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鉄道模型のある生活ブログ(旧)

鉄道模型にかぎらす、なんでも書いてしまいます。

海外旅行 2006年 ミャンマー12  マンダレー3  マンダレーヒル

2025年05月14日 | 海外旅行

丘と言うか山の上に寺院があるので行きます。

山の麓に大きな狛犬がいる門を通り過ぎて、車で7合目まであがった。

そこからが、お寺というよりエスカレーターホールなのですが、お寺の領域なので裸足にならなければなりません。

長いエスカレーターが何層かあるのですが、裸足でエスカレーターは怖いよ。 当然だけれどこんなことは初めてだ。 足指を挟んだらちょん切れてしまう。 

怖い目をして降りたところが

 

お寺です。 まあ、日本のお寺と違うこと。 白人系の人もたくさん来ていました。

 

こういうお釈迦様はかなり見慣れてきたのですが、金色というだけではなくて顔が優しいというか子供っぽさもあります。

 

これは日本でも見る「びんずる様」のような像ですが、キンキラキンです。

 

いろいろ展示してありますが、皆さん裸足でしょう。

 

ここはかなり高いので遠くまで見えます。

実は夕日が綺麗とのことでここに来たのです。

 

立派な建物も見えます。

 

夕日になるまで時間待ちです。 土産物屋がたくさんあります。 この方が試しているのは肩こりをほぐすテコ棒。

実は私も買ってしまいました。 家に帰ってから何年か使いましたが、案外良いです。 

 

階段があります。 ここを下ってゆくとお釈迦様が立っている像があるというので、夕陽を見てからここを下ってまた上がってきました。 もちろん裸足です。

 

夕日になってきました。

 

広い平地の向こうに夕日が沈んでゆきます。

 

でもね、ディジカメで普通に撮ると、自動補正してしまうのでこんなに明るく写ってしまうのです。

実はこの時に、日本人の団体の観光客がいたのです。

みなさんお年寄りですが、引率は日本のお坊さんです。

この辺りは大東亜戦争で、日本の兵隊さんが10万人ほど亡くなっている激戦地だったそうです。 この方々はその慰問に来ておられたのです。 

そして、お爺さんが写真を撮っても私が撮ったように夕焼けらしく写らないので大苦戦していたので、その方のディジカメの露出補正を教えて夕日が写るようにしてあげたのです。 まあ、日本語で説明できるので楽ちんでした。

さて、この激戦地のことは知らなかったのですが、後から知ったことを後記します。

 

薄暗くなった階段を降りて、お釈迦さまを見にゆきます。 途中子供達が遊んでいました。

 

下りだけではなくて、途中上がったり降りたりもあり厳しい道です。 行ったのは3人だけでしたが、これで時間が遅くなってどえらいことになったのでした。

 

お坊さんもいました。

ストロボを焚いて写しているので明るいですが、

ほぼ真っ暗なんです。

 

これが立位のお釈迦さまです。

ここから、また山の上まで戻りますが、先ほどの子供達がやってきて何やら言っています。

実は、我々がいないので通訳の人がこの子供達を使って私達を見つけて早く戻るように伝言を頼んだそうです。

上のお寺は閉まる時間でエスカレーターは止まって、エレベーターも止まっていて、大変な目に遭ってお寺の外に出ることができたのですが、団長さん遅くなって申し訳ございません。

 

さて、ここで日本兵が沢山亡くなったとのことですが、有名なインパール大作戦の一環でしょう。

大東亜戦争と書きましたがここは太平洋でないので太平洋戦争というより、大東亜戦争のほうが似合います。 もちろん第二次世界戦争というのは後からの話です。

日本がこの戦争を始めたのにはいろいろありますが、最終的にはアメリカやイギリスなど世界の国から石油などの資源を止められたことが戦争をせざるを得ない主因です。 アメリカというよりもルーズベルトやチャーチルたちが日本がこれ以上強くなられては困るので、経済封鎖してきたそうです。 日本には石油をはじめ色々な資源があまりない、これらを輸入できなくなると日本の産業が崩壊し、多くの失業者がでて国が滅びるので、石油を確保にアジアに進出したらしい。 

当時、東南アジアの各国はイギリスやフランス、オランダなどの植民地でした。 日本が攻めたのはそれらの国そのものではなくて、統治しているイギリスやフランス軍を追い出して、石油などの資源を輸入できるようにできるようにするためだったようです。 よくミッドウエーやレイテでのアメリカとの戦いばかり言われますが、アメリカが本気で戦ってきたという誤算があり、そうなったのですが本当に欲しいのは東南アジアの資源です。 

ですからあちこちの国でフランス、イギリスを追い出して、ついにビルマまできてイギリス軍をあっという間に追い出して、インドのイギリス軍に向かっていったのです。 それがインパール作戦で、その頃はすでに日本は敗戦色が濃くなり、食糧や弾薬の補給もままならないまま、ビルマの奥地に進んで行ったのでした。 自転車部隊などもあったと聞いています。

