無明抄

もの言わざるは腹ふくるるわざ・・。かなわぬまでも一市民の発言

「神」の誕生についての思いつき的仮説

2009-08-22 | 無明抄:こころの一人遊び
今朝、散歩のとき近所の教会の説教の案内看板に掲げられたメッセージが目についた。
「神があなたを造った」

「神が人間を造ったのではなく人間が神を造った」って言ったのはフォイエルバッハだったかな・・、と若かりし頃の記憶をたどる。
「神」をどう捉えるかによって、このテーゼは正しいとも違うともいえそうだ。
人間のように「意志」をもつが全知全能といった人格神を想定するならば、フォイエルバッハが喝破したとおりであろう。
しかし、人知を超えた宇宙の法則、ありよう、真理、仏教でいうところの「法=ダルマ」を「神」というなら、「神が世界を、人間を造った」とっても間違いとは言えまい。

古来人間は、自然や自らの理解や力を超えた「力」への畏敬の念を「神」と呼び、納得してきたのではないか。アニミズムといわれる土俗的宗教意識や神道の「神」の概念はそうしたものであろう。
そうした「神」が次第に人間自らの姿を投影され、擬人化されて人格神となっていく過程で、人間の人間的属性(いわば「煩悩」)もまた投影されていったのではなかろうか。
その結果、日本の八百万の神々、ギリシャ神話の神々、ヒンズーの神々など、総じて多神教の世界では、超能力は持ちながらも極めて人間的な弱点や個性も持ち、敬われながらもどこか愛すべき神々が生まれた。
一方、ユダヤ教とその申し子であるキリスト教、イスラム教では、神は人間性を投影され、旧約にみられるように怒りや嫉妬さえあらわにする、いわば「煩悩具足」でありながら、しかも唯一絶対、全知全能とされるが故に、強烈な専政者のような神が生まれた。この神への信仰は、強烈であるが故に、一方ではたとえばマザーテレサのような無償の愛と献身を支えもするが、他方では神の名において様々な悲惨も引き起こす。
絶対的な神に投影された「煩悩」と生ける人間の「煩悩」が「神の名において」というところで、いわば掛け合わされて発現する。たとえば魔女狩り、たとえば十字軍、たとえば自爆テロ・・。
国家神道=天皇崇拝という、いわば神道の異端のもとでも同じことが起こった。

人間が造った神とのつきあい方は難しい。
その点、仏教は本来そういう意味での神は認めない。仏陀はあくまで真理を「悟った人」であり、その真理と真理に目覚めるための方法を教えた教師である。
ところが、その仏教も大乗仏教へと展開(変質?)していく過程で、いつしか真理=法が、さまざまな如来様や菩薩様といった人格神に類した概念へと塗り替えられ、最後には、「阿弥陀如来」という「神」への無条件の信仰、他力信仰を生み出すにいたる。

どうやら人間は神を造らないことには不安でならないらしい。
そうしなければ、人はこの世界や理不尽な人生を納得できない。
死に向う存在でありながら、世界や人生を納得できないのは耐え難い不安、実存的恐怖である。
誰もが修行すればゴータマ・ブッダのように智恵で世界を納得できる=悟れる訳ではない。 納得できない=悟れない凡俗の身は、やはり「神」を求めずにはいられない。
実存的恐怖におののく姿こそ「無明」であるとすれば、仏教がついには他力信仰に至るのもまた無明の故というべきか。

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