
今日は3/11。
忘れもしない2011/3/11、14:46から丸5年経ちました。
1995年1月17日の時もそうでしたが、第一報はとかく数字が小さい。
5年前のブログを見ると、当初は死者60人とか100人とか言われていたようです。
地震による建物の倒壊、圧壊は1995年に経験していたわけですが、
これだけ大規模な津波災害は誰も予想していなかったと思われます。
最近は津波もさることながら引き波の恐ろしさが言われていますが、
あれだけすごいのが来ると、どっちがどうのというレベルではありません。
死者行方不明1万6千人を超え、宮城県だけでも1万人超。
その9割が溺死でした。
これは、死者の3/4が圧死だった阪神淡路とは大きく異なります。
風化風化と言いますが、忘れたくても忘れられないのが大災害。
未だに原発の廃炉の目処もついていない状態で忘れるわけがありません。
夜遅く、息子が会社から帰ってきました。
当然公共交通は止まっており、10kmほど歩いて帰ってきました。
娘の方は職場まで自転車通勤だったのでその苦労はなかったようでした。
道路は大渋滞でとても車での移動はできなかったようです。
道路そのものは大きな被害なく、建物や電柱がが倒れ込んでいるわけでもなくても
そうですから、これが損壊などで通行不能状態ならどうなっていたかわかりません。
幸か不幸か、1995年は社会党党首を首相とした自さ社連立政権で、
2011年は民主党を中心とした民社国連立政権から社会党が抜けた民国連立政権。
個人的には初期対応のまずさが被害を拡大させたと思っています。
(両方とも当時のトップは後になって対応は間違っていなかったと言っていますが)
日本の行政は官僚機構がしっかりしているから首がすげ変わっても大丈夫、とは
よく言われたことですが、緊急時にはトップダウンのリーダーシップが大事ということ、
シン・ゴジラでなくてもようくわかりました。
と、過去の自ブログ、自HPなどを読み返しながら、思い起こしているところです。
今日に戻ると、今朝の撮影時刻は7:35頃でした。
8時の気温は6度、湿度45%、北の風2m/s。
PM2.5は12μg/立米、SPMは14μg/立米でした。
忘れもしない2011/3/11、14:46から丸5年経ちました。
1995年1月17日の時もそうでしたが、第一報はとかく数字が小さい。
5年前のブログを見ると、当初は死者60人とか100人とか言われていたようです。
地震による建物の倒壊、圧壊は1995年に経験していたわけですが、
これだけ大規模な津波災害は誰も予想していなかったと思われます。
最近は津波もさることながら引き波の恐ろしさが言われていますが、
あれだけすごいのが来ると、どっちがどうのというレベルではありません。
死者行方不明1万6千人を超え、宮城県だけでも1万人超。
その9割が溺死でした。
これは、死者の3/4が圧死だった阪神淡路とは大きく異なります。
風化風化と言いますが、忘れたくても忘れられないのが大災害。
未だに原発の廃炉の目処もついていない状態で忘れるわけがありません。
夜遅く、息子が会社から帰ってきました。
当然公共交通は止まっており、10kmほど歩いて帰ってきました。
娘の方は職場まで自転車通勤だったのでその苦労はなかったようでした。
道路は大渋滞でとても車での移動はできなかったようです。
道路そのものは大きな被害なく、建物や電柱がが倒れ込んでいるわけでもなくても
そうですから、これが損壊などで通行不能状態ならどうなっていたかわかりません。
幸か不幸か、1995年は社会党党首を首相とした自さ社連立政権で、
2011年は民主党を中心とした民社国連立政権から社会党が抜けた民国連立政権。
個人的には初期対応のまずさが被害を拡大させたと思っています。
(両方とも当時のトップは後になって対応は間違っていなかったと言っていますが)
日本の行政は官僚機構がしっかりしているから首がすげ変わっても大丈夫、とは
よく言われたことですが、緊急時にはトップダウンのリーダーシップが大事ということ、
シン・ゴジラでなくてもようくわかりました。
と、過去の自ブログ、自HPなどを読み返しながら、思い起こしているところです。
今日に戻ると、今朝の撮影時刻は7:35頃でした。
8時の気温は6度、湿度45%、北の風2m/s。
PM2.5は12μg/立米、SPMは14μg/立米でした。
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