89歳の日々

home: http://kutani-mfg.jp

万葉集を読む:  恋の顛末「佐用姫と佐堤比彦」

2023-07-06 11:26:59 | 万葉集

写真は唐津市の鏡山にある「佐用姫の像」

万葉集を読む:  恋の顛末「佐用姫と佐堤比彦」


万代に語り継げとしこの嶽(たけ)に 領巾(ひれ)振りけらし松浦(まつら)佐用(さよ)姫(ひめ)
新羅に船で出兵した恋人佐堤比彦(さでひこ)との別れを惜しんだ佐用姫は上記の様に丘の上で七日も領巾を振って悲しんだと歌われ万葉集では佐用姫については山上憶良などの八首が有ります。佐用姫伝説等では彼女は悲しみのあまり石になったと言われ、その後も沢山の歌が作られ謡曲や軍記物などにも取り上げられ現在も唐津市の鏡山は歌の名所で有名です。  
佐用姫の恋人のその後は?
その恋人の大伴佐堤比彦についてはほとんど知られていませんが、七二〇年完成の日本最古の正史「日本書紀」に“五三七年冬十月、天皇は新羅が任那に害を加ええるので大伴金村連に命じてその子狭手彦を使わして任那を助けさせた。狭手彦はかの地に行って任那を鎮め又百済を救った。更に五六二年八月天皇は、大将軍大伴連狭手彦を遣わし数万の兵をもって高麗(高句麗の事)を討たせた。狭手彦はこれを撃破し沢山の武器、珍宝を得、美女二人を蘇我稲目に贈った“等との記事があります。これらは氏族伝承を原資料とした説話的物語と言われます。
百済とは古代から特別に深い関係が有ったと思われ石上神宮に納められている「七支刀」には、百済王の世子が倭王のために作らせたと言う由緒と、我が国の歴史における最初の絶対年代(泰和四年)三六九年が刻まれております。
佐堤比彦が出兵した以前の五二七年には、倭国が新羅から金官国を守ろうとした継体朝の進軍に対して北九州の磐井が阻止し、いわゆる「磐井の乱」を起こしています。
当時半島では、高句麗、新羅、百済の三国の他に加耶諸国が存在しましたが、新羅は五六二年までに次々と加耶諸国(金官国・任那等)を滅ぼし、倭国は重要な同盟国も失いました。
対馬から韓国の釜山は五十㎞程で肉眼でも見える距離にありますし、万葉の時代の朝鮮半島と倭国は人と文物の往来が最も活発な時代でした。
遠(とお)つ人松浦(まつら)佐用(さよ)姫(ひめ)夫(つま)恋(ごい)に領巾(ひれ)振りしより負える山の名
 日本三大悲恋物語は羽衣伝説、浦島伝説、そして佐用姫の物語との事です。万葉集の八首の歌では佐用姫が石になったと言う事は何処にも書かれておりませんでした。
それでは何時から佐用姫が石になったかと言うと、室町時代の連歌書や物語本からであると調べられています。もともと中国に夫を慕って死して石になった「望夫石」と言う有名な詩が中唐の王建にあり、日本でも平安末期にはこの故事が歌学書で紹介されているそうです。これらから後に佐用姫が石になった伝説が作られたと思われます。
さてこの恋の行方は・・
“英雄は死なず“と言いますが、福岡県東部にある行橋市の「豊田別別宮天八幡宮社務神家系・本姓大伴」家の家系は欽明三年(五三三年又は五四二年)頃から現在までずっと続いていて、この豊田別神宮最祖の牟祢奈里(むねなり)は父が大伴佐手彦、母は佐用姫でその三男と言われます。万葉の時代には彼女は石にはなってはいず、佐堤比彦氏と佐用姫の間に少なくとも三男まで儲けていて、その家系が今日まで続いているとは何という信じ難い恋の顛末でしょう!
(万葉集では佐堤比彦、日本書紀では狭手彦及、神官家系図では佐手彦と書かれています)






