アートマセラピーで、自然治癒力を発揮した
それまでは、血尿が出るほど腎臓が悪いときがあったが、アートマセラピーをひとつき、試みて、その後すぐの、検査入院では、担当医師が驚くほどの回復の数値データを残した。
自然治癒力で、薬もとらず、結石まで取れて、その後も良好だった。
が、叔母から その時、電話でアドバイスを受けた;
父に、もしもの時、面倒なことにならないよう、病院で定期的に診察を受けていたほうが良いという内容だった。
そこで、再度、主治医を見つけた。
夫も同様だった。
しかし、2022年8月、コロナにかかり、入院先で、新薬を投入された。
その新薬の副作用に”死”と書いてあるのを、当時、介護者としてコロナを夫から受け、高熱で自宅で一人寝ていた私には、知る由もなかった。
夫は、自宅療養で、半年たっていた。
そして、コロナになるまで、施設から自宅療養に切り替え、自然治癒力を大いに発揮して、2年間、車椅子で無気力な生活から、立ちあがり、トイレまで歩き、食欲も改善されて、読書を楽しむまでに快復していた。
それは、”奇跡”と、ケアマネさんに言われるほどの回復だった。
が、コロナで入院、帰宅したときは、夫は、骨と皮になって、再び、車いすの生活となった。
それでも、デーサービスに時々通い、その際、夫の激変に、”何があってもおかしくない状態だから主治医を今つけるべきだ”と、施設のT社長は、強く薦めてくれて、M医師を紹介して下さった。
社長いわく、”患者の意図をくみ取って、家族と相談したうえで処置をとる方だから恭代さん、大丈夫。” と 以前、私のセラピーを受けた体験のある、施設長は、私の方針に、賛同してくださり、理解を示してくれた。
M医師は、その期待を裏切らなかった。
私や夫の希望を十分くみ取るためにも、気功の大家だった姑・須田麻沙子の書、
”ほつれ・つまりが病気の根本原因”という、姑の治療例をまとめたものを、読んでくれ、自然治癒を第一に、薬に頼らない介護の後押しをしてくださった。
父と夫は、アートマセラピーが 回復に、功を奏したことが共通していた。
先に書いたことと、重複するが、2005年から、父は、腎不全で国立S病院で治療を受けていた。
私は当時インドに居住していたので、そのことは一時帰国するまで、知らずにいた。
短期間予定で、実家に戻ると家族は父の入院準備をしていた。
”血尿が出たら即入院だ”と医師に言われていて、実際、私が帰国した前日に、血尿が出始めたのだ。
その様子を見ながら私は、”お父さん、私に任せてくれない?”と父に自然治癒力で快癒できるかもと、打診すると、父は受諾した。
”おれは、ヤスヨの手当(セラピー)に任すことにするよ。”
そういって、予約ベッドを自ら受話器を取って、その場でキャンセルの電話を担当部署にいれて、母を驚かせた。
それから、約一月間の間、毎日、父の体温、尿の量、色、回数、食餌内容、など、メモにとりながら施術に専念した。
父の症状は、一進一退を繰り返していたが、確実に螺旋状の階段を上る如く、薄紙をはがすように、良い結果は出てきた。
父は、セラピー中、黄疸になった。
文字通り、皮膚が黄色くなっていく。
私はこれが重篤になってはと、文字通り、青くなった。
が、必死で、セラピーを続けると、2日間で黄疸症状は取れた。
良くなった翌日には、血尿の血の色が異常に濃くなった。
また、或るときは、食餌も細く、水分などの補給に心を配った。
そうこうして、”悪くなる”というのは、”良くなる前兆”であることが多いということに気が付いた。
セラピー開始後からひと月後、父の血尿はとまり、食欲は戻り、黄疸も消え、検査入院の結果は、医師が驚くほどで、以前データで示されていた症状の数値は平常になっていた。
昨年4月から本格的に自宅療養に切り替えた夫の場合も 父のケーズと基本的に同様の介護をした。
父の時のように、私は全神経を集中して、彼の身体を観察し、波動を感じながら、自然治癒力を引き出すことにセラピーを施術し、専念した。
夫が2年間、取り続けていた、医局からもらった薬は、1ヶ月で全面廃棄して、薬なしになった。
周りが奇跡と驚くほどの回復ぶりを見せたからだ。
三年ぶりに歩き始め、トイレに行き、食欲も増進した。
しかし、運命には抗えないという感覚も、父の場合も夫の時も、味わった。
父の時は、亡くなる半年前だった。
父の食欲が急速に激減し始め、私にセラピーを求めてきた。
その時、なぜか、施術しても無駄だと、感じた。
”お父さん、今回は手が出ない”と正直に答えると 父も観念し、数か月間、食欲もなく、水分補給も低下していたので、栄養と水分点滴をとるための、入院に抗わなかった。
夫の場合も同様の気持ちを味わった。
