をしてはいかん」というとき、「戦争」にはいかなる限定もつきません。それは、自らが駆り立てられた大東亜の正義も連合国の民主主義の正義も、同じように人々を殺戮したことに変わりは無いということを痛切に知っているからではないでしょうか。
戦後、曲がりなりにも9条が消えずにきた、保守の政治家でさえその重みを認めてきた背景には、一夜にして大東亜の正義が侵略者の悪にひっくり返り、鬼畜米英が正義の民主主義にひっくり返った、昨日まで殺しあっていた相手が今日は解放軍になった、昨日死んだ兵は、市民は、一体なんのために死んだのかという、痛切な思いを原体験とした世代の存在が大きかったのではないか、今そう思っています。
そして、そういう価値観の逆転は歴史上数え切れないほどあります。「正義」ほど厄介なものはない、そう痛感するのです。
もし普遍の正義というものがあるとすれば、「殺すな!」。
無力な、裏切り続けられる正義かもしれませんが・・。
繰り返しになりますが、正義の殺戮なんてない!のだと思います。
アメリカの攻撃は、国家によるテロであり許されないことは勿論ですが、「罪の無い」(とあえて言いますが)市民数千人の中に飛行機を突入させた行為も、まぎれもなくテロであり、いかに彼らの心情が汲むべきものがあろうと(彼らの心情を思えば・・という気持ちは多分Kさんと同じです)、やはり許されないと思います。
二つ目の違和感は、その「罪無き市民」についてです。
Kさんは、以前から原発問題でもよく自らの「加害者性」を見据えるべきだという趣旨の発言をされています。
これも「自己否定」を試みた全共闘世代としては拍手したいとも思うのですが、やはりいつの頃からか少し「ちがう」と思うようになっています。
アフガンの子供たち、民衆が、わけも無く殺されて良いわけが無いように、アメリカ人が、たまたまアメリカ人であったというだけで殺されて良いわけは無いのです。
世界の弱者を虐げる覇権主義のアメリカに属するというだけで、その罪は免れないとする冷酷さに、私はくみすることはできません。
人を単純にその所属する共同体や地域や立場によって裁いてしまう見方には、生身の人間、日々苦しみ、喜び、矛盾の中で生き続ける人間への視点を欠いた冷たさが潜んでいるようにすら思います。
加害と被害の構造こそが問題なのであって、その構造に組み込まれて生きる人々(組み込まれることなく生きる霞のような人間なんてどこにいるのだ!)に、それ自体で罪があるわけではないと思うのです。(勿論、自らが組み込まれている構造に気づき、変えようとすることの重要性は否定しません。)
「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」の、敵・味方を超えようとする世界が好きです。
でも、多分「歴史新聞」はこれからも何百年も同じ記述を続けねばならないのだろうとも思います。
2001,11,10
感激しております。
実は、少し前から、
御サイトを拝見していて、仏教思想にもとづく
地に足のついた平和への歩みをなさっていること
尊敬申し上げておりました。
殺さない とは、いいつつ、
肉食をし、また肌にとまった蚊を
反射的にたたきつぶしてしまう
業縁ふかき私です。
でも、
人は、殺さない。
わたしが、主権をもつ日本という国にも
殺させない。
そういう祈りにも似た気持ちは
もちつづけています。
そうするよりほか
永遠の恨みの輪廻から
抜け出すことはできないと
思うからです。
力なき私ですが、
ものいうことから、はじめたい
と思います。
これからも、拝見させていだきます。
暑い夏でしたが、どうぞ、夏のおつかれが
でませぬよう、ご自愛くださいませ。