死とはなんだろう? 平成25年2月23日
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まだ 私が、小学生だった頃か?眠りにつく前、父とよもやま話をしていた。
何故か、死について、父に聞いた。
父は、” 死? 永遠の眠りだよ。寝ているのと変わらないよ。”と答えた。
その父も 7年前 他界した。
父に、死 とはなんでしたか? と聞きたいが、その応えはかえってこない。
死 について、大きくわけて、二通りの答えが考えられる。
父 のように、死 とは意識の消滅であり、深い眠りのようだという答えと、死 は、肉体を脱いで、本来の魂意識に帰る とする、答えだ。
実際は、死 を眠りに喩えてみても、明らかに違うことは、眠りには、覚める という暗黙の了解があるが、死 には、永遠に自己意識が消滅する ということだから、覚めるという期待はない。
そういう考え方を 徹底させると、人 は唯物主義的 になるのだろう。
たった、一度の人生、感じたように、欲したように、悔いが残らないように 思ったまま生きなければ、損だ という感覚が 命を唯物学的にとらえた場合、自然に湧いてくる。
その ”思うまま、感じるまま” の人生の歯止めとして、社会的モラルや宗教が生まれた~と思っている方も多いかもしれない。
死 を考えるとき、ムーディー博士の研究資料を題材に選んだ理由は 二つある。
それは、博士が哲学の博士課程を終了しているだけでなく、メディカルドクター(医学博士)であることに起因する。
医学博士として、死 に対して、オカルト的なアプローチではなく、あくまでも、医学的臨床現場の実例をもとに、死後の世界 の研究に打ち込まれたこと、
さらに、博士が哲学を深く学ばれたことは、死や、真理へのアプローチは 一つの宗教に固執することなく、さまざまな精神的分野の角度でなされたこと。
この二つだ。
博士は、キリスト教の家庭で教育を受けたが、”私は、すべての宗教には偉大な真理が含まれていると思う” という博士の言葉にそれが示されていると思う。
博士が何故 死後の世界に興味をもたれたかは、その著書に記されている。
1965年、ヴァージニア大学で博士が精神医学を学んでいたときの恩師が 2度の臨死体験をしていて、”死んだ” 時の体験を、語ってくれたことに端を発する。
医学的にみれば、肉体の死=意識の消滅 を意味する。
それにもかかわらず、死 を体験して、その後の世界を垣間見たという体験話を自身の精神医学の師から聞かされたときの、博士の驚きは想像できる。
次の ”きっかけ” は、博士がノースカロライナ近くの大学で、哲学の教鞭をとっていたときだった。
プラトンの’ファイドン’をテキストに、霊魂の不滅をテーマ に授業していた。
何人かの学生たちが、臨死体験の発表をする。
その発表の内容が、以前、聞いた恩師の ”臨死体験”とあまりにも類似していたという。
其の後も何人もの学生たちが、死の体験をしていたことを、クラス後に 博士のもとへ、報告に来た。
博士は、当時、数クラス受け持っていたが、一クラス30人の学生の中で、どのクラスにも、最低一人は、自分の死後の世界の体験を語ったという。
死後の世界を体験した人たちの 宗教や宗派、社会的地位、学歴 など、それぞれ異なっていても、それらの体験に、類似点があることを、その後も 博士は興味深く とらえていた。
こうして、医学界に、博士はそれらの研究を少しづつ、発表することになる。
そのうちに、知り合いの医師たちが、自分の持っているデータを、博士に提供するようになった。
こうして、博士は体験例を150 ほど、集めたのだ。
それは、
1.担当医が臨床的に死亡判断(宣告)をした後に蘇生した実例
2・大事故などで瀕死の状態にはいり、物理的に肉体が死に行く過程の体験。
の二つに分かれる。
続く~
参考:
”かいま見た死後の世界” レイモンド・A・ムーディ・Jr.
中山 善之訳 評論社 昭和58年
レイモンド博士について: バージニア大学、
大学院で哲学専攻
1969年 哲学博士号取得、
3年間 ノースキャロライナ東部の大学で教鞭をとる。
1972年 バージニア医学大学に入学。医学博士号を取得。
1965年 死後の世界の体験談を聞き、その後、
死後の世界体験者に面接。 特異な分野研究を行い
今日に至る。
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