そして、マンダレーヒルから見えたあたりでも大きな戦いが行われて、10万人近い兵隊が亡くなったとのこと。

実際には、このうち3割はマラリアで亡くなったそうですが(先日の新型コロナの比ではない)、日本兵は撤退しようにも大本営の進めという命令に従って玉砕で、わずかに残った人たちが「ビルマの竪琴」のように水島上等兵らしき人に見送られて日本に帰った。

そして、夕日の山頂で出会った日本人の方たちは、この霊を慰めに来ておられたのでした。

なお、日本軍がイギリス、フランスを追い出したことで、戦後多くの国は植民地から解放され、日本のおかげで自分の国が戻ったと感謝の言葉を述べています。 ですから、ミャンマーの人達も日本人に好意をもっているのです。 西欧各国は植民地から物を搾取してゆくだけで奴隷扱いでしたから。

 

さて、マンダレーヒルからホテルに帰って

庭では毎夜色々な催しが行われています。

 

あやつり人形です。

 

踊りです。手に蝋燭を乗せています。

 

そして、席に回ってくるのです。

私はにやにやしていますが、実はおひねりを貰いにきているので、もちろん喜んで渡しています。

 

つづく

 

 

 

 

 

 


海外旅行 2006年 ミャンマー11  マンダレー3  マンダレー総合病院

2025年05月11日 | 海外旅行

王宮の後は別れていたメンバーと一緒に、マンダレー総合病院です。

 

大きな病院です。

 

放射線科です。 昔、日本の大学病院もこんな感じだった。

 

一般撮影室です。 女性の技師が撮影しています。 交通事故なんだ。 そりゃあバイクがあんなにたくさん走り回っていてよく事故が起こらないなと思っていたら、やっぱり事故はあるんです。 家族がついています。 日本では放射線被曝があるので家族は部屋の外にいますが、ここではあまり気にしていません。 本当のところ、家族への被曝は何にも問題ないほどなんですけれど、日本では御法度です。

 

島津のコントローラーの前に立っているのは放射線技師です。 この装置は私も使ったことがあります。

 

透視の装置がありました。イメージインテンシファイヤ付きですがディジタルではない、カセッテ方式です。

 

CTもありました。 ヘリカルです。島津です。

 

MRIもありました。オープンタイプなので簡易型ですが、0.3テスラーでしょうか。日立です。

 

MRIの画像です。 私はMRIの画像はよく知らないのですが、椎間板ヘルニアでしょうか? 横にはサジタル方向の再構成画像も表示されています。

 

当然、ここにはディジタルのドライプリンタがあります。

 

他の部屋には、血管造影用のカテーテルが置いてありました。 インターベンショナルラジオロジーもやっているんだと感心しましたが、この放射線科の部長は、午前中に行った医科大学の放射線科の教授で、岡山大学で研修を受けたとのこと。

 

マンモグラフィーの装置もあるんだ。 マンダレーはヤンゴンに次ぐ大きな町なので、病院もいろいろな装置を置いてあります。

 

この装置は見たことがなかったけれど、多分、結石破壊装置です。 尿管結石などを衝撃波で潰して排出する装置。

 

この後は、山の上にあって夕陽が綺麗なお寺に行きます。


海外旅行 2006年 ミャンマー10  マンダレー2  医科大学と王宮

2025年05月08日 | 海外旅行

マンダレー、大地震があったところですが、行った時には平穏な時。

我々は2手に分かれて違う施設の見学です。

マンダレー医科大学です。 行ったのはこの3人。 そして通訳には日本語学校の優等生の学生でした。

 

学長から色々な説明を受けました。 このスライドはミャンマーの医学系の大学です。

 

放射線科の見学です。 技師長、教授、助教授たちが案内してくれました。

後ろは血管造影の装置。 最新型の装置です。 日本の装置で技師長は日本で研修を受けたそうです。

ミャンマーを見ていて日本の昔のようだと思っていては大間違い。 そう言う古い部分もありますが、時代は現代なので、必要なところにはインターネットをはじめ、最新の装置があります。

 

おやつです。 助教授と一緒です。 当然英語での会話ですが、私は英語は弱いし、つらいおやつの時間でした。 でも、この方はとても良い方でした。

通訳の学生さんは少しは日本ができても専門的な話は全くわからないし、日本語が少しわかるだけではとても通訳はできません、もっと勉強しますと言っていましたが、両国の社会事情なども知らないと語学だけではとても通訳はできないと私たちも感じました。

 

最後の記念写真。 まん中の少し小さな方が学長です。 他に事務長や色々な方がおられますが、女の人が多いです。 ほかの施設でも感じましたが、ミャンマーでは女の人がよく働いています。

さて、昼食。 二手に分かれたので、視察団の団長がいない。 解放された気分です。

 

食事ができる店を探して、これはマクドナルドではありません。 似ているけれどね。

 

ドーナツ店に入りました。 やはり大きな町なので、こう言う店があって、メニューも英語なのでわかりやすい。

 

ここで昼食ですが、ミャンマーに来て初めて気さくな店で食事ができました。

 

午後訪問するところまでには時間があるので、王宮に行きました。

 

マンダレー 王宮です。 両側に大砲があります。

 

玉座です。 秀吉でなくてもキンキラキンは権威の象徴です。

 

塔に登って上から見ると、なかなか広い王宮です。

 

立派な建物です。

 

ここで、王様の衣装を身につけてもらっています。

 

私はマンダレーの王様である。 そこの者、頭が高い!