それは、コロナ入院で退院してから亡くなるまでの一か月の間は、セラピーの限界を感じていた。
薬は、父は取っていなかったが、二度めの点滴入院のときは、たぶん、癌だろうという医師の推測のもと(検査は、身体が弱っていたので、できなかった)抗がん剤が投与された。
”がんもどき”と呼ぶ症状に対し、(体力ないためにMRIほかの精密検査は不可能だった)で癌らしいという診断が 点滴を初めて一月後に出たからだった。
それまでは、水分補給の点滴入院である、と、精神的には元気で、帰宅に向けてリハビリを毎日していた父だったが、抗がん剤を一度、打たれて、起き上がることもできなくなった。
抗がん剤投与の翌日、内臓機能の数値が半分に低下した。
医師は驚いて、抗がん剤投与を打ち切った。
それまで、毎日リハビリ室で身体を動かすのを日課にしていた父が、それからは気力を失い、”俺は癌で死ぬのか。”とため息をついた。
夫の場合も父の場合も、こうして、抗がん剤やコロナ新薬で、症状が一転したのは共通していた。
父は抗がん剤投与の翌日に、生気を失い、夫はコロナ治験薬である、薬を投与されて生気が奪われた。
医師が 介護中、コロナをもらい、自宅で寝込んでいた私に、電話口で以下のように報告してくれた。
”須田さんは、とても、西洋医学処置に反抗的です。
新薬投与を始めましたが、食事も一切拒否し、ただ、一日中、2週間の間、向きを変えずに、ただ、横向きの同じ姿勢のままベッドの上に、無気力に横たわっているだけです。
精神的に参っているのか、自虐行為があってもおかしくない状態です。”
夫は 私のコロナ復帰を待ち、3週間後に帰宅した。
車いすに乗った夫は、自宅に着くと、しみじみ”家族はいいね”とほっとしたように呟いた。
そして、悲観した、深刻そうな私の表情を見て”笑って・・笑って”と言った。
”笑っているほうがずっと、いいよ”と。
”自虐行為や自殺行為の可能性”ありと、退院時に渡された書類の一つ、入院時の所見にも書かれていた。
が、自宅に戻った夫は、やせ細り、筋肉を動かすこともできなくなっていたが、穏やかできちんとした受け答えをして私を、安心させた。
こうして、父も夫も、病院から家に戻り、ひと月弱の家庭での、看護を受けて、安らかに、旅立った。
夫の簡易葬式の時だった。
夫の傍に坐って、義理の弟がつぶやいた。
”家で看取られ、亡くなることは、最高の贅沢ですね”。
彼も数か月前にコロナ忌で、面会もままならないまま、病院で、実父を、なくしたがかりだった。
家で看取ることは確かに、簡単ではないだろう。
家族や本人に負担はかかるのは否めないだろう。
看取る覚悟のためには、多くの人たちの寄り添いと、物理的協力が不可欠だ。
父の場合は、介護保険を使ったことがなかったので、自宅に戻れる手続きには、段取りが多くあった。
病院で行っていた点滴を、自宅点滴に切り替え、その資格者の確保、ケアマネを探すこと、訪問診療の事務的手続き、主治医Y医師の自宅診療の同意取得などをひと月足らずで、済ませ父を家に迎えた。
夫の場合は、父と異なっていた。
数年の間、要介護4であったこと、自宅療養の切り替えとき、良き介護施設に夫を受け入れてもらえたことで、被介護者の私をも、精神的に支えてもらった。
また、寝たきりになった夫の、着替えやリハパンの交換などに毎日、専門職の方が数回、お手伝いに来てくださった。
加えて、何かあればいつでも呼んでくださいというM医師のご協力も有難かった。
夫と父、縁の深い二人の肉体衣を脱いで、魂の世界に旅立つのを見届けることができたことは、私の人生の中での、後悔の無い終止符を打てた出来事だ。
父の場合、明け方5時前に、一瞬のまどろみから覚めた私の目の前で静かに、文字通り、眠るように、息を引き取ったばかりの父が永眠していた。
2007年8月20日朝5時だった。
夫も同様だった。
最期まで彼には”生きている”意識があった。
が、言葉は父と同様、すでに、発せられなかった。
だから、最後の言葉は、亡くなる2週間前に、私に笑顔と共に、弱弱しく、でも、しっかりと、”やすよと一緒で、嬉しいから・・・”と 微笑みながら、つぶやいた言葉だった。
2022年9月29日19時51分:夫の最期の一息だった。
私は、たまたま、 水分補給の点滴で来た医師と共にそれを、はっきりと見届けた。それは、本当に、安らかだった。
私自身、この時をもって、漠然と抱いていた死に対する怖さも消えた。
現実とあの世は繋がっていると実感させてくれた。
紙一重の違いで、すぐそこにあの世はあるということを体感できたと共に、 まだ、夫が呼べばすぐ傍らに寄り添ってくれていることを実感している。
⁂"引きつれ・つまる 身体をほぐす”
須田麻沙子著 文芸社2013年