万葉集を読む   「万葉人の平城京での生活」 

2023-07-06 10:35:02 | 万葉集


万葉集を読む  
「万葉人の平城京での生活」        
万葉集では柿本人麻呂の90種近くある歌も第9巻で最後になりこれらを以て「平城万葉」の時代に入ると云われますので、万葉人はこの時代をどんな生活をしていたかを探りたいと思います。
「平城京」は文武天皇の707年から審議が始まり元明天皇の時に藤原京から710年に遷都されました。約4キロ四方の小さな区域ですが、遣唐使も往復して中國でも最も盛んな唐時代の影響が強く、天智・天武の時代が終わりその皇女・皇子たちの新しい時代です。

観光にこの平城京跡に参りますと約4キロ四方の都は北の中央には極彩色の立派な大極殿正殿 高さ27m(ビルで7階位)幅44mが聳え真っ直ぐ南に伸びる道路は75m幅程で(現在の24車線程)、南の端には朱雀門高さ20m幅25mの朱塗りの大きな門が復元されています。平城京跡の池には遣唐使の船も造られて乗ってみる事も出来ます。
 遷都と同時に薬師寺、元興寺(716年)、興福寺等も移転し、東大寺(751年)、唐招提寺(759年)等の現在でも見られる豪壮な寺院が周りに作られました。狭い都に釣り合わないほど広い長安風な道路、豪壮な社寺や公の建物が散在した都でした。

大化改新に依って天皇中心の政治が始まり唐の律令制を鑑み自国でも大宝律令(701年)などに依って国家の根本法案が出来始めます。都にはこれらを作成した天皇や官吏の為の内裏、大極殿、官舎が先ず整備され、当時五位以上の人が約百数十人居て、彼らには少なくとも1町(300坪)の土地が与えられ檜皮葺き又は茅葺き屋根で高床式の家が作られました。奈良は6万人~20万人程の人口と考えられ其の内の官人は約1万人でこれらの文章を書ける人々が万葉集の主役ではないかと思われます。その役人になるには試験がありましたが試験に合格するのはとても難しい上に五位以上の公家になった人は400年で僅か10%ほどでした。親が高位の子息は自然に位が上がり有利なため位が高値で売買されました。その役人の就業時間は夜明け前の午前6時半から正午頃迄でした。

一方庶民の家は地面を数十センチ掘り下げ、柱を立て茅葺き屋根でその穴全体を覆った掘っ立て小屋の家が多かった様です。律令制により中央集権とその税制に依って人々は米と労力と特産物を納めるようにしっかりと組み込まれ庶民の生活は困難が伴いました。
この都を建設する労役には一日米八合塩1勺(1合の1/10)が与えられますが雨の日はそれが半分でした。朝から夕方まで毎日働き夏は2時間ほど昼休みがありました。「人々の逃亡が多く、禁止しても留らない」(続日本記巻4)と記録され逃亡者は1日に付き鞭30回でした。故郷に帰る時の食料は与えられず途中の路上で死んで行く人に、人麻呂もその死者を見て「誰の夫であろうか家では待っていように」と心打たれていますが、壮麗な都や寺院の建設には多く労力と資金が必要で多大な犠牲を伴いました。農民は過酷な支配から逃れるために浮浪や逃亡が増え農地が荒廃し、732年には三世一身法などにより土地を開拓した場合は三世代保有できる法が作られました。

庶民の着類は麻の貫頭着で頭からすっぽりかぶり膝丈位のもので殆どは裸足でした。袷の場合は紐や帯でしばり寒い時は綿入れも着ました。貴人や上流階級の人達はズボンやスカートを穿き絹の織物や染めも使われる様になり男女ともに律令で決まりのある唐風な衣服を用いました。

食事は米、粟、稗、麦、芋類、大豆、小豆、木の実、茸類、魚、貝類の他に酒や麴などの発酵食品もありました。平城京の東西には官に管理された市が立ち様々な品物が持ち込まれ708年に発行された和同開珎が急速に用いられ貨幣経済が進みました。

当時の識字率は2%程かと考えられており、読み書きが出来る人達は万葉集にあるように歌に依って求婚出来ましたが、大部分の人は神社やお祭りの時に直接に男女が知り合いました。いずれにせよ結婚や同棲は主に個人の意思に依った時代と思われます。
この様に暮らしの一部ながら平城京での彼らの生活を述べました。  2023年5月

