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米国の核開発を管轄するエネルギー省の前身組織の原子力委員会 (U. S. Atomic Energy Commission) は、3巻の正史 (official history) を出版しています。第1巻のNew World、2巻のAtomic Shield、3巻のAtoms for Peace and Warで構成されており、第二次世界大戦期のマンハッタン計画から、アイゼンハワー政権末までを扱っています※。
各巻にはそれぞれ2名の執筆者がいます。全巻の執筆に参加しているヒューレット (Richard G. Hewlett) は正史家 (official historian) と呼ばれ、機密文書にアクセスする資格を持っている歴史家です。ヒューレットは戦時中に陸軍航空隊で気象に関する観測機器の開発と運用に参加した後、歴史学で学位を取得しています。戦後はソ連の産業に関する情報を分析する専門家として空軍に勤めた後、原子力委員会に転職し、機密文書を扱って財政に関する報告書を作成する作業に参加していました。この経歴から、ヒューレットは科学や技術と歴史学の素養を持ち、軍と原子力委員会の内情に接する機会を持っていたと言えます.
各巻の冒頭には「注意書」があって、「ここで表明された著者らの意見や見解は、必ずしも米国政府やその諸機関の意見や見解」ではないと書かれています。つまり、正史といえども、原子力委員会の公式な見解ではないとされています。
正史の1巻と2巻を編纂しているのは、原子力委員会が設置した歴史諮問委員会 (以下、諮問委員会) という組織で、1巻は6名、2巻は7名の科学者や歴史家などで構成されています。執筆者はこの諮問委員会の委員ではありません。1巻と2巻の前書きには,諮問委員会と執筆者の間の関係について書かれています。
1巻には、執筆者が安全保障上の問題を除いて自由に執筆したとあります。2巻には、諮問委員会が本書の記述について出典を詳細に検証しておらず、本書についてあらゆる権威を加味しないとあります。また、内容の解釈について執筆者と何度も議論してきたともあります。そして、3巻には、理由がわかりませんが、1、2巻にあった諮問委員会がなくなっています。つまり、諮問委員会と執筆者は、どの程度かわかりませんが相互に独立しており、さらに2巻の編纂中に意見が異なっていたことが示唆されています。
1巻の諮問委員会には、マンハッタン計画でシカゴ冶金研究所の所長を務め、軍と科学者の双方から信頼されていた物理学者のA. コンプトン (Arthur H. Compton) の名前もあります。1巻と2巻の双方の諮問委員会に名前があるのは、ハーバード大学の政治学者で『政府と科学』(みすず書房、1967年) などの著作で知られているプライス (Don K. Price) だけです。プライスは1945-6年の間に行政府の予算局に勤務し、原子力法や全米科学財団法の起草にも参加していたので、行政府の内部事情に精通していた人物です。目についたのは、2巻の諮問委員会に名前のある物理学者のR. R. ウィルソン (Robert R. Wilson) です。ウィルソンはマンハッタン計画に参加していましたが、戦争が終結すると原子力の国際管理を提唱するロスアラモス科学者協会の設立に参加し、いわゆる「原子科学者」の中心的な役割を果たした人です。戦後設立された批判的な科学者の団体である米国科学者連盟の委員長も務めています。このように、諮問委員会には様々な立場の人がおり、バランスのとれた配置になっていたように見えます。
正史3部作は、米国の原子力開発の歴史について、きわめて詳細に出典も明記して記述されており、歴史研究をするうえで出発点となる重要な文献です。しかし、すべてのことが書かれているわけではなく、マーシャル諸島などの核実験場でヒバクした人々のこと、戦時中から行われていた放射線人体実験のこと、放射性物質を兵器として使用する放射能戦の研究のように、米国にとってきわめて都合が悪いことについては、ほとんど記述がありません。また、外部の者が史料にアクセスできず、検証できないことも含まれています。
そのような欠点がありつつも、記述されている内容に限れば今でも信頼されているのは、それなりに工夫と苦労をして編纂・執筆されたからなのだと思います。
※ 3巻の正史は全巻を無料でダウンロードできます。以下のサイトで各巻のID番号を入力下さい。1巻: 4597121, 2巻: 4582828, 3巻: 6150636.
URL: http://www.osti.gov/energycitations