
永瀬先生を演じた俳優真田氏
前置き)
引き続き、永瀬隆先生の生涯をかけた”戦後の後始末”の話題を
お伝えしたい。
この映画は1995年 ’エスクァイア’誌で、ノンフィクション大賞を受賞した
エリック・ローマクスの自叙伝”The Railway Man"をべ―スにしている。
イギリスで75万部が売れベストセラーとなり、英国において、戦後の傷跡
にどれだけ多くの イギリス人達が関心を持っていたかをうかがわせる。
死の鉄道と言われた タイメン鉄道建設には、6万2千人のイギリス軍など
連合軍の捕虜たちと、それ以上のアジア人労務者たちが携わった。
”鉄道の枕木一本に一人の命がかかっていた”といわれるほど、枕木の一本
ごとに、一人の命が犠牲になったと言われるほど、過酷な現場であった。
不当な労働を課せられた、連合軍の1万5千人の捕虜たちが この地で
亡くなった。
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戦後の永瀬先生の戦後の半生は、日本軍とともに 通訳として、自ら
がかかわった、捕虜への非人道的行いへの罪意識を払拭させるための
活動だった。
言葉を変えれば、それは、謝罪表明だった。
同時に ”憎しみから友情”を芽生えさせる活動でもあった。
先生は、私財を投げうって、すべてを捧げた。
永瀬氏の功績は国際的にも認められた。
平成17年、読売国際協力賞を受けた。
これは国連に貢献した緒方貞子女氏についでの、受賞になった。
しかし、先生にとって、そのような国際的栄誉も、それほどの大きな意味
をもつものではなかったようだ。
通訳として戦争にかかわったにせよ、虐待現場にいた日本人の一人として、
まだ戦後の処理が終わっていないことを痛感し続けていたからだ。

(自ら建立した平和寺院で冥福を祈る永瀬先生の後ろ姿)
永瀬先生の贖罪の深さは、カンチャナブリにある、連合軍兵士たちの墓地
へ、また、その魂の鎮魂のために 自ら建てた寺院への訪問を数えると
渡タイ数は、135回という数字に裏付けらされているようだ。
その寺院建立に際し、キリスト教信者だった先生は頭を剃髪し、仏教国
タイ国に立てる慰霊寺が、タイ人にも手を合わせてもらいたいという願い
から、仏門に入り僧侶の資格をとった。
こうして、上記写真の本堂が完成した。
そこに、ご本尊を安置して、カンチャナブリのクワイ河の鉄橋のそばに
建てられた小さなお寺(平和寺院)に私たち夫婦も、訪れた。
この寺院では、大戦時、連合国捕虜たち、アジア人労務者たちの 鉄道
建設時に病や拷問で亡くなった御魂が祀られた。
何故、そこに建てられたのか、お聞きしたら、ここなら、観光客や
地元の人達が多く、往来もあるので、必ず、誰かが、毎日、手を
合わせてくれ、それが、鎮魂につながるからと先生は、おっしゃった。
先生のモットーは ”自分の行為は自分で責任を取る”
そして、”与えられた恩には感謝を持って報いる”という二つだった。
その信念を基に、タイ人の子供たちのための、奨学金制度を設けた。
その理由は、当時タイ人が、捕虜や日本人兵士たちに温情をかけて、世話を
焼いてくれたことへの恩を忘れないため、またその感謝の顕れだとも、
先生は語った。

まさに、”戦争がもたらした悲劇”の一つ、として、片づけられようとして
いる個々の捕虜に対しての責任は、国ではなく、戦争に関わったものとして
”自ら責任を負う”~と、いう姿勢は、終生変わらなかった。
生涯、その目的のために、一人で黙々と行動に移された。
その一つの活動が、イギリス元連合軍捕虜の方達を日本に招待して、贖罪し、
憎しみを消して、和合ある人間関係を構築しようという試みであった。
前回のブログに登場した、画家で捕虜として、日本軍からの拷問を体験した、
レオ・ローリング氏も 先生に日本に招かれた一人だった。
当時、岡山で私たち夫婦も、先生とローリング氏との歴史的再会の瞬間に
立ち会った。
そして、穏やかに当時を語る氏の話を伺った。
