「美術品の真贋こぼれ話」という演題ですが、実は、公立の美術館では誰も喜んで真贋について判断したくないようであります。
なんとなれば、やはり責任と金銭にかかわる問題があるからです。もし真贋の判断を間違った場合、その責任は学芸員個人の責任にとどまらず、もっと上の方まで、公立なら学芸課長とか、美術館長とかまで行ってしまう恐れもあるでしょう。
公立だからタダで鑑定して、それで間違ったら、責任を取らされる、それでは堪ったもんではありません。
しかし、鑑定に持ち込んできた人も、数百万円、数千万円の問題ですから、やっぱり黙ってはいない。お金がかかわるとみんな、眼の色が変わってしまうんです。
だから最初から、公立美術館では持ち込みの真贋判断をしないというような美術館が多いのではないでしょうか。
真贋判断をやるとしても、美術館では、怖くて新米の学芸員などに鑑定などさせられない。そもそも大学の美術史の授業や博物館実習などでは、通常、真贋判断など誰も教えてくれませんから。
人気のTV番組でも、その場で瞬間的に判断しているように見えますが、私は、ちゃんとスタッフがいて、微妙な作品については、きちんと下調べをしていると思いますよ。
かなりいい作品とか、よほどダメな作品はその必要もないでしょうが。
でも大体は、数十万から数百万以下の中間の作品が多いでしょう。だから、やっぱり調べてると思うんです。極上の作品も、念のため、一層慎重に調べると思いますよ。TV放送となると、ワン・パターンでも、やはりTV局の責任というものもあるでしょうから、けっこう大変だと思います。
でなければ、時々間違って、米国などなら、簡単に訴訟問題に発展してしまうんじゃないでしょうか。神様じゃないんですから、間違うことだってあるはずです。外国の美術史家や鑑定家だってみんな間違っているんですよ。いや、騙されたといったほうがまだいいんでしょうか。
でもTVの先生方は、度胸がいいんです。一面でチョウかハンかの世界なんです。間違ってしまったなどということは、私は聞いたことがない。そんなとこもないとやっていけない。われわれ学芸員のような慎重すぎて臆病な世界とは違う。
ただ、チョウ、ハンはいいとしても、実際の価格となると、私などは、どんなものかなと思ってしまうこともありますね。
価格は、一桁違うなんてことも、この世界ではおこりますから、他のビジネスの世界の常識が、美術の世界では通じないんです。これは外国でもそうらしいですよ。美術の世界の常識は、他のビジネスの世界では15分と持たないと、外国の専門家がある本で書いていましたから。
学芸員は、臆病、いや慎重な人が多いから、やはり調べるんです。時間もかかるんです。TVのようにあの場だけで、チョウだハンだとは言えない。下調べをするスタッフもいない。みんな自分一人で、自分だけの方法でやるんです。
まあ、美術館によっては先輩から後輩へと何か伝授してくれるところがあるのかもしれませんが、私のいたところでは、そんなことは一切なかった。誰も私に教えてくれなかったし、聞く人もいなかった。
でも幸か不幸か、さっき言ったように、公立の美術館では、多分多くが、持ち込みの鑑定はしないことになっているのではないか。
それをいいことに、勉強しない学芸員がいると困ってしまうし、学芸員の能力が向上しないんです。もっとも、現代美術ばかりやっているような美術館は、あんまり真贋問題は関係ないかもしれない。そんなところは、学芸員の語学力が大事なんです。作家や関係者と仲良くなって、英語やフランス語がペラペラ話せるとか、何とか。それが、学芸員のオーラなんでしょうか?
