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鉄道模型のある生活ブログ(旧)

鉄道模型にかぎらす、なんでも書いてしまいます。

第63回 HNモジュール 運転会 その2 ダイヤ運転

2025年02月28日 | HNモジュール

我々の運転会の特徴は、運転ダイヤに沿って運転をすることです。

線路が単線でエンドレスではないので、走らせる手段、すなわちダイヤを組まないと全線での走行は無理なので、必然的にダイヤ運転が必要なのです。

皆さん持ち場について運転しています。 まじめでしょう?

あらかじめ持ち場を決めていますが、普通には自分の駅の操作はその人がするのですが、誰でもどこでも操作できるように、この日は駅の操作は持ち主と違う人が操作します。

 

駅の係はPポイントの切り替えと、右、左のコントローラーを駅のどちらのホームに切り替えるかSの操作をします(キャブ切り替え)。

この操作は、右と左と両方から列車がくるので、パニックになったりして難しいのです。 駅で止まると運転台切り替えとポイントを操作してお互いの列車がすれ違って発車できるようにします。 結構難しい。

運転士はそれぞれの列車を走らせて駅で停車させます。そして、時間が来ると走らせますが、それまでに自分が運転してきた車両と違う車両になり、方向も反対になります。 ときどき、反対方向、走ってはいけない方向に走らせてしまって、誰かが手で止めたりして。 

 

ポイント係、 もう真剣そのものです。 ポイントの切り替えキャブの切り替え、それをダイヤを見ながら行うのですが、車両を見てダイヤを見るともう何が何かわからない。

 

縦が時間軸で横が路線です。 この日のダイヤはとてもシンプルです。 路線にY字の分岐がないからです。

でも、一度目を離すといったいどこなのかわからない。

 

運転士の運転区間と、駅のポイント係を示します。

右側で説明すると、かや桃駅のポイント係は政さん、私ですが、実は終着駅は簡単なのです。

そこから長駅までの区間(茶色)の運転は洋さん。 そして、長駅のポイント係が淳さんです。

長駅から遠側駅までの区間(紫)運転が貴さん、とこのようになっています。

長駅ポイント係の淳さんは、茶色区間から来る列車と紫区間から来る列車を別々のホームに入れて、両方が止まったことを確認してから、今度は反対方向に走れる様にポイントの切り替えと、茶色と紫のキャブの切り替えを行います。

 

まあ、文で書くと難しいのですが、実際には右から来る列車と左から来る列車をすれ違いさせれば良いだけなんですけれど、慌てるとパニックになるという事。

 

右と左の人が駅のポイント係、真ん中の人がその区間の運転士。 

ね、エンドレスで走らせっぱなしの運転と違うでしょう?

 

この日はメンバーが少なかったので、受付のお嬢さんも運転士として駆り出されました。 初めは案の定、逆方向に走らせたりしていましたが、すぐに慣れて運転士気分を満喫した様です。

 

ダイヤ運転は1日のうち数回だけですが、お客さんが来た時にはその対応に忙しいのであります。

文化芸術ホールなので、他のイベントがあってそれが終わった時には山の様にお客さんが来たりしました。

 

つづく

 

 

 

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第63回 HNモジュール 運転会 その1

2025年02月27日 | HNモジュール

2月24日に HNモジュールの運転会を行いました。

ひらかた総合文化芸術センターの大舞台ではなくて、創作活動室と言う小さな部屋です。

会場入り口です。 ど真ん中にあるのが私の荷物。 モジュール2台ですが、これぐらいの荷物になります。

両側にあるのは他の方のモジュールで、ケースがしっかり作られていることがわかります。

こうやって積み重ねて運ぶので、しっかりしたカバーは大事です。

 

当日の綿密なスケジュール表がありまして、それに沿って組み立て、試運転などが行われます。

スケジュールの時間通りに行うのは難しいのですが、そのような予定表があると、何かにつけスムーズです。

 

参加したモジュールを紹介します。 

 

分岐の駅です。 この日は終着駅として使用しました。 下に出ているコードを見ると、やはりポイントがあるモジュールにはかなりの配線がいると言うことがわかります。

 

お隣は、禅寺と神社がある情景です。 寺には鐘がなる仕掛けもあります。

 

これはガンダムのお立ち台。 モンスターの様なものも立っていますが、私にはわからない。 これを見たお客さん、(模型のフィギュアではなくて、)生身のお客さんたちはわかっていた様でした。

