ポーラ美術館の中村彝の作品「泉のほとり」は、かつてルノワールの模写作品とされていたが、そうではない。
そのことは、『繪』の編集者であった熱田氏が小生の論考に目を留め、その表紙解説で紹介してくれたことがあった。
この作品、いかにもルノワール晩年の裸体群像を思わせる色調と構成を持っているように見えるので、模写と言われるとその原作を確かめることなくそう信じてしまいそうだが、この原作を確認した人はいない。
ただ、三人の裸体のポーズを分解してみると、似たようなポーズのルノワール作品が複数点確かめられる。
彝がルノワールのそうした作品を知っていてそれらをこの作品上に合成したとまでは言えないが、ただ、泉の水を汲んでいる女性立像の上半身のポーズは、彝が明らかにそのオリジナル作品を実際に見ていた大原美術館のルノワール作品「泉による女」の上半身のポーズに似ているし、ルノワールのこの作品における薄衣を置いた下半身部分は、「泉のほとり」の右側に座っている女性の下半身に反映されていると言えなくもない。
いずれにせよ、彝の「泉のほとり」は、ある特定のルノワール作品の模写ではない。
しかし、この彝の作品が制作されていた大正9年、彼がルノワールに改めて夢中になっていたことは間違いない。この年11月11日の洲崎宛書簡にこうある。
「ねて居ても例の裸体の『コンポジション』が描いて見たくて堪らないので、四五日前たうとうぬすむやうに床から匍ひおきて、15号の『カンバス』に三人の群像をやり始めました。…描く絵が想像画ですからいい絵には到底なり相もないのですが、それでも…心が実に愉快です。」
この書簡に触れられている作品こそ「泉のほとり」であり、他にそれらしい作品は存在しないから、これによっても、この作品がルノワール作品の模写でないことは明らかだろう。それは三人裸体の群像によるコンポジションであり、15号の大きさの「構想画」なのだ。
彝のこの「構想画」については、大正13年1月8日今村宛書簡がその主題について触れているので注目されよう。
「昨晩の絵の裸体の方は『泉』と題する絵で、数年前に描いて未成の儘になっていたものです。素戔嗚命に題をとって勝手に想像で描いたものです。」
そして、今村繁三は彝のこの作品を所有することになった。
そのことは後年、森口多里の『中村彝』の図版に載せられた作品の所蔵者名から確認できる。
さて、三人の女性裸体群像が素戔嗚命に題をとって描いたとあるが、実際、『古事記』なり『日本書紀』なり、どういった場面から彝が絵の主題を取ったかはこれまで言及されていなかったのではないか。
それは、彝が女性の裸体画像を描くための口実であって、あまり重要な問題ではないと考えられてきたから深くは探究されなかったためだろう。
実際、三人の裸体女性に関する記述を記紀の特定場面から拾ってくるのは難しいのだが、素戔嗚に関連する三女神の記述は見出せるので、ここでは、それを紹介しておこう。
すなわち「田心姫(たごりひめ)」、「湍津姫(たぎつひめ)」、「市杵島姫(いちきしまひめ)」の宗像三女神である。
彼女たちは、素戔嗚の姉である天照大神が、「うけい」により、彼の剣を口の中に入れ、噛み砕いて霧として吐き出されたところから生まれてきたという。
素戔嗚命に関連する三女神と言えばまず、彼女たちなので、彝は、日本古代における玄界灘の女神たちである彼女たちを口実として裸体画を描いたのだろう。その程度までは言える。
それなら、背景の小さく描かれた二人の男性は誰か。これは分からない。
一方は両手を広げて活動的なポーズで描かれ、他方は座り込んで対照的に孤独なポーズをとっている。
いずれかが素戔嗚命なのだろうか。
それともそれは素戔嗚の二面性を表現したものなのだろうか。分からない。
もとより明確な意味内容が盛り込まれているとは必ずしも言えないのかもしれない。それは三柱の女神たちの場面についてもそうだ。
これが、彝が「勝手に描いた」という「構想画」の絵画作品における主題の探究の限界なのだ。
≪追記≫
彝の「泉のほとり」については、その発想の源泉としてプラド美術館にあるルーベンスの「三美神」も挙げられよう。
彝がこの作品を、カラーの複製画によって知っていたことは明らかであり、その左側の女性のみを取り出して彼が描いた自由な模写の小さな作品がある。
だが、色調や筆法はルーベンスから完全に離れたより近代的なもので、しかも一人だけ切り離されていたため、彝のこの小品に見られる「R.に鼓吹されて」の書き込みは、RenoirのRと私自身解釈したことがあった。
が、これは前にこのブログでも書いておいたように、ルーベンスのR.の意であることは、裸婦の形象から明らかなのである。
彝が見たルーベンス「三美神」のカラーの複製画は、私がそのR.をルノワールでなく、ルーベンスのR.と訂正した後、数年を経て、鈴木金平氏の遺族のもとから彝の遺品として発見された。