 

つづく

 

 

 


海外旅行  2006年 ミャンマー 9   マンダレー 1  ホテル近辺の朝

2025年05月05日 | 海外旅行

マンダレーのセドナホテルで一夜明けました。

セドナホテルです。

 

鯉がたくさんいました。

 

近所を散歩しました。 堀の向こうは王宮です。 この辺りで皆さん朝の体操をしていました。

 

お仕事に出かける人たちでしょうか、

 

バスも満員

 

懐かしいようなトラックがありました、MAZDAです。 後ろのバスは富士急の観光バスに見えます。

 

少し裏に回ると、普通の民家や店が並んでいました。

 

朝食はこういう店で外食のようです。

 

麺ですね。 うどん? ラーメン?

 

こんな売り方をしている、洗濯もののようだ。

 

店が並んでいます。

 

八百屋さんでしょう。

 

こういう所もあって、蚊に刺されないようにとの注意を受けています。 刺されるとマラリアになる可能性がある。

でも、蚊は居ませんでしたが、季節の問題でしょうか。

 

とても賑わっている。 ここで朝食を食べてお仕事に出かけるのかな。

 

何かをお祭りしてあるのかな。 うちの町内のお地蔵さんのような感じです。

 

若いお坊さんたち、托鉢でしょうか。  お坊さんは尊敬されています。

 

わんこも幸せそうです。

され、我々もこれからお仕事に出かけます。

つづく

 


海外旅行  2006年 ミャンマー 8   マンダレーに向かう。

2025年05月02日 | 海外旅行

ヤンゴンからマンダレーに向かいます。 マンダレーは先日の地震で大きな被害を受けた場所。

 

ヤンゴン空港待合室。 このバスで飛行機に向かいます。

どこの市バス? 料金後払いなども書いてあります。

 

しめきりと言う日本語もありますし、中には料金表もあって撤去していません。 日本語の意味がわからないから気にならないのでしょう。 空港の中でこういうバスに乗るのは変な感じ。

 

エアーマンダレーのスッチーさんと。 私の両ほっぺに白いものを塗ってあります。

これは

 

ホテルの玄関に置いてあった木の棒を擦りおろしていますが、これはタナカという木です。 これをほっぺたに塗ると日焼け止めとか言われましたが、美容用らしい。 ほとんどの人がほっぺたに塗っているので私も塗ったのでした。

香りが良いとか言われていますが、気が付かなかった。

 

2時間ほどだったか? マンダレー空港に到着。 この空港は立派で、新しい設備も整っていました。 これは中国が建てたもので、ミャンマーに寄っています。

このマイクロバスでマンダレー市内のホテルに向かいます。

 

夕日が沈みかけてきました。 のどかな田舎という感じです。

 

踏切を越して、コンクリート枕木だ、 新線でしょうか?

 

途中、こんなところに寄りました。

 

ここはお寺です。 キンキラキンの仏像があって、その横に錦蛇がいます。 本物のにしき蛇です。 大きくて太い。 生きています。 蛇は仏様の使いなのです。

 

そしてこの蛇が時間になると、この風呂に入りに来るそうです。 もちろん水を張ってからですが、蛇が風呂に入ってまた、元の仏像の横に戻るそうです。

これが珍しいのでここに案内してくれたようです。

 

こんな写真がありました。 かないませんな。

 

観光客が来ると、さっと物売りが寄ってきます。 通訳さんが何か買っています。

女の人の顔にはタナカがたくさん塗ってあって白いです。

 

これは千葉のバスですね。

さて、ここからマンダレー市内に近づきますが、ものすごい車とバイクの量で、交通規則も何もありゃあしないという感じで前から突っ走ってきます。 そこをマイクロバスが警笛を鳴らして突っ切る。

いつ正面衝突をするのかと気が気ではない、ここで死ぬのかと思ったほどの混雑をぶっ飛ばしてやっとホテルに着きました。

 

ホテルに着きました。 セドナホテルと言う立派なホテルです。

交通事故に遭わなくてよかったねと、乾杯です。

 

金髪系も泊まっています。

 

もちろん、肉は焼いて食べますが、いろいろな食材があります。

 

ステージではショーも

 

ロビーで一杯

 

部屋です。 アメニティーも揃っていました。

 

さて、明日も忙しいぞ!

 

つづく