 

駅名は分割駅 持ち運びしやすい様に分割できるだけではなくてアイデアいっぱいの駅です。

 

続いて、ニースの海岸。 そしてメルクリンが走る「メルクリン」モジュールがあります。 メルクリンは自動運転で常に動いているので目を惹きます。

 

大きな駅です。 遠側駅と言います。 いくつかのモジュールでできています。

 

遠側駅の端には分岐があって、こちら側は雪景色を作ろうとしている様子です。

 

カーブしているモジュール。 これが大事です。カーブがないと壁に突き当たるので。

 

風車のあるオランダの風景。 風車は回転します。

 

TMSの表紙にもなった、長駅。 その向こうに天井川のモジュールが見えます。 そのモジュールもTMSの表紙です。

 

小さな駅のモジュール。 これとか他のモジュールを、大雪の新潟から車で持ってこられています。

 

吊り橋のモジュール。 これもTMSの表紙になっていますが、裏から写してしまいました。

 

最後は加悦桃駅です。 これもTMSの表紙になったか、ならなかったかも。 HNモジュール最初の作品です。

 

そしてDCCコントローラーのZ21と向こうにHOの小さなレイアウトもあります。

 

こういうモジュールを使ってどうやって遊んでいるのかを紹介してゆきます。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

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あー 忙しい

2025年02月26日 | 雑談

あー忙しい、ブログを書く暇がございません。 80歳になってなんでこんなに忙しいのだろう。

宇治です。 宇治橋からJR

 

朝霧橋からJR

 

 

 

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80歳になりました

2025年02月23日 | 鉄道模型全般

私、昨日 80歳になりました。

歳はとりたくないけれど、何故か毎年確実に年齢が上がり、ついに80歳。何をするのもしんどいし、体のあちこちが痛いし、、

ということで、昔話が多くなり昨日も書いたのですが、今日は模型関係。

 

鉄道模型は10歳ごろにはやっていたので、もう70年も鉄道模型人生をやっているんだ。

思えば色々な大きさの模型を触りました。

初めはOゲージからです。 ブリキのB型のデッキ付きの電気機関車。 モーターも買えないので手で押してでありましたが、そのうちにモーターもつけて、友人の家の大きな座敷でブリキの線路を敷いて、ぶっ飛ばす。 交流なのでスロットルを戻しても惰性で走る。 まあ、ダイナミックなこと。 

そしてぶっ飛ばしてはカーブで線路から飛び出して、畳の上を転がってゆく、機関車を手で掴んでまた線路に乗せて飛ばす。 いや〜走らせるのが面白かった。 なんと言っても大きいのでダイナミックでした。 それに比べて今の子供はかわいそうです。Nゲージみたいな小さな物でしかも精密、これではダイナミックな感覚は生まれない。 

今までに触ったゲージは大きい方から、2番ゲージ、1番ゲージ、LGB、Oゲージ、Oナロー、ハーフO(HO)、HOナロー(HOn3,HOe)、TT、N、Z  などなど、何か抜けているかもしれないけれど、Tゲージ以外のほとんどです。

 

Oナローの上海市電です。 

 

コントローラーの制御方式では、AC、メルクリンAC、DC、トランジスタースロットル、メルクリンディジタル、DCC  いろいろ使いましたと言うか今でも使っています。 昔はコントローラも自作しました。セレン整流機で直流にしてレオスタットで速度コントロールです。 低速がうまく走る様に、SCRを使ったり、実物の感じで速度が上がるトランジスタースロットルなど。

トランジスタースロットルです、2SCなんとかとか言うパワートランジスターを使っています。 電源コードも箱の中に収まる様に工夫してあります。

 

初めて作ったまともなレイアウト、駿遠線でもトランジスタースロットルを使いました。 真鍮色のマスコンが見えるでしょう?  これは大失敗。 トランジスタースロットルは問題ないのですが、車両が悪い。集電が良くて、まともに走る車両でないと、この方式は無理でした。

 

一方レイアウトは

この駿遠線をはじめとして、Nゲージのレイアウトをいくつか作りかけては壊し、完成したのがスイスの情景のゴルナグラートバーン(N)です。

オリエント急行が走る本線と、RhBを模した山岳線。  背景のユングフラウは水彩絵の具で手書きです。

こういうレイアウトが家にあると、見ているだけでも爽快になります。

 

