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自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

Jnana Karma Sanyasa Yogaha~ギータの中で説くヨガ(1)

2017年08月04日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

Embracing Divinity Wisdom and Sacrifice in Action

=常に聖なる智慧と聖なる犠牲的精神を

心に抱いて 行動するヨガとは?

 2017.8.5

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少しでも多くのヨガ、生活の中でできる、

実践方法、いいかえると、

神と一体になるための方法を クリシュナの

言葉を借りて、これからシリーズで、

お伝えできればと願う。


ここでいう'神'とは、ヒンズー教や特定

宗教の神ではない。

クリシュナのいうところの、誰の心の中

にも存在する ’Indwelling Entity',


つまり、”内在する普遍の資質”、別名

アートマ のことである。


誰もが、アートマを心に持っているのに、

ほとんどの人達は自覚していない。


自覚したとき、その人の人生は、心身とも

に一変するだろう。

苦労を苦労と思わず、

喜びの波に有頂天になることもなく、淡々と、

しかも、確実にゆるぎない信念が

生まれて、変化というより、変容するに

違いない。 


自然治癒力、病気の本質やその原因も、

自ずから、納得していただけると思う。

 

Murudeshwar, アラビア海, カルナタカ州, Gopuram

チャリオットの中のクリシュナとアルジュナ

~クリシュナ自ら御者となり、アルジュナに

教えを説く~ギータの場面

 

 

真理に直結している智慧、犠牲的行動を通して

得られる神との合一、そのヨガ(合一)を 

ジャナーナ カルマ サンヤシ ヨガ と呼ぶ。

このヨガをクリシュナはギータ4章でアルジュナ

に教える下りをご紹介したい。

ここで注目したいのは、'行動'、つまり

'アクション'という言葉だ。

 

クリシュナは

“In the world of human beings, 

action is followed by results quickly.(4-13 ) 

この世の中では行動に対し結果が伴う。


と述べているが、クリシュナは、続けて、云う:

He, who understands that actions do not attach

 to Me and that I do not desire the results of 

actions, is not bound by action. 


Seeking freedom from action, many people 

carried out their actions in the past in this 

manner, knowing it is only the nature’s tendencies 

that perform action.

Therefore, you do your allotted work in the 

same way. (4-14,15)

 

訳“ 私がアクションに固執せず、結果に

無頓着であることを知っているものならば、

アクションに縛られることはない。 


アクションをとることから自由になるため、

人々は昔から、行動することは、自然の摂理

だと思うがゆえに、そのようにふるまってきた。


だからこそ、皆は毎日の決められた仕事を

こなしてきたというわけだ。

 

神(クリシュナ)のいう,"行動に固執しない"、

"結果を求めない"ということは

どういうことなのだろうか? 


私たちは、よりよい結果を残そう、と行動する

ことが、建設的で前向きな姿勢と感じているが、

結果を求めないとは?


アクション、'行動する'とは,どこで、'ヨガ'

と関係するのだろうか?

クリシュナは続いて述べている:

“Even the learned are confused about 

what is action and what is action-less.” 〈4-4-16〉


訳 “教養ある人たちでも、アクションとは

何か?とアクションが無いとはどういうことか?

を知らず、混乱する。”

 

そして、クリシュナは,以下のような禅問答

のような答えをアルジュナに与える:


“He, who experiences the action-less in action

 and action in the action-less, is the wisest 

among men; he has attached himself

 to divinity; he has concluded all actions

 that need to be done. “


訳)行動の中に、アクションレス

(アクションの無い)を体験したもの、

アクションレスでありながら、行動する

ことを体験したものは、最も智慧者だ。 


彼は、自らを神性に結びつけ、すべての行動

は必要だからなされたという結論に達して

いる。

 

ますます、混乱してくる。 

アクションの中のアクションレスとは何か? 

アクションレスの行動とはどういう行動なのか?


クリシュナが それに関して説明している、

次の言葉を探ってみたい。


“He, whose actions are devoid of the pulls

 of desire and whose bondage to action is

 eliminated by his embracing the Indweller, 

is called a Panditha(scholar)by the wise.

He does his action, unattached to its results; 

he is ever contented and does not seek 

anything at all. “ (4-16~)


訳)欲望に引っ張られて 行動を起こすこと

なく、心の主(あるじ)を常に意識して、

行動に束縛されることを避ける人は、

パンディット(神の学者)と賢人から

呼ばれる。


その人は行動しても、結果に執着しない。

常に、心は満たされているから、

他に何かを探そうという気持ちはない。

 

 ここまで読むと、’アクションレス’という言葉

の意味が少し見えてくる。

それは、結局、五感感覚が促(うなが)す

欲望、身体的心地よさや満足感、

小自我(エゴ)を膨らますための、

見栄や欲望(パワー)を満足させる動機のため

に行動をとらないということらしい。 


行動、体は動いていても、結果を求めるため

に行動していないのは、すでに、心の中で

満たされた境地に達しているからだという。


そして、行動することは Indweller 

つまり、内在する神が為していることだから、

力まず、無理せず、自然と行為を行う。


そういう人が’アクションレス’のように、

’行為している’というわけで、そういう人達を、

’パンディッ’トという称号で尊敬を得るに値する

人だと、クリシュナは分別している。


以下はクリシュナがパンディットの定義の

一つとして、語る言葉だ。

 

“He realize that both fulfillment and 

non-fulfillment are the same.

 He is not bound by action even 

though he may be doing it. 


His action is done without attachment to

 the action or its results. 

