インド古典音楽とヴェーダの一元論との関係 2017.7.20
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Indian Classical Music and Non-dualistic Philosophy
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”Musical sound is produced by physical organ
or instruments.
Through its physical vibration is sometime
regarded as a material reality which is perceived
by the sensory organs.”
ここで、インド古典音楽を通じて、ヴェーダの
一元論的哲学との結びつきに話題が変わる。
上の部分を訳すると
“音楽的な響きは、体の機構(声帯など)か、
楽器を通して生まれる。
ここで生まれる物理的な波動は 我々五感感覚機能
に翻訳されて、物質的に存在するという認識が
なされる。”
としたうえで、
“According to the Vedic Philosophy, however,
music is not mere concept that exists outside
the Infinite Being.
訳)
ヴェーダ哲学によれば、音楽は無限なる存在の
外枠にある概念ではない。
と五感の感覚で表現される音楽、特に、古代古典
インド音楽に対して、ヴェーダ哲学の教えの枠の外に
でるものではないとここでいう。
つまり、先回お話したように、古代インドでは、
音楽は神に捧げる、聖なる魂的な波動であり、
単純に、楽しみや気分高揚の手段ではないと
みなされてきた。
In this regards, Dr.S.N.Ghoshal Sastri says about it
“Sound and sense is based on the duel-non-dualistic
theory, and letter A to Z are considered the visible
form of the invisible sound.
The poet Kalidasa worshipped the eternally united
duality of Vak(sound) and artha(sense) as
to the parent of the Universe.
Sound and Sense are virtually the first manifestations
of the unevolved whole. …
The scholastic school of Indian aesthetics relish it
as Two-in-One, or the eternally united parents of the
Universe, symbolized in ‘Uma Mahesvara’.
訳)
この点に関して S.N.Ghoshal Sastri博士は次のように
述べている:
“音と感覚は 不二一元論説への闘いをベースにしている
ようだ。
それは、AからZまでの視覚でとらえる文字が、
視覚でとらえられない音という形で表されるように。
詩人Kalidasaは、Vak(音)と、artha(感覚)の二元性
を統一した宇宙の生みの両親として、崇拝していた。
音と感覚は、実質的な‘Unevolved whole’
(変容なき統一体)の物質化したものである。
インドの美学の一派 スコラスティック派はこれを、
two-in-one(二物合体)、もしくは、
´ウマ(女神)マヘーシュワラ(シヴァ神)
’に象徴される、宇宙の生みの親の永久的結合と呼ぶ。
余談だが、ここでいう宇宙創造の造は、陰陽の結合
であり、それが、ウマ女神とシヴァ神に象徴されている。
日本の超古代神話 “ほつま伝え”でも、宇宙創造は
陰陽の考え方が根底にあり、キリスト教などの
一神(いっしん)的な宇宙創造とは異にしている。
東洋的な思想や哲学の原点に陰陽論が欠かせないのは、
このあたりからすでに、端を発しているのかも
しれないなどど思う。
一元論、つまり、二者は存在しない、ヴェーダ哲学に
two in one という例外を認めているところは興味深い。
否、むしろ、一元的な見方をするがゆえに
two in one どころではなく 、thousand in one という
表現も可能かもしれない。
二つが一つではなく、千も一つ、万も一つ、
無限数も結局は一つのOne
に帰結すると考えるところが、一元論の特性だ。
私たちの体と心は一つ、あなたと私も一つ、だけ
ではなく、無数の森羅万象と私も一つ、無数の
他者と私も一つ、ということなのだ。
砕ける波のさざ波を数えれば限界が無いが、
そのさざ波を生んでいる海は一つだし、惑星の
数は限りないが、その惑星を包んでいる宇宙空間は
一つであるのと同様かもしれない。
さて、冒頭の音楽とヴェーダの関係に戻ると、
“Another aspect of Dual-non―dualistic relation
between man and the Omnipresent Being can
be seen in devotional music.
The devotional music is a statement of surrender
and dedication to the Real Being.
The important point is that through music people
seek for realization and enlightenment.
They expect a spiritual union with the Omni Present,
dedicating music with devotional heart and
pure love to Universal consciousness.”
訳)
一元論的であり、二つの対象をもつ関係、つまり、
人間と永劫的な存在、との関係は、聖なる音楽の内
に見られる。
神に捧げる賛歌でもある聖なる音楽は、 人間からの
真なる存在に対する全面降伏と捧げる気持ちの
表現である。
大切なことは、人は、こうした音楽を通して、
悟りの境地に達することを模索し続けてきたと
いうことだ。
至高なる存在とのスピリチュアルな繫がりを、
宇宙意識への敬虔なる心と
純粋愛をもって、期していることだ。
インドで庶民に支えられている宗教には、バジャン
と呼ばれる讃美歌は古くから存在していた。
古典音楽ではまだ楽器が発明される前から、
ドゥルパッドと呼ばれる形式で、崇高なるこうした
宇宙意識への人の意識が交わる極点を模索されていた。
後世、本来は、音楽を禁じているモスリム教が
インドに伝わったとき、スーフィー派と称される宗派が
インドでは広まり、キルタンと呼ばれる
一種の讃美歌が造られ、信者に歌われた。
上の節での真意は、こういうことだろう。
“When a man achieves beauty of music he fulfils
the ambition to be one with the Supreme Bliss.
In other words, ‘duality in non duality’ is also
achieved because ‘ he and He’(duality) becomes
one(non-duality)at that moment.
訳)
人が 音楽の美を達成したとき、最高級の至福に
満たされたいという要求は満たされる。
それは、言い換えれば、‘一元性の中の二元性’が、
実現したということだ。
なぜなら、その時、‘その人と神’という二元的区別は
一元の中でなくなり、両者は一体になるからだ。
すべては神の現れであると聖者は言う。
インドの古典音楽の美学にとっても、同じことが
言えるだろう。
“We may say the beauty of Indian classical music
manifest is He alone.”
インド古典音楽の美とは、’神’の具象化したものと言えるだろう。
当時デリーにての演奏会で・・