国家とは二つの側面を持つ。
権力機構としての国家、政府であり、もう一つは国民共同体としての国家。
前者は英語ではstateと呼ばれ、後者はnationと呼ばれる。
永瀬先生は、stateとしての当時の日本国家(政府)の過ちを’個人’として自覚
し、そこにできた人間と人間の間の溝を埋めようと、人生をかけられた。
戦争が残した心のトラウマと、深い傷が癒えるためには ”憎しみを愛に変える”
ことしか方法はないと先生は、考えた。
永瀬先生の意思を次世代に引き継ぐために、記念館の構想が、現実にタイの
カンチャナブリで動き出している。
平和基金の責任者は、満田康弘氏(*2)に引き継がれた(当時)。
満田氏は、永瀬先生の活動を1994年から取材して、ドキュメンタリー番組
として多く発表している。
それを本にまとめて、”クワイ河に虹をかけた男”というタイトルで出版も
されている。
憎しみから愛へ~ 言葉では平坦だが、その道のりは長く、一生をかけて
到達できるには、時間は短すぎるかもしれない。
戦争にかかわることのなかった私たちにとっても、”愛を主体に生きる”と
いうことは、共通した、人生のテーマであることには変わりはないだろう。
永瀬先生は、それを、自ら、身をもって、言葉ではなくその
背中で、指し示してくれた人であったと思う。
*1)レオ・ローリング (1918~?)
英国バーミンガム生まれ。
第二次世界大戦では英国各地に駐屯中、
戦場の画家として腕をふるった。
粘土や植物の汁を使い、シンガポールで捕虜になったとき、
中将ルイス・ヒース卿から将来戦争犯罪裁判の証拠として
記録として戦争絵画を残すよう私的に命じられ、
ジャングル収容所で病身だったときに描かれた。
完成した絵は、古いストーブのパイプで自作した容器
に入れて、ベッドの下、地中にうずめて隠した。
1945年終戦後、何回か英国各地で展覧会が開催された。
戦争のための慈善事業に賛助して出品されたとき、2万ポンド
の募金が集まった。
1958年 リバプールのラッセル卿が”武士道の騎士たち”を発刊。
その際、ローリング氏の絵を8ページにわたって掲載。
1964年、ようやく、戦中から崩していた健康も戻り、
講演活動も始める。 BBC英国放送協会を通じて、放送もされ
コレクションの競売が行われ、絵画の多くは、英国戦争博物館に
よって、買い取られた。
*2) 満田康弘
1984年株式会社瀬戸内海放送(KSB)入社。
主に、報道、制作部門でニュース取材や番組制作い携わる。
日本民間放送連盟賞受賞など、ドキュメンタリー番組で
受賞多数。
永瀬 隆氏のドキュメンタリー取材を通して、まとめられた
”クワイ河に虹をかけた男”著者。
梨の木舎、2011年
参考書)
”泰麺鉄道の奴隷たち”("And The Dawn Came Up Like Thunder")
レオ・ローリングズ絵と文 永瀬隆訳
発行所:青山英語学院 昭和55年
永瀬 隆 (ながせ たかし)氏について)
1918~2011]1943年タイメン鉄道造作戦要員として
タイ国駐屯軍司令部に充用。
1964年からタイ巡礼を始める。以後毎年行う
1965年、タイからの留学生受け入れ開始
1976年、クワイ河鉄橋で元連合軍捕虜と初めての和解の再会を果たす
1986年、クワイ河平和寺院建立、クワイ河平和基金設立
1991年、ロマクス・パトリシア夫人から手紙を受け取る
1993年、ロマクス氏と再会
1995年、クワイ河鉄橋で第二回目の元捕虜たちとの再会
2002年、英国政府から特別感謝状授与
2005年 読売国際協力賞受賞
2006年、クワイ河鉄橋付近にタイ人有志による永瀬氏の銅像完成。
2008年、山陽新聞賞受賞
2009年、最期の巡礼に妻桂子さんと出かける。その年9月
最愛の奥様他界。
2011年 永瀬隆氏 死去
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