メソッドといえば方法。
転じて方法論。
演劇では「スタニスラフスキー・メソッド」が有名。
ロシアの俳優兼演出家にして、演技にも文法があるのだとシステムを書き上げた人。
難しくってよくわかりませんが…
そのメソッドを独自の形に発展させたのがリー・ストラスバーグ。
彼と同時期に演劇方法論を作り上げたのは、
他にステラ・アドラー、サンフォード・マイズナーって人もいるそうです。
ストラスバーグは心理的な面
アドラーは社会学的な面、
そしてマイズナーは身体運動面を開拓したといえるそうです。
(書いていてもよくわかっちゃいませんが)
日本で有名なのはストラスバーグですね。
彼の創設したアクターズ・スタジオも。
かのジェームズ・ディーンやマーロン・ブランドも
あそこの出身じゃなかったっけ?
アプローチ方法の中で重要とされているのが、
「リラックス」「集中」「情緒的記憶」。
「演技にはリラックスすることが重要」と語られることが多くあります。
リラックスしながらも集中するそれがリアリティのある芝居に繋がるのだとか。
身体的なリラックスは比較的容易でも、
心理的にリラックスするのは難しいのだともあります。
また「演技の源が個人の過去の経験や情緒的な記憶などにある」ともしました。
アドラー女史のメソッドの基本は、「想像力」です。
「想像する力が創造する力になる」と言っています。
舞台上の出来事の99%は想像力から生まれると考えたのです。
自分の記憶する経験からではなく想像力を使えっていうことらしいです。
これは使えって言われても、難しいですよね。
そこでエクササイズとして、「置き換え」「言い換え」をレッスンしたそうです。
もちろんちゃんと戯曲に書かれている社会的時代的背景は学びます。
その上で想像力を働かせ、イメージを浮かべていくのだとか。
それはリアルさからは離れるかもしれません。
しかし「リアルなものは演技を制限し、不自由にする」こともあるそうなのです。不自由で死んだ芝居をするくらいなら、
リアル追求から離れても自分の中に取り込むのも必要としたようです。
また女史は台詞を言い換える練習もしたそうです。
「作家の理念を取り出し、俳優の言葉に置きかえ、俳優のものにすること」が目的で、
それによって、なぜ自分は演じるのか、自分が舞台に立つことの正当性を理解させるためです。
そのためには台詞は台本通りにという定法も無視です。
これは作品の意図を理解した上でしか成り立ちませんが…
物語の筋から逸脱せずに言い換えるなんて、そうでなければできません。
根っこがしっかりしていないと、イメージなんて生まれません。
脚本から想像力だけで頭の中で映像化なんてできないのです。
この想像こそが、台本への理解を深め、
よりリアルへと導かれる力だとしています。
マイズナーは同じ舞台に立つ俳優間の関係性を重要視したそうです。
俳優同士の演技の共鳴によって、より素晴らしい演技をひきだせると。
と、ここまで書いてきましたが、
お気づきの通り、ただ単に本を読んだだけの付け焼刃です。
それもあまり理解できなくて斜め読みしたのです。
『二十世紀俳優トレーニング』アリソン・ホッジ編著という本ですわ。
しかも図書館で借りてるし…
要は頭でっかちなのですね。
しかも自分の都合の良いようにしか解釈してません。
そう、緊張感を持ちつつもリラックスするという某俳優さん。
脚本を自分の中で映像化して記憶していく某俳優さん。
その映像を監督の意思に合わせるために横に置いておくこともできる某俳優さん。
その演技法は演劇界でも認められているものと大差はないのだと書きたかっただけなんっす。
何よりも想像力は創造力。
これが当てはまりまくると思うのですがっ!
