歳をとるに従い、生きていくだけでも大変だという実感がますます強くなるのは私だけか?
多くの場合、学者は参考書としての1冊の本を隅から隅まで読んでいるわけではない。最初から終わりまで鑑賞するようには精読していない。索引などを使って関連のある箇所をじっくり読むが、全部読んでいないので、他の箇所に書いてあるその本の重要な部分に気付かないことが結構ある。
「回帰」というのも(西洋)音楽の基本的原理かもしれない。始まりの音に戻り、終止感、安定感を獲得する。始まりの旋律やリズムへの「回帰」もある。とにかく何らかの意味で「回帰」すること。
読んでみたい本→今尾恵介、地名の楽しみ、ちくまプリマー、860。大塚ひかり、本当はエロかった昔の日本、新潮社、1,400。佐々木譲、武揚伝 上中下、中央公論新社、各2,300。
昨日の新聞から→冬の痒み、かきたいときは別の行動を。何かに集中し、夢中になっている時、人はかゆみを忘れる。強いかゆみを訴える人は、家庭や仕事などで強いストレスを感じている人が多いという。
富の社会還元が高い税率など政府による強制力ではなく、勝者自らの意思でなされると人々が考える点が、米国では重要であったと猪木武徳氏が昨日の新聞で述べていた。それは単なる税金逃れや偽善でなく一方的な贈与でもない。人々がそう考えることによって成功者たちは憧れの対象となってきたのだが…
もし生まれながらの能力や家庭環境だけで競争の勝敗が決まるなら勝者が特に祝福されることはない。しかし経済競争には社会環境やそれに左右される運の要素も入り込んでくる。つまり獲得した富は独力で得たものではないということを認める風土があったのだが…と猪木武徳氏。
アメリカ社会では伝統的に競争の勝者には拍手を送り、嫉妬するものは軽侮されるという美風があったと、猪木氏。なぜなら彼らは生まれながらの能力や家庭環境だけではなく、運やその時代の社会環境という人間がコントロールできない要素も克服してきたからだと人々が認め合い、信じてきたかららしい。
芸術家は世俗の価値に無頓着で人々の評価など全く意に介さないというようなイメージがある。
しかし芸術家という職業ほど人々に強烈に認められたがっている職業も少ないのではないか。
稀には世俗の価値や評価に無頓着な人もいるが、彼も人間である限り何らかの方法で食べているのは確かなのだ。
@Lumiere1874
今日ほど情報化社会でなかった頃は、手に入る本や論文の数も少なく結構、全体を通読、精読することもありましたが、今は、多量の文献や論文を容易に入手できるようになり、索引や検索などを利用して、かえって断片的に読む傾向が強くなったように思います。
情報化社会になって音楽の聴き方も変った。バッハのマタイ受難曲は至高の作品であるが、本当に聴いている人は少なかった。傑作であるのは知っていても聴けなかった。聴きたくともCD 3枚組み(私の時代はLPレコードだったが)を買うお金もなかった。だが今やパソコンで部分を、断片を聴いてそれで満足してしまう聴き方も出てきた。
検索をして、知識が断片化してしまうことや、無駄な時間を費やしてしまうこともあるが、検索自体が悪いわけではないことは自明だし、この小池さんの言うようなことも確かだなと思う。 twitter.com/koikekazuo/sta…