万葉集を読む:  「万葉の恋:中臣宅守と狭野茅上娘子」

2023-02-20 10:21:40 | 万葉集

                      
   福井県越前市味真野に在る万葉館での二人の和紙人形

       万葉の恋:中臣宅守と狭野茅上娘子

情熱的な恋の歌に魅かれ万葉集に興味を持たれた人も多いのではないでしょうか。万葉の中でも、中臣宅守が越前に流罪され、妻の狭野茅上娘子との離別の間に交わされた63首の熱烈な恋の歌が有名です。

相聞歌

あしひきの山路越えむとする君を心に持ちて安けくもなし (15-3723狭野茅上娘子)

(辛い山道を越えて行こうとするあなたの姿をずっと心に持ち抱えたままで、私は安らかな気持ちになる時はありません)

君が行く 道の長手を繰りたたね 焼き滅ぼさむ 天の日もがも (15-3724狭野茅上娘子)

   (あなたが行く長い長い道を、手繰って畳み焼きほろぼしてしまう天の火が欲しいのです)

我が背子が帰り来まさむ時のため命残さむ忘れたもうな(15-3774 狭野茅上娘子)m

 (あなたが帰って来られる時のために命を残しておきましょう。お忘れにならないで下さい)

塵(ちり)泥(ひじ)の 数にもあらぬ我ゆえに 思い侘ぶらう 妹がかなしさ (15-3727中臣宅守)

 (塵や泥のようにつまらない、物の数にも入らない私にために辛い思いをしているあなたが愛しい)

吾妹子に恋ふるに吾はたまきはる短き命も惜しけくもなし(15-3744中臣宅守)

 (私の妻を恋するためには、この短い尊い命も惜しいことはない)

命あらば逢うこともあらむ吾がゆえにはだな思いそ命だに経ば(15-3745 狭野茅上娘子)

 (命さえあれば再びお逢いすることも出来るでしょう。私のためにひどく思い煩わないで下さい。命さえ続いていましたら)

逢わむ日を その日と知らず常闇に いずれの日まで 吾恋ひ居らむ (15-3742中臣宅守) 

(ふたたび逢う日を何時とも知らず、永遠の闇の中の様な真っ暗な気持ちで私はいつまで恋に苦しんでいるのだろうか)

帰りける 人来たれりと言いしかば ほとほと死にき 君かと思いて (15—3772狭野茅上娘子)

 (赦免されて帰った人が都に着いたと伝え聞いて、あまりの嬉しさに死にそうでした。貴方かと思って)

万葉集15巻の目録

この様にお互いに命をかける程の情熱的な恋は1300年後の今日に至っても人の心に強い感動を与えておりますが、彼らに就いての唯一の文献は万葉集15巻の始めの目録に依り、下記のように書かれています。

  「中臣朝臣宅守の蔵部の女嬬(にょじゅ)狭野茅上娘子を娶る時、勅して流罪に断じて越前国に配す。ここに夫婦別れることの易く、会うことの難きを相嘆き、各々慟(いた)む情を陳べて贈答する歌63首」

この15巻の特色として歌の前に目録が書かれていてその目録の詳細さが特徴として挙げられています。本文より詳しい中臣宅守の配流についてもこの目録によって初めて知らされ、目録と本文が同時に作られたとする諸学者の説はこの15巻を根拠にしております。

中臣宅守について

先ず中臣宅守の歌に「塵や泥のように物の数でもない私」とありますので、彼の身分が低かったのではないかと思われました。

しかし中臣宅守の祖父の中臣意美麻呂は藤原鎌足の娘を娶った婿養子で、鎌足の実子の藤原不比等が成人するまで藤原氏の首長で、位も正四位上・中納言でした。宅守の父の中臣東人は従四位下で母は藤原鎌足の娘の子でした。宅守は父・中臣東人の7男に生まれましたが、祖父も父も貴族で昇殿を許された殿上人でした。更に中臣宅守の叔父の中臣清麻呂は万葉歌人で右大臣でもありました。