自分の頭でっかちさが辛くもあります。
自分で書くのもなんですが、私は乱読型の読書家ですの。
最近でこそハーレクインなんぞを愛好したりもしますが。
いろんなジャンルを若いうちから読みまくりました。
中学生で太宰に嵌るなんていう青いこともしてましたわ。
わけもわからんくせにね。
それは今でもだと思ってますが。
だから読書が最高だと思っていません。
それよりも実地が最高だと思います。
読書は語彙を豊かにして、表現や方法論は学べるでしょう。
でもそれは所詮、机上にすぎないと身をもって感じます。
他人の表現、他人の言葉よりも、
自分の表現、自分の言葉だと思うのです。
「本ってほとんど読まないんだよね。」っていう某俳優(しつこい?)の発言から、彼に読書を薦める人は多いです。
彼の発言が時に立て板に水ではないから、読書は必須であるという人もいます。
私も読書はしないよりはしたほうがいいと思います。
しかし、あくまで彼の琴線に触れた本でなければ意味がないと思います。
技術を学ぶための読書など、あの輝く個性には必要がないと思うのですが?
ちと思いだしたのが、『GL』の時の『日経エンタ』での編集後記。
某俳優(もういいって!)にインタビューした編集長の感想。
「思っていることを抽象的に話す感性型の人」だと思っていたが、
「しゃべったことが文章になる活字型の人」だとわかって驚いた、と。
話が具体的でわかりやすく、論理展開も明解だと。
言葉選びのセンスも非凡である。
小説家になっても素晴らしい作品が書けるのでは、とあります。
木村っち(もう“某”は止めます)のテレビでの発言に呆れている人には信じられないかもしれない。
でも、生放送だと特にだけど、彼は自分の発言の扱われ方の特異性を嫌程わかっているのではないかしら?
現にモナコでの“アホ”発言が一人歩きしているし。
私はあの表現は凄く好き。
あんな市街地のコースでF1レースしてるんだもん。
しかも、町中にアホほどのお金持ち大集合なんだもんね。
アホみたいに現実離れしているんだけど現実。
笑ってアホっていうしかないじゃん?
それを切り取って批判するのはセンスがなさすぎ。
過敏になりつつも自分の言葉で発言する。
そんな彼は凄いって思う。
って、またファンの欲目ですかぁ?
頭でっかちの文章で失礼しました。
転じて方法論。
演劇では「スタニスラフスキー・メソッド」が有名。
ロシアの俳優兼演出家にして、演技にも文法があるのだとシステムを書き上げた人。
難しくってよくわかりませんが…
そのメソッドを独自の形に発展させたのがリー・ストラスバーグ。
彼と同時期に演劇方法論を作り上げたのは、
他にステラ・アドラー、サンフォード・マイズナーって人もいるそうです。
ストラスバーグは心理的な面
アドラーは社会学的な面、
そしてマイズナーは身体運動面を開拓したといえるそうです。
(書いていてもよくわかっちゃいませんが)
日本で有名なのはストラスバーグですね。
彼の創設したアクターズ・スタジオも。
かのジェームズ・ディーンやマーロン・ブランドも
あそこの出身じゃなかったっけ?
