89歳の日々

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万葉の歌は強し!(美山・宮島・鞆の浦・二上山の旅)

2012-05-27 21:20:30 | 国内旅行

      (二上山の頂上に葬られた大津の皇子の墓)

8世紀に万葉の歌人が詠んだこの二上山・500m余りを妹と登って参りました。
若い時から待ち望んでいた大津の皇子の静かな墓所に詣でて来ました。

「貴女達も大津皇子の会いに来られたのですか、四国から、九州からも
日本全国からも来られますよ。有難うございます」
5月の新緑の美しい山登りの途中で地元の方に言われました。

天武天皇の皇子・大津皇子は特に聡明で体も大きく壮健、文学の才能もあり
我が国最古の詩集{懐風藻」にも幾つかの漢詩を残しており、宮廷でも
もっとも人気のある皇子と言われておりました。
しかし、天武天皇が亡くなられるとすぐ、次の持統女帝は病弱ながら我が子の
草壁を皇太子に立たせる為、大津皇子を謀反の容疑で処刑します。(686年)

ももづたう磐余の池に無く鴨を今日のみ見てや雲隠れなむ”

この様な淋しし辞世の歌を詠んで25才の未だ若い大津の皇子は亡くなりました。
政権の争いで、死んで行く事は歴史上、珍しい事ではありません。

でも、1200年余の後の人々が未だに大津の皇子に哀れを覚えるのは
彼の姉・大泊皇女(おおくのひめみこ)の万葉集に残る優れた歌に依ります。
大津皇子は死がまぬがれない事を知り、伊勢の斎宮になっている姉を
秘かに訪れ今生の別れを惜しんで帰ります。

”二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君が一人超ゆらむ”
”わが背子を大和へやると小夜更けて暁露に我が立ち濡れし”

弟が死ななければならない事を知りながら大和に送りだす姉の
哀切な歌が万人の胸を打ってきました。
そして弟の亡くなった後で、二上山の頂上に葬られた弟を思い・・・

うつそみの人にある我や明日よりは二上山を弟世とわは見む”
”磯の上に生える馬酔木を手折らめど見すべき君がありと言わなくに

大津皇子の妃・山辺皇女が「髪を乱し裸足にて走り寄って殉死した」という
これ程の事実も大泊皇女の歌の前では影が薄くなっています。
姉・大泊皇女の万葉集に残る歌の力の偉大さに驚かされます。


     
(鞆の浦の「対潮楼」からの眺め・・・朝鮮通信使は「日東第一形勝]と言う)

福山の鞆の浦にも行って来ました。
ここの観光には万葉の歌については特記されていませんでしたが・・・

吾妹子が見し鞆の浦の室の木は常世のあれど見し人ぞなき”
”鞆の浦の磯のむろ木見るごとに相見し妹は忘らえめやも”

大伴旅人が大宰府から京に帰る途中、鞆の浦を通った時に歌ったものです。
大宰府に赴任する時に、妻と一緒に見た室の木(杜松)に変わりはないけれど
いま妻はこの世にはいない。室の木を一緒に見た妻を忘れられるだろうか! 
と嘆いた有名な歌が作られた処です。

今回は万葉に歌われた2か所を姉妹で訪れる事が出来ました。
8世紀中葉に4500首の秀歌を収めた万葉集は日本が世界に誇るものでしょう。

    *   *   *   *    

鞆の浦の観光案内でまず「福禅寺」に行くように勧められましたが、
思いがけずここは、朝鮮通信使の宿泊所で有名な「対潮楼」でした。
この「対潮楼」は1680年代には78畳の使館が作られ、風光明美なことから
「日東第一形勝」と称えられ、現在もこの扁額や各朝鮮の文人たちの墨蹟が
お寺に残っておりました。

通信使達にはとても人気があった様で、他のお寺に泊まらせられた時は
大変怒り、船に引きかえしたこともあると言います。
李進煕「江戸時代の朝鮮通信使」にはそれらの事が詳しく書かれています。

 


 


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