Focusing on attaining freedom from 

the birth-death cycle, he mentally embraces

 the Indweller. His action is done as selfless 

sacrifice and simply dissolves in itself

(4-16 to 4-23) 

 

訳) 彼は 充足した状態でも、そうでない

状態の中でも、大した差はないと認識している。

自らのアクション そうした外部の状況に

縛られるということは無い。 


その行動は 執着からなされたものではなく、

結果を求めるためになされたものでもない

からだ。


死と生のサイクル(須田注;輪廻転生のこと)

から自由になること、そこだけに焦点を当てて、

自分の心に内在する神を抱き続けて行動して

いるからだ。


彼は自我意識を犠牲に捧げ、行動を起こす

ことで、内在する神に溶け込むのだ。”

 

ここに、犠牲的(sacrifice)という言葉が

新たに登場する。

犠牲という言葉は、個人的には、一種の

悲壮感が少々だがついて回る気がする。


犠牲によって、何かは、あるいは、誰かは

その恩恵を受けるだろうが、

犠牲をささげた側は ”何か”を失うという

前提があるからだろう。


犠牲ではなく、自主的に自分の喜びのために、

自分の資質の一部を誰かに、何かに喜んで

捧げるというのなら、それは、犠牲とは

言わないような気がする。

 

 クリシュナは”犠牲”をどのように定義して

いるのだろう?

The action of sacrifice is Brahman.

What is sacrificed is Brahman, Brahman is

 the sacrificial-fire. 

Offering made into this fire are Brahman. 

He who attunes to the oneness of action 

and Brahman,attains Brahman Itself”

(4-24)

  訳) 犠牲的行動はブラハマン(神)その

ものだ。 

その時 犠牲としてささげられた物も

ブラハマン(神)である。 

ブラハマンは犠牲祭で使われる火でもある。

その火に投げ込まれ、捧げられる供え物も 

ブラハマンだ。 

行動とブラハマンとが一つであると自らを

律して知る人、その人こそ、ブラハマン神

そのものだ。“

 

犠牲を捧げる人、捧げられる対象物、どちらも、

神なのである。

クリシュナの、この言葉はある聖者が語った

言葉を思い出させる。


それは、ガンジス川で早朝、昇る陽を崇めるため、

川に入って身を清め、川の水を両手で救い、

太陽にかざし、川に戻し、花を捧げ、祈りを

口ずさむ人たちを 目の前にしての、聖者の

次の言葉だった。


“あの川の水は、神の恵み、花も神の恵み、

彼らは、神にそれらを捧げているつもりだが、

与えられたものを返している行為にしか

過ぎない。 


が、彼らの神に対する、厳粛な愛に満ちた心

だけは、神は受け取ることができる。

それこそが、彼らの中に普段は眠っている、

神聖な神意識、ブラハマン意識、あるいは、

アートマ意識だからだ。

神と彼らはその点で繋がれ、一体である。


それを知ることこそ、この修行(朝の早朝沐浴)

の大きな目的なのだ。”と。

日没, 風景, アッサム, インド, 自然

 

犠牲を与える側、受け取る側、その犠牲と

なる対象、犠牲を捧げようとする心、

すべて、結局はブラハマン、神そのものの

現れであると クリシュナは教えている。


そこには 個(こ)の意識 はない。 

すべての要素~人、犠牲にするもの、捧げ

られる対象、その時に使う道具などは 結局、

あらゆるところに存在するという普遍の

神の心の中に渾然一体となっているのだ。


それを知れば、犠牲的行動に伴うときの、

”自我意識”がないから、犠牲にともなう

悲壮感もない。


無我の境地で愛をもって相手に奉仕すること、

それが、犠牲的行動、つまり、クリシュナの

意味する”sacrifice"を意識したアクションと

いうことなのだろう。 

 

ところで、犠牲祭で使われる火、火は、儀式

において重要であると同時に、無用な資質を

焼き払うということで、浄化の意味を持つ。


日本の仏教にもこの影響が見られる。 

護摩業(ごまぎょう)だ。

不浄を清めるために薪を組んで古いお札など

を燃やし、その煙にあたることで身心の不浄

を清めるという仏事である。

 

最後に、この章でクリシュナのいう、この

ヨガ(表記タイトル)の言葉、Jnanaという

言葉について。 


これは、真理に直結する叡智を意味する。

クリシュナは、この叡智を その浄化の火に

喩えて 次のように アルジュナに聞く;

In this world there is nothing that purifies 

thought, word and deed the same way as the

 Fire of Wisdom, is there?”

訳 この世で、想念 言葉 行い を清める

ために ’智慧の火’以外のものがあると思うかね?“

 

叡智 の火、つまり、ジャナーナを取得すること

で 思い・言葉・行動を清めることが可能なのだ。


その智慧は何を指しているかといえば、

行動する際、執着の無い行動、犠牲的行動、

ブラハマンと犠牲、捧げる方も捧げられる物も 

すべて 普遍に満ちている、ブラフマン

の現れである~と知ることだろう。


’私が’、’私のために’、という時に使う’私’、

言い換えれば、エゴ意識も ’神と私’という感じ方、

つまり、自分と神は対極にあり、別の存在である

という二元意識すらもそこにはない。


冒頭にクリシュナが述べた、結果を求めない 

という意味もつながる。

無私で行う行為はそれ自体のプロセスが尊い。


こういう結果を持とうという目的をもって行う

(アクションする)ことは、すでに、その時点

で、欲と自我 が入り込んでくるからである。

 

それを知ることが、ここでいう、Wisdom

(智慧)、つまり、サンスクリット語で、云う

ところの ”ジャナーナ”なのだろう。

 

こうして、ギータ4章で、クリシュナは、

“Jnana智慧、Karma 行動Sanyasa 犠牲に基づく 

ヨガYogaha(神と一体になるということ)

が 如何なるものかを アルジュナに説いた

ことになる。

 

 

 

 

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