しかしそうでない美術館では、高いお金を出して、つまり公立だと税金で作品を買うことも、寄贈で頂くこともあるわけですから、一生、真贋を判断しないで済ませるというわけにはいかない。そこでやはり調べるわけです。
一番一般的なのは、作品の由来、来歴を調べる方法です。AさんからBさん、BさんからCさんへと順に遡ってめでたく作者に行きつけば、まずは本物という判断です。
しかし、これにも、落とし穴があって、作者の身近な人が、つまり、来歴の上ではいい線いっている人が、たまたま経済的に困っていて、それで、売れた方がいいから、本当は違うのに、買い手に本物などと言ってしまう場合もありますから用心です。
これは、審美眼の問題とは全く関係がない。誰でもできるんです。ルートを調べていくだけですから。
チョウかハンかの世界は、審美眼の世界です。眼が勝負なんです。でも芸術家でもくだらない作品を作ることがあるから、逆に真贋判断は間違うことがあるんですよ。
作者自身も年とると自分や師の作品を忘れてしまう。冗談でなく似たようなことはあるんです。
だから本人が言っているのだから間違いないというのは、間違いです。
師の作品の真贋を訊かれたある画家が、偽物だといったら誰にも利益が分配されなくなるから、本物だといったほうがまだましだ、みんなのためにも幸せだと考えることもあるでしょう。
鑑定書を何人かの画家の連名で出すというのも、見たことがありますが、これも、それで信用性が増すのかというと、ちょっと疑問なんです。権威付にはいいかもしれないが、右へ倣いで署名に加わってしまう人もいるんじゃないでしょうか。
最初に結論を出す人にはなかなか反対はできない風土もあるでしょうから。それなら、むしろ○、×でいっきに投票させた方がいい。しかし、やっぱり客観的に学問的に研究して結論を出すのが一番いいんです。
そもそも本物を本物と証明するのは難しい。偽物なら、何か1つの決定的な矛盾点を挙げればいいわけですが、本物というのは証明が難しいんです。しかも勇気がいるんです。偽物と思ったら、丁寧に無視するか相手にしなければ、まあ恨まれないけれど、それを公然と言ってしまうと大変なことになりますね。相手が相手だったりすると怖いですよ。名探偵ポワロやコロンボの世界になってしまいますから。
これはとてもずるいやり方ですが、本物の場合もあまり相手にしない。要するにかかわりを持たない。だから本物とわざわざ言うのは、名誉心や自信がある時だけです。これが、安全な世界に住んでいる人の鑑定のやり方です。
しかし、信用の無い場合の骨董商的鑑定は、まるで反対です。
少しでも本物に見えそうなものがあれば、本物にしてしまう、これが原則でしょう。とにかく何とかして美点を見つけて売りたいわけですから。相手が勝手に信じて買ってくれれば、これが一番の理想です。夢や幻想を持たせるのです。考えてみれば悪いことをしているわけではないかもしれない。詐欺になったら別ですが、そこを何とかすり抜けていく。
非常にレベルの高い贋作だと、メ―ヘレンによるフェルメール贋作事件のように、専門家がターゲットになるんです。贋作者は、その分野で最高のレベルの専門家一人を落とせばいいんですから。
専門家は、自分の学説から、こんなフェルメールがあるはずだ、あったらいいなと常日頃思っているから、贋作者はそこを狙えばいい。フェルメールの宗教画があるはずだと。そしてブレディウスという専門家がひっかかったんです。
ちなみに、贋作にひびを入れるのはとても難しいですよ。さて、贋作者は、これをどうやったか。調べると面白いですよ。
それから、「ダヴィデ」という音楽を作った音楽家のオネゲルの子孫が来歴づくりに利用され、そんなこともあって、ミケランジェロの贋作に騙された有名な専門家もいます。
F.ハートですね。学生時代、私などその本を読んだことがありましたけれど、そんな権威者が後に贋作事件に巻き込まれるとは思ってもいませんでした。1987年の時点で起きた事件です。そんなにまだ古くない。それでも、学者は、来歴がいいと、ころっと騙されてしまうんです。
日本でもNHKでも放送されたような、有名なある画家の贋作騒ぎがありました。学者は、下手くそな絵でも、先入観無しが建前ですから、こんな作品があってもいいかなと思ってしまうんです。
葉書や日記などと一緒にそれがでてきて、権威者の序文を付けてそれをまとめたものが先に本になってしまう。ここまで来ると別の専門家もそれにつられていく。そして、絵の方もそうした専門家がまず信じてしまう。しかし、実はその葉書や日記の方も、もともと根拠のないものだったようです。
さて、贋作者の手口としては、画像の合成・分解ということがありますね。これは本物の一部だけを取り出して贋作を作る方法です。全体をまねたような作品だとすぐに贋作とわかるのですが、一部だとなかなか気づかない。また複数の本物から部分を寄せ集めて贋作を作ることもよくあります。
贋作者は、基本的に想像力がないから、こういうことをよくやるんです。
一番安直な贋作は、古そうな作品をどこかから見つけてきて、それに作者名だけを入れ替えて高く売る方法です。例えば、遡っていくと、すでにネット・オークションの段階で作者名が入れ替えられ、安く買われた作品があったとする。それがいつの間にか、お店を構えた画商から高い値段で売られるようになる。
それに近い例で、私が知っているある作品は、その後、公立美術館の展覧会にも出品されました。そうすると、それがますます本物になってしまう。つまり、本物は作られるんです。でも私の眼から見るととうてい本物とは思えない、そんな作品でした。
