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自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

エミール大師が同席のもと、イエス幽体出現

2013年11月09日 | 健康と直結する”一元論”について

 我があるところ汝もまたあり の意味   

平成25年11月9日

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しばらくご無沙汰していたエミール大師、

ヒマラヤのヨギ達の登場です。

今日から数回にわたって、ヨギ(大師)

たちの前に登場するイエスの幽体から調査団

が話を聞いた内容が続きます。


ノンフィクションと証明するのには

難しさを認めます。

フィクションとして読んでいただいても十分 

参考になる意見が提示されているので

引用いたします。

 

著者はしがきから

わたしは1894年に、極東を訪れた11人の

調査団の一員であった。

3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤの大師

たちに接触した。


大師は私たちが 偉大なる法則の働きを実証

されるのを、実際に見るために、

大師がたの生活の中に親しく入り込むこと

を許してくれた。


私のノートを今ここに、“極東における、

大師たちの生活と教え”と題して、

発表するが、そこに盛られた内容をそのまま

受け入れるか、否認するかは、

読者の自由である。

 

 

ヒマラヤの大師が、アメリカの調査団に 

彼らの信仰対象である、”イエス・キリスト”の

この世=地上に生まれた理由とそのミッション

とを説明していた。

                      

ヒマラヤの大使は語っていた。

”貴方がたの歴史の中、イエスほど傑出した

人物はいません。


貴方がたの現在使われている年代は、

イエスの誕生前(B・C)と

誕生後(A.D)とにわけて、数えている

ほど、その影響力は大きい。


大多数の人びとがイエスを偶像化しています

が、そこに誤りがあります。


イエスは偶像ではなく、理想でなければ

ならないのです。

 

 

彫像にするのではなく、真実の生きた人で

なくてはならないのです。

というのは、イエスは十字架に処刑せられた

のままの体をもって、

今日生きておられるからです。

 

あの十字架にかかる前と同じように、イエスは

今でも 生き、かつあなた方に語ることが

できるのです。


多くの人々はイエスの生涯は、十字架の上で、

悲しみと死の中に終わったものと思い込み、

イエスの生涯の大部分が、実は復活の後に

あるということを、完全に忘れ去っている

ところに大きな誤りがあります。


イエスは前よりもはるかに多くを教え、かつ、

癒すことができるのです。

貴方がたがそのつもりになりさえすれば、

彼の臨在の中に入れるのです。


 儚い地上界に住んでいたときは、ごく

わずかの少数のひとにしか接触できなかった

けれども、今ではかれを求める人々すべてに

接触することができます。


我があるところ、汝らもまた在りとはイエス

言葉ではなかったでしょうか。


これは、わたしどもが死ななければ行けない

天国という場所に キリストはいるという

意味なのでしょうか?


否 貴方がたのいるところ そこにキリストは

居給うのであり、あなたがたとともに語り、

ともに歩むことができるのです。


もし、あなた方の心と想いが真剣にイエス

に向かっていればイエスが見えるはずです。


そうして、イエスとともに歩み、ともに

語れるでしょう。”

 

ここで、大師は話を止めた。そして一同は

深い沈黙に浸った。


 

すると、今までにに見たことのないような輝き

が部屋中を照らした。

それとともに、声も聞こえた。

遙か遠く、定かではない音のようでもあり、

一同は一斉にその声のような音に注意を

ひきつけられた。調査隊の一人はこう 

綴る。

                                   

”それは遙か、かなたの定からぬ声のようでも

あった。

私たち達がそれに注意をひきつけられ、思い

がそれに向けられると、

声は非常に明瞭になり、やがて澄んだ

鐘の音のように響きだした。


’お声のなさるのは誰方でしょうか?’

一行の誰かが訊ねた。


すると、隊長が、’静かに、私たちのあの敬愛

してやまぬ、イエス様だ。’


すると、大師の一人が’その通り、イエスです。’

と裏書した。”

 

ついに、調査隊はイエスの心霊と話すという

意表を突く 突然の光栄に出くわす。


イエスと称される、この声の主は厳かに

話だした。

 私は、’我は道なり、真理なり、生命なり’

と申したが、それは何も私だけが

唯一の光だと、世界に広告するつもりでは

なかった。


 ’神の霊によって、導かるるものはすべて、

神の子なり’


’我は全き神の子、父は神なる喜び給う神

の一人子なり’

とも申したが、それは無数の神の子らの中の

一人(つまり、イエス自身)が 自らの神性を

悟り、そのことを公に宣言したまでだ。


すべての人にあてはまる事実であることを

身を持って、教えるためだった。


これまで多くの人が私を見ずじまいで

終わったのは、私を聖壇の上に祀りあげ、 

近づきがたい狭い場所に押し込めて

しまったからである。

 

彼らは私を奇蹟と神秘とで取り囲み、

その上に私が愛してやまない心の純粋な人達、

貧に甘んじている庶民より、私を遠ざけて

しまった。


私は これらの一般大衆庶民の人達を、を

言葉では言い表せないほどに

愛しているのである。


彼らはわたしから離れたが、私は彼らから

身を退いたことはない。


彼らは幕や壁や仲介者をたて、また、私や

私の愛する近親者の像(注:聖母マリアのこと)

まで彫って押し立ててしまった。”

 

以上、イエスの言葉としてアメリカの

調査団は書き残している。


さらに もし、調査団がインド人たちだったら 

ヒマラヤの大師の前で、

きっと イエスの代わりに、クリシュナ神が 

出現しただろうと付け加えている。


誰が現れたのが問題ではなく、その聖者の語る

メッセージの真意をくみ取る

ようにという 全能者の意図があると

調査団は手記している。

 

もし、クリシュナ神が現れても、同じ内容の

言葉を 調査団に送っただろう。


なぜなら、クリシュナ神も実在の人物である

とされているが、神殿の奥に 崇拝される像

として”押し込まれてしまった一人だからだ。

 

イエスは今でも生きていると大師はここで

述べている。

ヨガナンダ師も、著書”あるヨギの自叙伝”の

中で、師のマハ・グルヒマラヤのババジが、

キリストの幽体とともに、この地球の不浄

清め、人の魂を昇華させるために、現在でも、

一緒に仕事されていることを書いている。


             

 

イエスもブッダもクリシュナも、決して、神殿

や教会の祭壇の、像の中に

押し込められて満足はなさっておられない。


彼らの生涯かけて示した真理、すなわち、

”私たちの本性が愛深い、限りなく神人に

近い存在である”ということに早くより

多くの人達が、気が付くことを願って

おられるのだろう。

 

参考)

 ヒマラヤ聖者の生活研究―

自由自在への道 全5巻

S54年6月5日第五版 

ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

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