この後、メルクリンHOでレイアウトを作って、それから2線のHOでとか、作ったレイアウトは数知れずで、もちろん日本の景色もあればドイツその他の景色や、パイクの小さいものまでもう覚えていないほどです。 今も家にいくつもレイアウトがあります。 棚の中に入る小さいものもあります。

 

車両はと言うと、スクラッチビルトやキット組み立てもたくさんあります。

60年ほど前に真鍮板から切り出してスクラッチビルトで作ったC57です。 最近これを家の狭いレイアウトで走るように急カーブ対策をして(R360を走れる)、さらに最新のサウンドDCCを積んで、発煙装置もつけてドラフト音をさせながら煙を出して、汽笛も鳴らして走る。

 

しかし完成品を買うことの方が多い、好きな車両をお金で買えるし走りも良い。 

日本型だけではなくて、ドイツ、スイス、オーストリア、イタリア、フランス、ベルギー、オランダ、ノルウエイ、それからアメリカやイギリスもある。 まあ、断捨離で、かなり手放していますけれど。

 

ライオネルのカブースもあるんです。 3線式でローラー型の集電シューがついています。

ということで、車両でもレイアウトでも日本型しかやらない人の気がしれない。 

ホンダがバイクから車を作り始めた頃、F1に出始めた。まだまともに4輪を作れない頃だ、その時に

「ヨーロッパやアメリカ行ったことがないと、N360の考えは浮かんでこない、ヨーロッパでミニを見たからNが生まれた。 F1で世界を見ることが大きな財産になった。」というようなことをテレビで言っていました。

今どき簡単にヨーロッパに行けるのに、ネットで簡単に画像や映像が見られるのに、まるで、和服を着て箱膳で飯を食べて、洋食などもってのほかだと言う様な、日本型しかしない模型人が多いのは、やはり鎖国の国の人間だなと思ってしまうのです。 若者よ、世界に出よう! いや、中年、高年も世界に出よう!

 

こういう模型経験をしてきたことで、私の模型感が形成されています。 そこで、上から目線の物言いになるかもしれませんが、年寄りの戯言を聞き流していただきたい。

家に来た人から模型を見て、すごくお金を使ったでしょうと言われますが、使える範囲でしか使っていません。 ただの地方公務員でしたので、給料は普通です。 家も小さな家です。

 

私の、鉄道模型の理念は

「家庭で走らせよう」

 です。 

 

⭐︎   明日24日はHNモジュールの運転会です。

 興味のある方はおいでくだだい

  場所: 大阪府枚方市  京阪電車 枚方市駅 徒歩5分

      枚方総合文化芸術センター  創作活動室

  時間: 一般公開 11時頃から2時半頃  昼食休憩あります。

      無料です。

 

 

 

 

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私のラジエーションハウス(昔話) その1 はじめに

2025年02月22日 | 科学、生物、医学

テレビで「おむすび」をやっています。 やっと管理栄養士らしい話になって病院の話になって来ました。 でも、管理栄養士の仕事はそんなものではないなどいろいろ意見も出て居ますが、NSTというチームを作って患者さんのために働いています。 このチームは管理栄養士、薬剤師、言語聴覚士達がいて、病院は医師と看護師だけのように思われていることに対していろいろな職種の人が医療を行っているのだと言うことがわかったと思います。

私は、診療放射線技師として病院で働いて来ました。 

テレビの「ラジエーションハウス」が放射線技師が主役で現在再放送がされています。

ラジエーションハウスはもともと漫画だったのですが、テレビ化されて、窪田正孝さんが医師の免許も持つ放射線技師として、スーパーマンの様な活躍をしています。

「おむすび」も「ラジエーションハウス」も、病院に勤めていたものにとっては、そんなことありえない、とか、1人の患者にずっと付き合えるような、そんなに暇じゃない、などなど現実と違う場面が多々ありますが、他のドラマでもそうですが、現実のことだけを描いたら、面白くない、ドラマにならないので大袈裟に書くのは仕方がないでしょう。

