美術の学芸ノート

中村彝などの美術を中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術、美術の真贋問題、個人的なつぶやきやメモなどを記します。

「エロシェンコ」以前の構想

2015-10-16 19:53:19 | 中村彝
中村彝の代表作エロシェンコ氏の像は大正9年に生まれたが、この作品は短期間で制作されたもので、実は、この年の8月30日時点では、帝展に何を出品するか、何を描くのかまだ決まっていなかった。

大正6,7,8年と官展に不出品だったので彼は相当にあせっていたはずだ。
前年は署名も年記もきちんと入れた優れた作品が比較的多く見られ、特に静物画などにおいて、意外な収穫期だった。が、官展に出してもいいと彼自身が認めた作品はなかったようだ。

大正9年8月30日の洲崎宛て書簡では「今度の風景と去年描いた未成の自画像」の出品も考えていたが、あまり「気乗り」はしない。

「然しこの秋には是非『モデル』を使って、八十号位に裸体をかいて」みたいと思っていた。

8月30日の書簡で述べられている「今度の風景」はどの作品を指すのか明らかでないが、残されている作品から判断するなら、前年12月から描かれた目白の冬以外にはそれらしい完成作は見当たらない。

また「未成の自画像」とは、ブルーズを着た「自画像」のことではないか。この作品(下図)は、このころの未完成の自画像であり、他に該当する作品もない。
この作品は大正9年ころの作とされることが多いが、こうして考えてみると、その前年の作としてもおかしくはないし、著者や編者により8年作とされたこともある作品だ。(※前にこの作品を大正9年頃としておいたが、むしろこの記事以降、私はこの作品の制作年を大正8年と訂正したい。)

80号の裸体画の構想は、実際には実現しなかったが、「三年前にお島をかいたあの裸体を一層徹底さして、も少し流動的なものにし度い」と願っていた作品である。

「三年前にお島をかいた作品」とは、現在、茨城県美術館にある裸体だろうから、実際には4年前に描いた作品だ。これをさらに「流動的」にして、ルノワール晩年の裸体画のような作品を描きたかったのだろう。おそらく様式的には、現在ポーラ美術館にある「泉のほとり」のような作品をイメージすればよいかもしれない。

9月に入っても彝はますますルノワールに夢中になっており、何とかして「モデル」を見つけ、裸体画を描きたく思っていた。

実際、9月4日の書簡でも彼は「来週からは『モデル』を雇って裸体の研究を」始めてみたいと明確に述べている。

ところが、「エロシェンコ」を描いた後の10月2日の書簡では、「お嶋の延長である―『エロシシェコ』の肖像」と言っている。

これはいったいどういう意味なのだろう?
いささか奇異に聞こえないか?
なぜ、裸体ならぬ「エロシェンコ」が「お嶋の延長」なのか?







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