もちろん、誤解のないように言っておきますが、ネット・オークションで掘り出し物が出ることもあるようですね。例の人気のTV番組で中国の古い唐時代の焼き物が出てきました。作品の所蔵者は、それをネット・オークションで買ったと言っていましたよ。この時は、見ていて驚きましたね。
最後に、つくばの公務員の方で、パリの蚤の市から油絵を買ってきた例を紹介します。まだ、スマート・フォンも今ほど性能もいいポータブルPCもない時代の話です。
これは、私がつくば美術館にいたとき、自分の研究のために作品を見せてもらい、結果的に、本物と口頭で鑑定してあげた例です。もちろん無料です。
それは石岡出身の有名な画家、熊岡美彦の作品でした。1927年の年記のある作品で、外国人モデルの女性の半身像でよく完成されていました。
これは直観的に本物と鑑定した例です。この絵を買ってきた人は、「クマオカ ヨシヒコ」の署名がある作家がどういう人か全くわからなかったそうです。
ただ、パリに、日本人の署名の絵があったので、ひょっとしたらそれなりの人かもしれないと思い、思い切って買ってきたそうです。
買った人はとても勘のいい人でした。しかも運もいいと私は言ってあげました。
「あなたは、今つくばに住んでいて、しかもごく近くの石岡出身で、中村彝の次に有名な茨城の代表的な画家、熊岡の絵をパリで偶然手に入れたのだから、とても当地に縁があるし、運がいい」こう言ってその人を祝福してあげたのです。さぞやパリと茨城のよい思い出となったことでしょう。
真贋問題の話は、たいてい夢の無い、暗い話に終わりがちなのですが、きょうは<祝福>ということばで話が終われそうなので、私もよかった。
さて、今思うに、あの外国人モデルは、熊岡の代表作の1点、「裸体」(1928年)のモデルであったのかも知れない。であれば、その価値は将来もっと上る可能性がある。熊岡、滞欧期の貴重な作品を日本に持ち帰った意義も大きい。作品もきっとその人に大事にされているでしょう。
なんとなれば、やはり責任と金銭にかかわる問題があるからです。もし真贋の判断を間違った場合、その責任は学芸員個人の責任にとどまらず、もっと上の方まで、公立なら学芸課長とか、美術館長とかまで行ってしまう恐れもあるでしょう。
公立だからタダで鑑定して、それで間違ったら、責任を取らされる、それでは堪ったもんではありません。
しかし、鑑定に持ち込んできた人も、数百万円、数千万円の問題ですから、やっぱり黙ってはいない。お金がかかわるとみんな、眼の色が変わってしまうんです。
だから最初から、公立美術館では持ち込みの真贋判断をしないというような美術館が多いのではないでしょうか。
真贋判断をやるとしても、美術館では、怖くて新米の学芸員などに鑑定などさせられない。そもそも大学の美術史の授業や博物館実習などでは、通常、真贋判断など誰も教えてくれませんから。
人気のTV番組でも、その場で瞬間的に判断しているように見えますが、私は、ちゃんとスタッフがいて、微妙な作品については、きちんと下調べをしていると思いますよ。
かなりいい作品とか、よほどダメな作品はその必要もないでしょうが。
でも大体は、数十万から数百万以下の中間の作品が多いでしょう。だから、やっぱり調べてると思うんです。極上の作品も、念のため、一層慎重に調べると思いますよ。TV放送となると、ワン・パターンでも、やはりTV局の責任というものもあるでしょうから、けっこう大変だと思います。
でなければ、時々間違って、米国などなら、簡単に訴訟問題に発展してしまうんじゃないでしょうか。神様じゃないんですから、間違うことだってあるはずです。外国の美術史家や鑑定家だってみんな間違っているんですよ。いや、騙されたといったほうがまだいいんでしょうか。
でもTVの先生方は、度胸がいいんです。一面でチョウかハンかの世界なんです。間違ってしまったなどということは、私は聞いたことがない。そんなとこもないとやっていけない。われわれ学芸員のような慎重すぎて臆病な世界とは違う。
ただ、チョウ、ハンはいいとしても、実際の価格となると、私などは、どんなものかなと思ってしまうこともありますね。
価格は、一桁違うなんてことも、この世界ではおこりますから、他のビジネスの世界の常識が、美術の世界では通じないんです。これは外国でもそうらしいですよ。美術の世界の常識は、他のビジネスの世界では15分と持たないと、外国の専門家がある本で書いていましたから。
学芸員は、臆病、いや慎重な人が多いから、やはり調べるんです。時間もかかるんです。TVのようにあの場だけで、チョウだハンだとは言えない。下調べをするスタッフもいない。みんな自分一人で、自分だけの方法でやるんです。
まあ、美術館によっては先輩から後輩へと何か伝授してくれるところがあるのかもしれませんが、私のいたところでは、そんなことは一切なかった。誰も私に教えてくれなかったし、聞く人もいなかった。
でも幸か不幸か、さっき言ったように、公立の美術館では、多分多くが、持ち込みの鑑定はしないことになっているのではないか。
それをいいことに、勉強しない学芸員がいると困ってしまうし、学芸員の能力が向上しないんです。もっとも、現代美術ばかりやっているような美術館は、あんまり真贋問題は関係ないかもしれない。そんなところは、学芸員の語学力が大事なんです。作家や関係者と仲良くなって、英語やフランス語がペラペラ話せるとか、何とか。それが、学芸員のオーラなんでしょうか?