ただラジエーションハウスで良かったことは、数年前の放送の後、放射線技師になりたいという若者が増えたことです。

なお、ラジエーションハウスとはこの漫画で初めて知った言葉で、放射線科の意味でしょうが、

普通は Department of Radiorogy と言います。

ここでは、診療放射線技師としてやって来た仕事とか書きたいのですが、就職したのは昭和42年(1967年)です。

戦後のどさくさは通り越していましたが、世情は今とは大幅に違う。

たとえば、列車の中には灰皿があって、車内でタバコを吸うのは当たり前。 テレビでもおっぱいまではOK、もちろんスマホなどなく今の様に色々な情報は新聞か週刊誌、それにテレビでしかみられないので、検索してなんでもわかるのとは大違いでした。

ということで、病院関係の話ですが、その当時の話を入れて書くと面白いかなと思って、シリーズものとして書こうと思っています。

 

江若鉄道、 現役でこんな車両が走っていた頃です。 日の丸は多分正月です。

 

⭐️ エックス線技師学校

 何故エックス線技師になったのか? 当時は診療放射線技師ではなくて診療エックス線技師でした。

 国立のエックス線技師学校があって、2年制の専門学校であるけれど授業料がいらない。 大学附属の学校であるのでなんとなく大学の様な感じの名前で、レントゲンなら写真を撮るのであろうから、カメラ付きだった私は病院で働くことになるとは全く考えずに受験することにしました。

その学校の名前が長くて **大学医学部附属診療エックス線技師学校  と欄の中に入りきらないほどでした。

ここを受けたいと高校の担任に言うと。物理や数学があるんだろう? お前はその辺りの出来が良くないので無理だと言われました。 でも、国語や社会はもっと出来が悪いと私が言って、じゃあ受けろと許可をいただきました。

定員は30名で、受験に行くと20名ほどしか受けていない、これは受かる! と思ったのですが、試験官の先生が「ここは国立の学校なので、学生数が少なくても我々の給料は変わらない。 だから出来の悪いやつは落とす!」 と」言うではありませんか。 もう60年ほど前のことなのですが、はっきり覚えています。 結果としてこの先生、U先生と言いますが、鬼のUと言われることや、卒業後も先生が亡くなるまで、お付き合いさせていただくことになったのです。

入学式には親父がついてきました。 大学附属ですから大学の先生がたくさんいます。その時来賓の中に、鉄腕アトムのお茶の水博士とそっくりの髪型、頭、顔立ち、鼻こそ大きくありませんが、まるでお茶の水博士に見える人がいて、親父はやっぱり大学の先生にはこんな人がいるんだと感心していました。

入学したのは14名、上から落ちてきた留年生が2名の16名のクラスでした。

これが私の性格を変えることになったのです。 高校までは50名ほどのクラスだったのが、たったの16名、ですから、影に隠れているわけにはゆかなくて、色々な事をやってゆかなければならない、引っ込み思案の私の性格が徐々に人前に出なければならないことに慣れてきたのでした。

学生服を着て校門の前で、若かった。 U先生から絶対に学生服を着ろと厳しい指導があった。

 

さて、エックス線技師の養成について話をすると、日本で初めにエックス線装置を作ったのは、京都の島津製作所です(1909年)。 レントゲン博士がエックス線を発見したのが1895年ですから、あまり経っていません。

そこで、島津ではエックス線技師の学校も作りました。 そこが日本初めてのエックス線技師学校で、正式な名前は忘れましたが私たちは島津と呼んでいました。 現在の京都医療科学大学です。

 

島津製作所 創業記念資料館  京都 木屋町二条

 

中には、初期のX線装置も置いてあります。 もちろんノーベル賞の田中耕一さんの資料もあります。 できたら見に行ってください。 面白いものがたくさんあります。 今は予約制かもしれません。

 

一方、私の学校は国立では初めてのエックス線技師学校で、私で13期生でかなり歴史がありました。

先輩は大学病院はもちろん、国立がんセンターやガン研、千葉の放射線医学研究所など、さらに民間の放射線機器の会社など色々なところに就職していました。 こんなことは入学前には知りませんでしたが、免許職である事もあり就職率は100%と非常に高い。

 

京都大学の原子炉です。 大阪府熊取にあります。 先輩がここで働いていたので見学です。

建屋の写真ではありません。 原子炉本体です。 この蓋を開けて上から炉心も覗きました。 絶対に物を落とすなと言われて覗き込むと、水が張ったプールの様で、下で紫の光が光っていました。 チェレンコフ現象です。

 

つづく

 

 

 

 

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