アプローチ方法の中で重要とされているのが、
「リラックス」「集中」「情緒的記憶」。
「演技にはリラックスすることが重要」と語られることが多くあります。
リラックスしながらも集中するそれがリアリティのある芝居に繋がるのだとか。
身体的なリラックスは比較的容易でも、
心理的にリラックスするのは難しいのだともあります。
また「演技の源が個人の過去の経験や情緒的な記憶などにある」ともしました。
アドラー女史のメソッドの基本は、「想像力」です。
「想像する力が創造する力になる」と言っています。
舞台上の出来事の99%は想像力から生まれると考えたのです。
自分の記憶する経験からではなく想像力を使えっていうことらしいです。
これは使えって言われても、難しいですよね。
そこでエクササイズとして、「置き換え」「言い換え」をレッスンしたそうです。
もちろんちゃんと戯曲に書かれている社会的時代的背景は学びます。
その上で想像力を働かせ、イメージを浮かべていくのだとか。
それはリアルさからは離れるかもしれません。
しかし「リアルなものは演技を制限し、不自由にする」こともあるそうなのです。不自由で死んだ芝居をするくらいなら、
リアル追求から離れても自分の中に取り込むのも必要としたようです。
また女史は台詞を言い換える練習もしたそうです。
「作家の理念を取り出し、俳優の言葉に置きかえ、俳優のものにすること」が目的で、
それによって、なぜ自分は演じるのか、自分が舞台に立つことの正当性を理解させるためです。
そのためには台詞は台本通りにという定法も無視です。
これは作品の意図を理解した上でしか成り立ちませんが…
物語の筋から逸脱せずに言い換えるなんて、そうでなければできません。
根っこがしっかりしていないと、イメージなんて生まれません。
脚本から想像力だけで頭の中で映像化なんてできないのです。
この想像こそが、台本への理解を深め、
よりリアルへと導かれる力だとしています。
マイズナーは同じ舞台に立つ俳優間の関係性を重要視したそうです。
俳優同士の演技の共鳴によって、より素晴らしい演技をひきだせると。
と、ここまで書いてきましたが、
お気づきの通り、ただ単に本を読んだだけの付け焼刃です。
それもあまり理解できなくて斜め読みしたのです。
『二十世紀俳優トレーニング』アリソン・ホッジ編著という本ですわ。
しかも図書館で借りてるし…
要は頭でっかちなのですね。
しかも自分の都合の良いようにしか解釈してません。
そう、緊張感を持ちつつもリラックスするという某俳優さん。
脚本を自分の中で映像化して記憶していく某俳優さん。
その映像を監督の意思に合わせるために横に置いておくこともできる某俳優さん。
その演技法は演劇界でも認められているものと大差はないのだと書きたかっただけなんっす。
何よりも想像力は創造力。
これが当てはまりまくると思うのですがっ!
自分の頭でっかちさが辛くもあります。
自分で書くのもなんですが、私は乱読型の読書家ですの。
最近でこそハーレクインなんぞを愛好したりもしますが。
いろんなジャンルを若いうちから読みまくりました。
中学生で太宰に嵌るなんていう青いこともしてましたわ。
わけもわからんくせにね。
それは今でもだと思ってますが。
だから読書が最高だと思っていません。
それよりも実地が最高だと思います。
読書は語彙を豊かにして、表現や方法論は学べるでしょう。
でもそれは所詮、机上にすぎないと身をもって感じます。
他人の表現、他人の言葉よりも、
自分の表現、自分の言葉だと思うのです。
「本ってほとんど読まないんだよね。」っていう某俳優(しつこい?)の発言から、彼に読書を薦める人は多いです。
彼の発言が時に立て板に水ではないから、読書は必須であるという人もいます。
私も読書はしないよりはしたほうがいいと思います。
しかし、あくまで彼の琴線に触れた本でなければ意味がないと思います。
技術を学ぶための読書など、あの輝く個性には必要がないと思うのですが?
ちと思いだしたのが、『GL』の時の『日経エンタ』での編集後記。
某俳優(もういいって!)にインタビューした編集長の感想。
「思っていることを抽象的に話す感性型の人」だと思っていたが、
「しゃべったことが文章になる活字型の人」だとわかって驚いた、と。
話が具体的でわかりやすく、論理展開も明解だと。
言葉選びのセンスも非凡である。
小説家になっても素晴らしい作品が書けるのでは、とあります。
木村っち(もう“某”は止めます)のテレビでの発言に呆れている人には信じられないかもしれない。
でも、生放送だと特にだけど、彼は自分の発言の扱われ方の特異性を嫌程わかっているのではないかしら?
現にモナコでの“アホ”発言が一人歩きしているし。
私はあの表現は凄く好き。
あんな市街地のコースでF1レースしてるんだもん。
しかも、町中にアホほどのお金持ち大集合なんだもんね。
アホみたいに現実離れしているんだけど現実。
笑ってアホっていうしかないじゃん?
それを切り取って批判するのはセンスがなさすぎ。
過敏になりつつも自分の言葉で発言する。
そんな彼は凄いって思う。
って、またファンの欲目ですかぁ?
頭でっかちの文章で失礼しました。