しかしそうでない美術館では、高いお金を出して、つまり公立だと税金で作品を買うことも、寄贈で頂くこともあるわけですから、一生、真贋を判断しないで済ませるというわけにはいかない。そこでやはり調べるわけです。
一番一般的なのは、作品の由来、来歴を調べる方法です。AさんからBさん、BさんからCさんへと順に遡ってめでたく作者に行きつけば、まずは本物という判断です。
しかし、これにも、落とし穴があって、作者の身近な人が、つまり、来歴の上ではいい線いっている人が、たまたま経済的に困っていて、それで、売れた方がいいから、本当は違うのに、買い手に本物などと言ってしまう場合もありますから用心です。
これは、審美眼の問題とは全く関係がない。誰でもできるんです。ルートを調べていくだけですから。
チョウかハンかの世界は、審美眼の世界です。眼が勝負なんです。でも芸術家でもくだらない作品を作ることがあるから、逆に真贋判断は間違うことがあるんですよ。
作者自身も年とると自分や師の作品を忘れてしまう。冗談でなく似たようなことはあるんです。
だから本人が言っているのだから間違いないというのは、間違いです。
師の作品の真贋を訊かれたある画家が、偽物だといったら誰にも利益が分配されなくなるから、本物だといったほうがまだましだ、みんなのためにも幸せだと考えることもあるでしょう。
鑑定書を何人かの画家の連名で出すというのも、見たことがありますが、これも、それで信用性が増すのかというと、ちょっと疑問なんです。権威付にはいいかもしれないが、右へ倣いで署名に加わってしまう人もいるんじゃないでしょうか。
最初に結論を出す人にはなかなか反対はできない風土もあるでしょうから。それなら、むしろ○、×でいっきに投票させた方がいい。しかし、やっぱり客観的に学問的に研究して結論を出すのが一番いいんです。
そもそも本物を本物と証明するのは難しい。偽物なら、何か1つの決定的な矛盾点を挙げればいいわけですが、本物というのは証明が難しいんです。しかも勇気がいるんです。偽物と思ったら、丁寧に無視するか相手にしなければ、まあ恨まれないけれど、それを公然と言ってしまうと大変なことになりますね。相手が相手だったりすると怖いですよ。名探偵ポワロやコロンボの世界になってしまいますから。
これはとてもずるいやり方ですが、本物の場合もあまり相手にしない。要するにかかわりを持たない。だから本物とわざわざ言うのは、名誉心や自信がある時だけです。これが、安全な世界に住んでいる人の鑑定のやり方です。
しかし、信用の無い場合の骨董商的鑑定は、まるで反対です。
少しでも本物に見えそうなものがあれば、本物にしてしまう、これが原則でしょう。とにかく何とかして美点を見つけて売りたいわけですから。相手が勝手に信じて買ってくれれば、これが一番の理想です。夢や幻想を持たせるのです。考えてみれば悪いことをしているわけではないかもしれない。詐欺になったら別ですが、そこを何とかすり抜けていく。
非常にレベルの高い贋作だと、メ―ヘレンによるフェルメール贋作事件のように、専門家がターゲットになるんです。贋作者は、その分野で最高のレベルの専門家一人を落とせばいいんですから。
専門家は、自分の学説から、こんなフェルメールがあるはずだ、あったらいいなと常日頃思っているから、贋作者はそこを狙えばいい。フェルメールの宗教画があるはずだと。そしてブレディウスという専門家がひっかかったんです。
ちなみに、贋作にひびを入れるのはとても難しいですよ。さて、贋作者は、これをどうやったか。調べると面白いですよ。
それから、「ダヴィデ」という音楽を作った音楽家のオネゲルの子孫が来歴づくりに利用され、そんなこともあって、ミケランジェロの贋作に騙された有名な専門家もいます。