中臣宅守自身は740年に一時越前国に配流された事もありましたが、その23年後の763年には従5位下に序されています。従5位以上は昇殿を許されている中級貴族で比較的大きな国守(現在の知事)にもなれる高級な地位でした。宅守は祖父からの家柄も官位も非常に高く、彼自身も昇殿も許される殿上人の貴族と言う相当な高位に登った人でした。

狭野茅上娘子について
狭野茅上娘子は万葉集の目録に依れば「蔵部の女嬬(にょじゅ)」との記録が有るのみですが、女嬬は宮中の女官に依って構成される内侍司に属し、上から尚(ないしの)侍(かみ)2名、典(ないしの)侍(すけ)4名、掌(ないしの)侍(じょう)4名、その一番下に女嬬が100名となっていました。蔵部(後宮十二司の蔵司かと思われる)は大蔵省の下級職員で出納を行う人達です。彼女は大蔵省の出納を行う役所で掃除や照明を灯す等の雑事をする下級女官だったと思われます。娘子の生没年齢も分かりません。

配流の理由
人の事が分かる唯一の文献の目録に「娶る時、勅して流罪に断じて越前国に配す・・ここに夫婦別れる・・」とあります。これによると「彼らは夫婦であったが結婚するときに流罪にされた」様です。配流の原因は確かではなく、ある説には安守が禁忌を犯して彼女を娶ったためとか又は、政情に絡むのではないかと推測したり、宅守の重婚罪としたりする色々な説がありますが、いずれにせよ配流の正確な理由は分かっていません。

配流地へのルート
流罪地へは平城京から越前までは北に向かって奈良山を越えて山城の国に入り更に逢坂山を越えて近江の国にから琵琶湖の西側を進み琵琶湖の北にある愛発山(あらちやま)を越えて北上し越前国に入るルートを取ったものと思われています。愛発山には古代3関の一つ愛発関があり超えるのには難儀なところでした。

味(あじ)真野(まの)に 宿れる君が帰り来む時の迎えを 何時とか待たむ (15—3770)狭野茅上娘子

この歌に依って宅守の流刑地は味真野で、現在の越前市味真野とされ、奈良からここまでは200キロ弱の距離でした。味真野には飛鳥時代からの野々宮寺院跡の遺跡から東大寺などの瓦によく似た瓦が出土しています。宅守はこの様な所に配流されていたのではないかと考えられます。

 配流の期間
740年(天平12年)6月の大赦には「赦の限りにあらず」と許されませんでしたので、罪されたのはその前年739年2月の大赦以後であったと思われ、741年の大赦で帰京したものと推測されています。そうであれば約2年間前後の配流期間かと思われます。

その宅守
宅守はその20年程後の763年には従五位下に叙せられ殿上人の貴族の地位を与えられています。然し翌年764年には藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱に連座して除名されたと「中臣氏系図」にあります。

藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱
764年,藤原仲麻呂(恵美押勝)が道鏡を除こうとして起こした反乱。仲麻呂の
庇護者であった光明皇太后の没後,その権力は衰え仲麻呂の擁立した淳仁天皇と、道鏡を寵愛した孝謙上皇の不和を契機として,仲麻呂が権勢挽回をはかって道鏡を除こうと挙兵しました。しかし仲麻呂は近江で敗死し鎮圧されました。この乱後淳仁天皇は淡路島に幽閉され、孝謙上皇は称徳天皇と重祚しました。

晩年の中臣宅守
従5位の高官である宅守がこの藤原仲麻呂の乱に参加したのは決断力も強かった様に思いますが764年の「除名」は重罪の官人から位勲のすべてを剥奪する重い刑なので、中臣宅守は晩年には無位無官になりました。宅守の生没年齢は不詳ですが、除名された時の年齢は例えば彼が結婚した時が25歳位でしたら50歳位で、30歳で結婚したなら55歳位になります。

中臣氏系図に依れば宅守の家族は、妻が狭野茅上娘子、子供は女の子と、男子の中臣真広 が居りました。祖父の中臣意美麻呂は妻が7人ですが、さすがに宅守の妻は身分違いでしたが最愛の狭野茅上娘子だけでした。                           以上                                                                                                                   2023年2月20日   寺前みつ子

