丘と言うか山の上に寺院があるので行きます。
山の麓に大きな狛犬がいる門を通り過ぎて、車で7合目まであがった。
そこからが、お寺というよりエスカレーターホールなのですが、お寺の領域なので裸足にならなければなりません。
長いエスカレーターが何層かあるのですが、裸足でエスカレーターは怖いよ。 当然だけれどこんなことは初めてだ。 足指を挟んだらちょん切れてしまう。
怖い目をして降りたところが
お寺です。 まあ、日本のお寺と違うこと。 白人系の人もたくさん来ていました。
こういうお釈迦様はかなり見慣れてきたのですが、金色というだけではなくて顔が優しいというか子供っぽさもあります。
これは日本でも見る「びんずる様」のような像ですが、キンキラキンです。
いろいろ展示してありますが、皆さん裸足でしょう。
ここはかなり高いので遠くまで見えます。
実は夕日が綺麗とのことでここに来たのです。
立派な建物も見えます。
夕日になるまで時間待ちです。 土産物屋がたくさんあります。 この方が試しているのは肩こりをほぐすテコ棒。
実は私も買ってしまいました。 家に帰ってから何年か使いましたが、案外良いです。
階段があります。 ここを下ってゆくとお釈迦様が立っている像があるというので、夕陽を見てからここを下ってまた上がってきました。 もちろん裸足です。
夕日になってきました。
広い平地の向こうに夕日が沈んでゆきます。
でもね、ディジカメで普通に撮ると、自動補正してしまうのでこんなに明るく写ってしまうのです。
実はこの時に、日本人の団体の観光客がいたのです。
みなさんお年寄りですが、引率は日本のお坊さんです。
この辺りは大東亜戦争で、日本の兵隊さんが10万人ほど亡くなっている激戦地だったそうです。 この方々はその慰問に来ておられたのです。
そして、お爺さんが写真を撮っても私が撮ったように夕焼けらしく写らないので大苦戦していたので、その方のディジカメの露出補正を教えて夕日が写るようにしてあげたのです。 まあ、日本語で説明できるので楽ちんでした。
さて、この激戦地のことは知らなかったのですが、後から知ったことを後記します。
薄暗くなった階段を降りて、お釈迦さまを見にゆきます。 途中子供達が遊んでいました。
下りだけではなくて、途中上がったり降りたりもあり厳しい道です。 行ったのは3人だけでしたが、これで時間が遅くなってどえらいことになったのでした。
お坊さんもいました。
ストロボを焚いて写しているので明るいですが、
ほぼ真っ暗なんです。
これが立位のお釈迦さまです。
ここから、また山の上まで戻りますが、先ほどの子供達がやってきて何やら言っています。
実は、我々がいないので通訳の人がこの子供達を使って私達を見つけて早く戻るように伝言を頼んだそうです。
上のお寺は閉まる時間でエスカレーターは止まって、エレベーターも止まっていて、大変な目に遭ってお寺の外に出ることができたのですが、団長さん遅くなって申し訳ございません。
さて、ここで日本兵が沢山亡くなったとのことですが、有名なインパール大作戦の一環でしょう。
大東亜戦争と書きましたがここは太平洋でないので太平洋戦争というより、大東亜戦争のほうが似合います。 もちろん第二次世界戦争というのは後からの話です。
日本がこの戦争を始めたのにはいろいろありますが、最終的にはアメリカやイギリスなど世界の国から石油などの資源を止められたことが戦争をせざるを得ない主因です。 アメリカというよりもルーズベルトやチャーチルたちが日本がこれ以上強くなられては困るので、経済封鎖してきたそうです。 日本には石油をはじめ色々な資源があまりない、これらを輸入できなくなると日本の産業が崩壊し、多くの失業者がでて国が滅びるので、石油を確保にアジアに進出したらしい。
当時、東南アジアの各国はイギリスやフランス、オランダなどの植民地でした。 日本が攻めたのはそれらの国そのものではなくて、統治しているイギリスやフランス軍を追い出して、石油などの資源を輸入できるようにできるようにするためだったようです。 よくミッドウエーやレイテでのアメリカとの戦いばかり言われますが、アメリカが本気で戦ってきたという誤算があり、そうなったのですが本当に欲しいのは東南アジアの資源です。
ですからあちこちの国でフランス、イギリスを追い出して、ついにビルマまできてイギリス軍をあっという間に追い出して、インドのイギリス軍に向かっていったのです。 それがインパール作戦で、その頃はすでに日本は敗戦色が濃くなり、食糧や弾薬の補給もままならないまま、ビルマの奥地に進んで行ったのでした。 自転車部隊などもあったと聞いています。
そして、マンダレーヒルから見えたあたりでも大きな戦いが行われて、10万人近い兵隊が亡くなったとのこと。
実際には、このうち3割はマラリアで亡くなったそうですが(先日の新型コロナの比ではない)、日本兵は撤退しようにも大本営の進めという命令に従って玉砕で、わずかに残った人たちが「ビルマの竪琴」のように水島上等兵らしき人に見送られて日本に帰った。
そして、夕日の山頂で出会った日本人の方たちは、この霊を慰めに来ておられたのでした。
なお、日本軍がイギリス、フランスを追い出したことで、戦後多くの国は植民地から解放され、日本のおかげで自分の国が戻ったと感謝の言葉を述べています。 ですから、ミャンマーの人達も日本人に好意をもっているのです。 西欧各国は植民地から物を搾取してゆくだけで奴隷扱いでしたから。
さて、マンダレーヒルからホテルに帰って
庭では毎夜色々な催しが行われています。
あやつり人形です。
踊りです。手に蝋燭を乗せています。
そして、席に回ってくるのです。
私はにやにやしていますが、実はおひねりを貰いにきているので、もちろん喜んで渡しています。
つづく