F.ハートですね。学生時代、私などその本を読んだことがありましたけれど、そんな権威者が後に贋作事件に巻き込まれるとは思ってもいませんでした。1987年の時点で起きた事件です。そんなにまだ古くない。それでも、学者は、来歴がいいと、ころっと騙されてしまうんです。
日本でもNHKでも放送されたような、有名なある画家の贋作騒ぎがありました。学者は、下手くそな絵でも、先入観無しが建前ですから、こんな作品があってもいいかなと思ってしまうんです。
葉書や日記などと一緒にそれがでてきて、権威者の序文を付けてそれをまとめたものが先に本になってしまう。ここまで来ると別の専門家もそれにつられていく。そして、絵の方もそうした専門家がまず信じてしまう。しかし、実はその葉書や日記の方も、もともと根拠のないものだったようです。
さて、贋作者の手口としては、画像の合成・分解ということがありますね。これは本物の一部だけを取り出して贋作を作る方法です。全体をまねたような作品だとすぐに贋作とわかるのですが、一部だとなかなか気づかない。また複数の本物から部分を寄せ集めて贋作を作ることもよくあります。
贋作者は、基本的に想像力がないから、こういうことをよくやるんです。
一番安直な贋作は、古そうな作品をどこかから見つけてきて、それに作者名だけを入れ替えて高く売る方法です。例えば、遡っていくと、すでにネット・オークションの段階で作者名が入れ替えられ、安く買われた作品があったとする。それがいつの間にか、お店を構えた画商から高い値段で売られるようになる。
それに近い例で、私が知っているある作品は、その後、公立美術館の展覧会にも出品されました。そうすると、それがますます本物になってしまう。つまり、本物は作られるんです。でも私の眼から見るととうてい本物とは思えない、そんな作品でした。
もちろん、誤解のないように言っておきますが、ネット・オークションで掘り出し物が出ることもあるようですね。例の人気のTV番組で中国の古い唐時代の焼き物が出てきました。作品の所蔵者は、それをネット・オークションで買ったと言っていましたよ。この時は、見ていて驚きましたね。
最後に、つくばの公務員の方で、パリの蚤の市から油絵を買ってきた例を紹介します。まだ、スマート・フォンも今ほど性能もいいポータブルPCもない時代の話です。
これは、私がつくば美術館にいたとき、自分の研究のために作品を見せてもらい、結果的に、本物と口頭で鑑定してあげた例です。もちろん無料です。
それは石岡出身の有名な画家、熊岡美彦の作品でした。1927年の年記のある作品で、外国人モデルの女性の半身像でよく完成されていました。
これは直観的に本物と鑑定した例です。この絵を買ってきた人は、「クマオカ ヨシヒコ」の署名がある作家がどういう人か全くわからなかったそうです。
ただ、パリに、日本人の署名の絵があったので、ひょっとしたらそれなりの人かもしれないと思い、思い切って買ってきたそうです。
買った人はとても勘のいい人でした。しかも運もいいと私は言ってあげました。
「あなたは、今つくばに住んでいて、しかもごく近くの石岡出身で、中村彝の次に有名な茨城の代表的な画家、熊岡の絵をパリで偶然手に入れたのだから、とても当地に縁があるし、運がいい」こう言ってその人を祝福してあげたのです。さぞやパリと茨城のよい思い出となったことでしょう。
真贋問題の話は、たいてい夢の無い、暗い話に終わりがちなのですが、きょうは<祝福>ということばで話が終われそうなので、私もよかった。
さて、今思うに、あの外国人モデルは、熊岡の代表作の1点、「裸体」(1928年)のモデルであったのかも知れない。であれば、その価値は将来もっと上る可能性がある。熊岡、滞欧期の貴重な作品を日本に持ち帰った意義も大きい。作品もきっとその人に大事にされているでしょう。