 

 

 

 

 

 

 

 


万葉集を読む: 「大津皇子24歳の死を探る」

2021-02-09 12:02:45 | 万葉集

        (奈良県葛城市にある二上山の山頂にある大津皇子に墓地)         

          

                                             万葉集 大津皇子24歳の死を探る          

        大津皇子、石川郎女に窃(ひそ)かに婚(あ)ひし時に 津守連通(つもりのむらじとおる)のその事を                           占へ露はすに皇子の作りませる御歌一首 

大船の 津守が占(うら)に告(の)らむとは 兼ねてを知りて 我が二人寝し  万葉集2109 大津皇子

(津村の占に露見する事は前もって分かっていて、それでも私たちは二人寝たのだ)

    大津皇子は懐風藻に「その人柄は自由気ままで規則に拘らず」と書かれている彼らしい大胆な歌であるが、この大津皇子の自害に至る24年間の人生の一端を資料から調べたいと思う。

    この歌の相手の女性・石川郎女は大津の高祖父・蘇我倉山石川麻呂につながる大和高市郡石川の豪族の出身とみられている。万葉集2‐129の詞書に「大津皇子の宮の侍(まかたち)石川郎女」とあるが、その遠縁であってか侍(まかたち)すなわち大津皇子宮の侍女をしていたことが知られる。

あしひきの 山のしづくに妹待つと わが立ち濡れし 山のしづくに  万葉集2107 大津皇子

吾(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに 成らましものを 万葉集2108 石川郎女

    大津皇子と石川郎女の相聞歌だが、同時期に皇太子草壁皇子も石川郎女(大名児)に下記の相聞歌を贈っている。(石川郎女は万葉歌人としても非常に有名な女性である。)

                                                                 日並 皇子尊の、石川女郎(大名児)に贈り賜へる御歌一首               

大名児が 彼方(をちかち)野辺に刈る草(かや)の 束の間もわが忘れめや  万葉集2110 皇太子草壁皇子

    皇太子草壁も交えた三角関係であるので一般には非常に難しい恋愛であり、2-109番の詞書にあるように自分の侍女であった石川郎女と“窃(ひそ)かに”逢った事が知られる。にも拘らず大津皇子は「二人寝た事が露見しても構わない」と豪語している。「窃(ひそ)かに」という言葉遣いには、「禁忌を犯す」不倫の意味があって石川郎女は既に草壁皇子の愛人で、大津皇子が奪って恋人にしたのではないかとも考えられている。

   津守連通(つもりのむらじとおる)(当時有名な陰陽師)の占に露見する事はと大津皇子が歌うが、当時彼は常に監視されていてそれも感知していただろうと推測される。                              

 皇太子草壁は現天皇の天武と 鸕野讃良皇后の一人子で681年に皇太子になった。すでに679年に天武天皇との吉野の盟」では第一の皇子であり(大津皇子は第二)この事実上の後継者を6人の皇子で守る事が誓約された。一方大津皇子の母の大田皇女は天智天皇の皇女で 鸕野讃良皇后の姉にあたり普通ならば皇后になり草壁と同年齢の大津が皇太子になり得たと思われるが、母の大田皇女は大津が4歳の時に亡くなり唯一の兄妹である姉の大伯皇女も斎女とされ伊勢に行ったので大津には後ろ盾は乏しかった。                              

 『日本書紀』天武天皇12年(683年)に「大津皇子、初めて朝政を聴しめす」とあり草壁皇太子の2年後の事であるが、これで草壁と同等の皇位継承権が発生し皇太子草壁の後継は曖昧なものになったと言う考えもあり、天武天皇亡き後直ちに草壁の母・鸕野讃良皇后は大津皇子に謀反が有りとして大津を自殺に追い込む。

