学会です。北海道に行ってまいります。まぁ、やれる範囲のことをやれるだけはやりました。ただあまりに付け焼刃なので気合の入ってなさが露呈してしまいそうです。まぁ実際気合入ってないのかもしれない。そういうことをつっこまれたら正直に認めましょう、と自分に言い聞かせ。
芸歴としてはまだ一年そこそこの坊主なのです。しかし発表しようと思うからには同じ土俵の上での勝負なのです。考えの浅はかさだとか手法の稚拙さだとかを指摘してもらえることをむしろ喜ばなければならないと思っております。
と、あまりに優等生的思考を持って物理屋の前に立つのはどうなのだろうか。と時々考える。「つまらん」と一蹴されればそれでおしまい、そんな世界で生きていくのにふてぶてしさは必要であるのか。あれば楽だな、と思うこともある。それを持たずとも強く生きることはできるんじゃないかとも思う。しかし後者のようにあるのを望むことこそが優等生的思考なのであって、また思考は原点に戻ってくる。
優等生を、アカレンジャーと言い換えたほうがより正しいかもしれない。アカレンジャーは、正しいことは正しい、と言う。しかしそれは書かれたもの・作られた世界の中でのみ正当性を持つ。なぜならそこには視点が欠如しているからだ。現実には正しいことなんてそんなに多くない。知っていたほうがよいことも普通に考えるほど多くはないし、誰もが善きことだと認める事実も少ないはずだ。
だから僕は科学が好きだ。そこでは、効用は知識の広義単調増加関数で、科学として理解が進むことをよきこととし、何が正しきことかを議論する。事実を知らないほうがいいことの多いこの世の中で、特異的な振る舞いをする世界が科学者集団の性質だと思う。
そうか、だから僕はアカレンジャーになればいいんだ。
とはいかないのがしかし厄介なところだ。僕は科学者になれたとしても、科学者である前に人間である。ご飯を食べなければ生きていけないし、人に嫌われたら悲しいし、つらい顔をしているより笑っていたい。もちろんみんなが、そうしてこの世界を生き抜いてきたわけだ。そういう人たちの生身の部分まで感覚として感じられるような人間になるには、アカレンジャーには少々荷が重いはずで、あくまで変身前の一市民として科学者集団に対峙することが必要なのではないか。そう、たまにはカレーも食べたり。
まぁ、それは道徳だ。科学ではない。だけどどっちが大事って事もなかろう。