 『日本書紀』大津皇子が死を賜った(686年)10月3日の記事の後に「彼は威儀備わり、言語明晰で天智天皇に愛されておられた。成長されるに及び有能で才学に富み・・・」とある。         『懐風藻』に「大津皇子は天武天皇の第一皇子である。丈高くすぐれた容貌で度量も秀でて広大である。た。性格はのびのびとし自由に振舞って規則などには縛られなかった。高貴な身分でありながらよくへりくだり人士を厚く待遇した。このために皇子につき従う者は多かった。                                                                                                 当時、新羅の僧で行心という者がいた。天文や占いをよくした。僧は皇子に告げてこう云った。“皇子の骨柄は人臣に留まっていて良いという相ではございません。長く下位に留まっておりますなら、おそらく身を全うすることはできないでしょう”」などと書かれている。                                                                                 第二の皇位継承者がこのように有能で人々に慕われる人物であった事は、古今の歴史でもその直近の事件を見ても非常な危険を伴っていた。

   まず658年、天智天皇が中大兄皇子の時代に実権は中大兄皇子が握りながら叔父を孝徳天皇にし、その天皇亡き後は天皇の子の有間皇子を蘇我赤兄にそそのかせて謀反の罪で処刑した。19歳の有間皇子の痛切な嘆きの歌に、人々は未だに同情を寄せている。                  

磐代の 浜松が絵を引き結び 真幸くあらばまた還り見む        万葉集2141  有間皇子           家にあれば笥に盛る飯を 草枕旅にしあれば 椎の葉に盛る     万葉集2142 有間皇子

   更に672年、古代日本最大の内乱と言われる壬申の乱では、天智天皇は我が子の大友皇子を後継にする意思を示すと天智天皇の弟の大海人皇子は大友皇子を皇太子に推挙して自分は出家して吉野に下った。しかし天智天皇が崩御されると直ちに大友皇子を攻め、戦いに敗れた大友皇子は24歳で自決した。反乱者の大海人の皇子が天皇の後継者を自害させて、天皇になったと言う日本では例を見ない事件も大津皇子の死のわずか14年前の事であった。

   大友皇子が叔父大海人皇子との戦いに敗れ24歳で自決した当時、大津皇子は10歳位だったが親しい従兄の皇位継承者としての悲劇を目の当たりにして、凡庸ではなかった彼が第二の王位後継者である吾身の危険を感じざるを得なかったであろう。大津皇子が死に臨んだ時に中国の臨刑詩を元にしたと思われる漢詩を遺している。「鼓声生命の短を催す、日光西に向いて斜めなり、黄金に客主なし、今夜誰が家に向かはむ」この隋の捕虜になって受刑を待つ長安に連行された陳後主(553~604)の詩を常々吾身と重ねていたのではないか。この詩は丁度天武元年672年に唐から智蔵法師が帰国し彼の弟子の智光が陳後主の詩を収録していたので、智蔵法師と大津皇子は天武期の詩壇での交流があった可能性が高い事から大津に伝わったと考えられる。

日本書紀』には「天武天皇が686年9月9日崩され24日以降に本格的な殯宮礼儀が始まり、この時に大津皇子は皇太子に謀反を企てたとして、10月2日その謀反は発覚して逮捕され、合わせて皇子大津に欺かれた人々30余人を捕らえた。10月3日皇子大津は自宅の訳語(おさだ)田(た)で死を賜った。時に年24歳。妃の山辺皇女(天智天王の皇女)は髪を乱し裸足で走り出て殉死し、見る者は皆すすり泣いた」と書かれている。妃が裸足で走り寄って殉死されたと言う稀有な事柄ほどに大津皇子は妻にも愛された人物だったのであろう。

    皇太子草壁のライバルとしては有能で人望の厚い大津皇子は、父の天皇亡き後に生き残れる道は今謀反を起こすしかないと思ったかもしれないし、「人士を厚く待遇し、皇子につき従う者は多かった」と言われた大津を支持する人も少なく無かったであろう。特に天智天皇に愛されたと言う大津皇子には天武天皇の急激な改革に親しまず天智天皇を慕う人々の支持も当然多かったであろう。彼の性質からして、僧になって一時でも逃れるとか姑息な手段で生きようとは思わなかったと推測する。『懐風藻』に河島皇子一首として「はじめ大津皇子と莫逆の契を為しつ、大津の逆を謀るに及びて河島則ち変を告ぐ・・・」とあり、大津皇子が疑いもせずに親友の河島皇子に心の内を語った処、河島が直ちに皇后方に知らせたと言われている。

 10月2日に謀反として発覚し次の3日には大津皇子は死を賜る。初めから監視され、予定されていたような早さであり大津皇子以外30余人の杵(ときの)道作(みちつくり)は伊豆に、新羅の沙門行心は飛驒に流されたが、他は全て詔により許された。大津の刑執行の速さとそれ以外の者の刑の軽さが不自然と思われている。

 『日本書紀』には、「大津皇子は有能で才学に富み、特に文筆を愛されたこの頃の詩賦の興隆は大津皇子に始まったと言える」と讃えられていて、彼の七言絶句「春苑言宴」、「狩猟」など優れた作品と言われ、臨終の歌は陳後主の臨刑詩を思いながらであろう、下記を遺している。

鳥は西舎に臨(て)らひ 鼓声短命を催(うなが)す 泉(せん)路(ろ)賓主無し                                                                                                             此の夕べ家を離(さか)りて向ふ       大津皇子           

ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ 万葉集3-416   大津皇子        

   皇太子草壁については『日本書紀』に「13日皇太子草壁皇子尊が薨去された。」と半行あるのみで大津皇子に就いての様々な記事とは違い皇太子草壁自身の個人的な記述は何処にもない。大津皇子の自害の3年後に皇太子のままでの病死であった。柿本人麻呂が日並皇子尊(草壁皇子)の殯宮の時に作った有名な長歌と短歌があるが一般的な壮大な歌である。

   大伯皇女は大津皇子の姉であり、父は天武天皇、母は大田皇女(天智天皇の娘で持統天皇の同母の姉)であり、大伯皇女は実存する初代斎宮で壬申の乱の戦勝を感謝するために13歳で選ばれた。大伯皇女は非常に高貴な血筋の女性であったので有力な皇子と結婚すると弟の大津皇子の強力な後ろ盾になり皇太子草壁の地位を危うくすることを恐れられ遠い伊勢の斎宮に任命されたと考えられている。

          大津皇子秘かに伊勢新宮に下りて 上り來る時に大伯皇女の作らす歌二首                 我が背子を 大和へ遣るとさ夜ふけて 暁(あかとき)露(つゆ)に我が立ち濡れし 万葉集2‐105  大伯皇女        二人行けど 行き過ぎ難き秋山を 如何にか君がひとり越ゆらむ                             万葉集2‐106    大伯皇女

    万葉集の中でも人々の胸を打つ大伯皇女の歌は、全て弟の大津皇子への哀傷歌である。上記は大津皇子が伊勢に行って姉の大伯皇女に会った後に作られた歌とされ、斎宮に会えるのは天皇の勅使のみで弟でも許されなかったと言われるが, 彼は禁を破り死をも予測して今生の別れを唯一の姉に会いに訪れたのであろうか。『万葉集全注』によると飛鳥から伊勢まで約100キロ、大津皇子は人目を避けて吉野を経て行く迂回路を馬で往復したとしても朝早く発つと夕方には伊勢に着くそうである。

        大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬(はふ)りし時に、大伯皇女の哀しび傷みて作りませる御歌二首         うつそみの 人なる我や 明日よりは二上山を弟(いろせ)と我が見む                   万葉集2165      大伯皇女      磯の上に 生ふる馬酔木(あしび)を手折らめど 見すべき君がありと言はなくに 万葉集2166 大伯皇女

    この歌により、大津皇子の遺体は二上山に移葬されたと思われていて、私も以前高さ500mの二上山に 登ってその墓地を訪れた事がある。度々お詣りに登っていると言う男性に会うと「あなたも皇子を偲んでですか、全国からも来られるのですよ」と言った。                                  大伯皇女は天武天皇の崩御が686年9月で、それに依って斎宮の任を解かれ京に着いたのが11月であったが、その前月10月に弟大津皇子は死を賜っていた。701年には大伯皇女が41歳で亡くなった。                           2021年5月                            石川県小松市「万葉集をよむ会」   寺前みつ子